2022年09月24日「日々恵みを知る」

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日々恵みを知る

日付
説教
杉山昌樹 牧師
聖書
詩編 34章1節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

34:2 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
34:3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
34:4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
34:5 わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
34:6 主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
34:7 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
34:8 主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
34:9 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
34:10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
34:11 若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
34:12 子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。
34:13 喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者は
34:14 舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ
34:15 悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。
34:16 主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
34:17 主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。
34:18 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。
34:19 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。
34:20 主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し
34:21 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。
34:22 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。
34:23 主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
詩編 34章1節~23節

原稿のアイコンメッセージ

詩編34編2-23「日々恵みを知る」 杉山昌樹牧師(上福岡教会)
幸せに生きる?
教の説教題は「日々恵みを知る」としました。私たちは誰でも幸せに生きたい、と願っています。そして幸せに生きるためには秘訣があるはずです。おそらく今日の詩編は、その秘訣を教えてくれる、そんな内容です。ところで、ビートルズの”Here there and everywhere”という曲の出だしはこうでした。” To read a better life I need my love to be there”直訳してしまいますとつまらないかもしれませんが、「良い人生を送るために、僕には愛する者がそこに必要なんだ」くらいの感じでしょうか。もちろん、この場合には、女性、恋人、妻のことを言っているのです。けれども往々にして、この手のラブソングは異性を、神様に読み替えることができます。そうしますと「良い人生を送るために、僕には神様がそこに必要なんだ」となります。人生の節々に、あるいは日々の生活に神様がいてくれる必要がある、おそらくこの詩編の意図するところはこれです。

ダビデの詩編
所で、先ほどは読みませんでしたけれども、この詩編にはいわゆる表題がついています。それによるとこれは、ダビデの詩編で、しかも、ダビデにとってとてもつらい状況を思い出しつつ読まれたもの、ということになります。「ダビデがアビメレクの前で狂人の人を装い、追放されたときに」とありますのは、サムエル記上21章14節以下で描かれている出来事です。ただし、その記事では、ペリシテの王の名は「アキシュ」となっています。しかし、創世記を見ますとペリシテの王には「アビメレク」がいたばかりでなく、アブラハムの時代にも、その子のイサクの時代にもこの名の王がいた(創世記20章2節、26章32節)ということになっていますから、言い伝えによって名前が変わってしまったということかもしれません。とりあえず王の名前はともかくとしまして、ダビデはこの時、先代のサウル王に命を狙われ、親友であるヨナタンの機転で危うく殺されそうなところから逃げ出し、さあ、これからどうしよう、という状況でした。自分の国にとどまっていては殺されてしまいますので、あえて敵であったペリシテに逃れて、その王の前に出たときに、これは不利だと即座に判断し、よだれをたらし、奇声をあげて、気がふれた人のふりをして見せた、という場面が描かれています。生きるか死ぬか、とてもつらい時の様子が振り返られています。その後、ダビデは、なお、サウル王から命を狙われ逃亡生活を続けていくことになりますが、神様に守られてやがてユダの王となり、イスラエル全体の王に迎えられていきます。しかし、王となっても罪を犯し、晩年には息子から命を狙われるということもありました(サムエル下15章1以下)。そのような、度重なる試練、艱難を乗り越えたダビデが、後に続く世代に向けて幸せに生きるためにはこのように歩むとよい、という招きの言葉として語ったのがこの詩編です。

苦難の中で
それで、「幸せ」という言葉とはまるで逆のように感じるかもしれませんが、この詩には重要な言葉が含まれています。それは20節です。「主に従う人には災いが重なる」、ええっと思います。私たちもまた、イエス様を神と信じて、神様の子、神様に従う者になりました。そのようにして神様に従う人には、全く苦労はない、ということを期待したくなります。けれども、そうではない、というのです。むしろ、禍が重なっているかのように思われる時が何度も来る、というのです。そしてそのような例は聖書を読めばいくらでも見つけ出すことができます。もちろん先ほどのダビデ王がそうでした。預言者サムエルによって油を注がれて(サムエル上16:1以下)、将来王となるものとされて以来、神様の恵みと力づけ、特別な引き立ても数多くありましたが、同時に先ほどもお話しした通り、苦難もまた多くくぐらされました。それは、例えば、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフもそうですし、預言者であるエリア、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、と時代が移っても同じです。それぞれの時代に、神様によって召し出された人たちは、祝福も多くいただきますが、同時に苦難に出会っています。問題は、そこで、苦難と共に逃れの道を備えていただく(コリントⅠ10:13)ことができている、という事実です。

