2020年06月07日「心を合わせて祈る」

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心を合わせて祈る

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 1章12節~14節

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使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。使徒言行録1章12節~14節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 1章12節~14節

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<説教要約>
使徒言行録1章12-14節 (新約 P213-214)
説教 「心を合わせて祈る」   

先週から、会堂での礼拝を始めています。
新型コロナウィルス感染予防のため、いろんなことを考え、準備をし、予防策を取りながらの再開です。何かを始める時には、そのための備えが必要です。
イエスの昇天後、残された弟子たちはこれからの働きのために備えをしています。
弟子たちは、約束された聖霊が与えられるまでに、自分たちのできる形で備えをしたのです。
それが、使徒言行録1章12節から26節までに記されています。
弟子たちは二つの備えをしました。
一つは、心を合わせて祈ること。もう一つは、教会の体制、とくに働き人を整えることです。
今日は、12節から14節。「心を合わせて祈る」という彼らの備えについて見ていきます。

イエスは弟子たちに、聖霊が与えられるという約束と、イエスの証人となるという働きを与えて、天に昇りました。弟子たちは、イエスを天に見送った後、エルサレムの、彼らが泊まっていた家に戻ってきた、と記されています。そこに集まったメンバーは、
まず「ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダ」。イエスの12弟子の中で、イエスを裏切ったユダ以外の11人です。
しかし他にもメンバーがいました。それが14節。
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
「婦人たち」「イエスの母マリア」「イエスの兄弟たち」が共にいたのです。
それぞれについて、詳しく見ていきましょう。

<婦人たち>
婦人の弟子については、ルカ福音書8:1-3に最初の言及があります。
「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」
彼女たちは自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していたとありますので、イエスや弟子たちの身の回りのお世話をする働きをしていたのかもしれません。それも必要な働きです。ですが彼女たちもイエスのそばにいて、イエスの話を聞いていたはずです。
このうちの何人かが、イエスに従ってエルサレムにまで行き、イエスが逮捕され、裁判にかけられ、十字架にかけられた時もずっとそれを見守っていたのです。
ルカ福音書は、十字架の場面で
「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」(ルカ23:29)と記しています。
イエスの十字架を見守る人々の中に、12弟子の名はありません。
一方で、ガリラヤから従って来た婦人たちについては、マタイ福音書に
「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」(マタイ27:56) とはっきり名前が記されています。
また、ルカ福音書には、イエスが葬られた墓を確認し、三日目の朝早く墓へ行って天使に遭い、最初にイエスの復活を知ったのは、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリヤ、そして一緒にいた他の婦人たちであった。」(ルカ24:10)とあります。
ですから、今ここで祈りに加わっている女性たちは、イエスの十字架と死と葬りと復活という、キリスト教にとって大変に重要なことの証人なのです。

<イエスの母マリア>
祈っているメンバーの中にイエスの母マリアの名があります。
ヨハネ福音書に、母マリアが十字架を見守っていたことが記されています。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(ヨハネ19:25)
この時の母マリアの心境はどんなだったでしょうか?
実は幼子イエスを神殿にささげる時に、シメオンという預言者がマリアにこう言いました。
「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:34-35)
この預言の通り、マリアは、イエスの十字架に立ち会いながら、自分自身の体も刺し貫かれたように苦しかったと思います。
しかしマリアは、イエスの死と復活に立会うことで、イエスが自分の息子ではなく、また預言者でもなく、神の御子、救い主であることを悟ったのではないでしょうか。
マリアは、イエスの誕生から十字架、復活までの、まさに生き証人です。特に、誕生から公生涯までのことは、彼女でなければ語れないことがたくさんあります。ですからマリアが今、母としてではなくイエスの弟子として、この場にいることに大きな意味があります。

<イエスの兄弟たち>
この場にイエスの兄弟たちもいました。イエスは聖霊による受胎という特別な形で、マリアから生まれました。が、イエスが生まれた後、ヨセフとマリアの間に子供たちが生まれています。
その何人かが、母マリアと共にイエスの十字架と復活に立ち会い、イエスをメシア、神のみ子と信じたと考えられます。イエスの兄弟の一人ヤコブは、のちにエルサレム教会の中心メンバーとなっています。

