2022年09月04日「救い出されたペトロ」
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救い出されたペトロ
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
使徒言行録 12章6節~11節
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聖書の言葉
ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。
天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。
ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 12章6節~11節
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<説教要約> 2022年9月4日使徒言行録12:6-11 「救い出されたペトロ」
エルサレム教会の会員が増えて、教会がだんだん大きくなっていきました。また、異邦人の教会であるアンティオキア教会ができ、バルナバとサウロという伝道者も備えられました。このキリストの福音の広がりにキリスト者たちは心を躍らせ、祈っていたことでしょう。
しかし、そういう中で、キリスト教に対する政治的な迫害が表面化したのです。
ヘロデ・アグリッパ1世による使徒ヤコブの殺害と、ペトロの投獄です。
いまやキリスト教会は、ユダヤ教だけでなく、ローマ当局からも目を付けられるようになったのですから、教会の中に、あるいはクリスチャンの間に、大きな動揺が起こったはずです。
こういう状況の中で、12章5節後半に記されているように、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」とあります。
「熱心な祈り」とありますが、実際にはどんな祈りだったのでしょうか?
言葉から考えますと、この時の祈りは「熱心に、深く、いよいよ切に、心を込めて」献げられていたのです。
このような状況で、私たちだったらどんな祈りを献げるだろうか? と考えてみました。
・ペトロの命が守られるように
・ペトロが牢から無事に出られるように
・迫害が、これ以上広がらないように。エルサレム教会やアンティオキア教会の使徒や信徒が守られるように
・福音宣教が、中断しないように
ほかにも、考えられる数々の、具体的な祈りが、なされていたと思います。
ところで、イエスは十字架の直前、ゲッセマネの祈りで、自分の思いを包み隠さず祈られました。
ルカ44:42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と。しかしイエスの祈りはそこで終わりではありません。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」という祈りが続いたのです。実際、この言葉は大変苦しい言葉であったはずです。
ですから「 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」のです。
ですが、祈りは、私たちの思いと神の思いを一つにするためのものであり、私たちは祈ることを通して、神の心を知り、自分の人生に与えられた役割に気づくことができ、神に従う歩みへと導かれます。ですから、祈りは大切なのです。
6節は、牢の中でのペトロの様子が記されています。「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。」
ペトロの両側に兵士がいて、ペトロの両手に手かせがかけられ両側の兵士につながれていました。さらに、牢の前では二人の番兵が見張りをしていましたから、そこから脱出するなど不可能です。しかし、ペトロは「二人の兵士の間で眠っていた」のです。なんとも、肝っ玉が据わっていることでしょう。
しかし、考えてみれば、ペトロはすでに何度か獄に入れられていますし、そこから救い出されています。彼自身の心の思いは、「神が最善をなさるはず」という思いだったのではないでしょうか。
自分に託された働き、使命が残っているなら、ここから救い出されて働きにもどれるはずだし、もう地上に自分の役割がないのなら、キリストの所に行けるはずだ! という思いで、先のことはすべて神の御手にゆだねて眠ることができたのでしょう。
7節から10節には、ペトロが牢から救い出された様子が記されていますが、これはもう、神の介入という以外に、説明のしようがないと思います。
ペトロ自身、これが現実のこととは思えなかった。幻を見ているようだった、とありますから。そして最後11節。
12:11 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」
ヤコブは殉教したが、ペトロは神の介入によって、通常では考えられない方法で牢から救い出され、命が保たれました。これは、ペトロにはまだやるべきことがあったから、託されている働きがあったから、この状況から救い出されたのだ! ということです。ペトロはこの時、それを理解したのです。
かつて主イエスがペトロに与えられた言葉を確認しましょう。
マタイ16:18-19です。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
ここで主イエスは、「この岩の上に教会を建てる」と言われ、さらに「天国の鍵を授ける」と言われました。この箇所の解釈については、細かい話があるのですが、しかし少なくとも主イエスは、ペトロに「キリストの教会を建てる」という使命を託されたということは明らかです。ペトロは、キリストの教会を建てるための地上での働き、役割が残っていたのです。
今日の箇所から、わたしたちも、その時々で与えられている使命、役割、生きる意味があることを覚えたいと思います。
人は、生まれるとき、死ぬ時を自ら選ぶこと、決めることはできません。命は神の御手の内にあります。そして、今、命が与えられ生かされているなら、神から託されている役割、使命があるのです。
逆に、この地上での役割がすべて終わったなら、神は、わたしの命をみもとに召してくださいます。
ですから、私たちは、生きているなら、生かされているなら、それがどのような状況であったとしても、その中で自分に与えられている役割を見つけ、果たす努力をすべきです。
しかし、置かれている状況が厳しいと、それが見えなかったり、そんなこと忘れてしまうということもあるでしょう。では、どうしたら、神の御手の中で生かされていることを覚え、与えられている役割を果たす努力を続けることができるでしょうか?
そのために大切なことが二つあります。ひとつはイエス様から目を離さないこと。もう一つは、祈りで支えあうことです。
大会時報(No240 2022年8月15日発行)に掲載された、泥谷逸郎牧師の追悼文(週報裏面にも掲載)をお読みください。
そして、私たちも、イエス様を見上げつつ、祈りによって支え合いながら、天国までの道を共に歩んでまいりましょう。