打ち砕かれた心
そこで、もう一つ今日の詩編で注目したい言葉があります。19節です。もう一度読みます。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」。例えばダビデの歩みであれば、先ほど罪を犯したということを言いましたけれども、それは具体的には姦淫と殺人の罪でした。部下であるウリヤという人の妻バテシェバと関係を持ってしまい、妊娠が隠し切れなくなると、ウリヤを激戦地に送り込んで戦死させてしまいます。しかし、このことは預言者ナタンによって明らかにされ、バテシェバとの間の最初の子は生まれてすぐに病死してしまいました。その折に詠まれたとされているのが有名な詩編51編です。今日は19節だけを読みます。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。この場合には、もちろん、ダビデ自身に大きな罪があって、神様はそれを打たれたのでした。しかし、例えばヨブのように、身に覚えのない苦難が与えられることもあるかもしれません。しかし、大切なのは、どのような苦難であれ、それを神様との間の問題としてみていくことです。神様に助けを祈るのです。そのような中で私たちは二つのことを味わうのです。一つは自分の貧しさです。私たちは、多くの場合、自分の力で苦難を乗り越えることができません。或いは、自分の力で、ちょいちょいと対処できるのなら、それは苦難とは呼べないかもしれません。本当の苦難を前にして私たちは自らの無力さを思い知らされるのです。

貧しくされ助けを知る-詩人の体験
今貧しさということを言いました。実は今日の詩編34編の語り掛けでは、この「貧しさ」がカギとなっています。例えば3節では「貧しい人よ」と呼びかけています。これは、詩人が、それを読む人たち、それは私たちを含めてですが、あなたたちは主にあって貧しい人たちだ、そうあるべきだ、と言っていることになります。あるいは7節で「この貧しい人が」とありますのは、ダビデ自身のことです。ダビデの自己意識は「貧しい人」だったのです。或いは神様によって貧しくされた人、だったのです。しかし、そのように自らを貧しいものと理解する、打ち砕かれた心のそばにこそ、神様はいて下さる、という事実をダビデは体験的に味わったというのです。それが、先ほどの7節全体で言われていることです。もう一度7節を読んでみます。「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。」。あるいは16節と18節はこうでした。「主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる」(34:16)。「主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。」(34:18)、ここで特に注目したいのは「苦難から常に彼らを助け出される」という言葉です。苦難は何度でもやってくるのです。しかし、その度に神様の助けもまたやってくるのです。私はそれを何度も味わってきたとダビデは言いたいのです。
神の陣ぞなえ
神さまに助けを求めると、神様はそれにこたえて、苦難の中から助け出してくださる、ということを何度も、何度でも体験したのです。そのような体験が積み重なっていく時に、神様の守りに取り囲まれていることを知っていくのです。それは神様の陣に譬えられます。8節にある通りです。「主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。」苦難は変わらずにあるのです。けれども、その苦難の中にあるダビデが不思議と助け出される、いつでも、何度でも、助け出される、まるで、自分の周りに見えない、天使たちの陣地があるかのように、私は守られてきた、そのようにして恐ろしいところを通り抜けてきた、そして、これからもそうなるだろう、それはあなた達もまた同じなのだ、その際大切なのは、ただ一つのこと、それは、神様から離れないこと、主を畏れる人でありつづけることだ、というのです。

義をなす
そして主を畏れるということはとても具体的な生き方だ、というように続きます。それは、12節以下にある通りです。これももう一度読んでみます。「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者は、 舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ、悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。」(34:12-15)。喜びをもって生き、長生きして幸いに生きようとするものの生き方は、悪を遠ざけ、善を行い平和を尋ね求め、追い求めよ、とある通りです。特に平和については探し、追及せよ、と二重に命じられています。そしてこの平和は、観念的なことではありません。先週月曜日に、信徒大会でもコロサイ書からお話ししましたが、この平和とは、イエス様の平和です。イエス様の平和が心を支配する(コロサイ3:15)、そのようなありかたです。そして、イエス様の平和が支配する、ということは、具体的な人間関係において、あなたと私の関係において、赦し合っていくというありかたです。悪に悪を返すのではなく、悪に善を返していく生き方です。苦難の中で、簡単に暴力的解決を求めない生き方です。

神を味わう
いずれにしましても、私たちには生きている限り、何らかの苦難があるのです。けれども、そこにおいてこそ、毎回毎回、神様の助けがあるのです。天使が陣を敷いてくれていることを体験するのです。そのことを繰り返し体験することをダビデは勧めています。それが「味わい、見よ、主の恵み深さを」という9節の言葉の意味です。私たちは、日常生活の中で訪れてくる苦難の中で、全く弱いものとして、神様に助けを祈って生きていく中で、様々な形で神様の助けと解決を与えられていくのです。それは、ひょっとして自分が望んだ通りではないかもしれませんけれども、なお、そこに確かに神様の助けを見出せるのです。そのようにして私たちは、神様の恵み深さを味わいながら生きていくのです。

日々恵みを知る
今週のあゆみ、来月のあゆみもまた、必ずしも、順風満帆だけではないかもしれません。大きなことから小さなことまで、私たちの心を悩ませる出来事が起こりうるのです。しかしそこにおいて神様に身を寄せるのです。そのようにして神様と共に歩んでいきます時に、私たちはいよいよ、神様が苦難から助け出してくださる方であることを知らされるのです。

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