そういう人々が一つ所に集まって、「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。
ここにいる人々はイエスの証人であり、キリスト教の証言者たちです。
誕生からの証言者もいれば、イエスの公生涯の最初からの証言者もいる。
あるいは、病気を癒していただいてから弟子になった者もいます。
これから先のことについて、まだ何一つ具体的なことが分からない中で、今は聖霊が降るのを待つしかできないという状況です。そういう中で、彼らが熱心に続けたのは、共に祈ることでした。
ですがこの祈祷会は、新しい時代、新約のキリスト教会への母体となった、といっても過言ではないでしょう。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(ルカ1:8)
こういう使命を与えられた中で、共に祈る祈りを通して、彼らは互いに励まされ、思いが整えられ、確かなものとなって行ったに違いありません。この祈りの時が、それも、心を合わせて熱心に祈る祈りの時間が、かれらの次のステップへの大きな準備となったのです。

今日の箇所では、二つのことを覚えたいと思います。
一つは、主に仕えること、特にキリストの証人となるという働きには男女両方が用いられたということです。
男性も女性も、それぞれが置かれた状況や、賜物に従って、主の働きに用いられるのです。
時には、時代的な制約の中で、性別の違いが用いられることもあります。
例えば、当時のユダヤ社会は男性中心でした。ですから、12弟子が全員男性だったことで、イエスの活動が社会に受け入れられやすかったと思うのです。
一方で、キリストの十字架と葬りを見届け最初の復活証人になったのは女性たちでした。二人の女性が墓までそっとついて行き、場所を確認しました。これが男性だったら、兵士にとがめられたかもしれません。ユダヤ社会では重んじられていない女性の方が、目立つことなく動けたのかもしれません。
いろいろ考えられますが、こういうことを一つ一つ考えていくと、男性も女性も、それぞれ、ふさわしい場面で働きが与えられ、神の国の働きが進んで行くことが分かります。
これは、今も同じです。
私たちの教派は数年前に、女性教師、女性長老を認めました。神の国の働き、教会の働きは、性別ではなく、賜物に従って用いられるべきことを認めたのです。今、少しずつ女性長老が増えていますが、小会会議には、男性女両方の視点や配慮が必要と感じています。

もう一つは、祈りについてです。
共に集まって祈ることの意味は、何でしょうか?
皆様方も経験されていると思いますが、同じテーマ、同じ課題を祈る場合でも、人によって祈りの視点や内容が違いますよね。私は、他の人と一緒に祈るとき、こんな風に祈ることができるんだ。こんな風に捉えることができるんだ、と隣人の祈りに教えられることが多くあります。互いのために祈り合うことで、励まされ、力づけられます。会員の皆様が、私の働きのためにお祈りくださることは感謝ですし、励ましでもあり、その祈りに支えられていると感じています。
共に祈ることを通して、私たちは同じ方向を見つめ、同じ使命、同じ思いとなることができます。一致が深まるということでもあります。そして、共に祈る祈りは教会の力となります。

弟子たちは、先が見えない中で、心を合わせて熱心に祈っていました。「自分には何もできない」と思える時でも、祈ることはできます。もっと言うなら、「祈ることしかできない」のではなく、「祈ることができる!!」のです。
なぜなら、祈りは独り言ではなく、神への祈りであり、神が目を留めてくださり、聞いていてくださるからです。私の力が及ばない事柄でも、全能の神、なんでもおできになる神が、応えてくださいます。

今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルスのことも、私たちにはどうすることもできない、と諦めるのではなく、私たちの力と私たちの思いを超えて働かれる主が、私たちの祈りに答えてくださる!! そういう思いで、共に祈り続けましょう。
苦しみの中にある人々に平安が戻るように。感染が収束し、何の不安もなく神を礼拝できるように。
共に集い、聖餐式に与り、愛餐の交わりができるときが来るように、共に祈り続けましょう。

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