2022年08月21日「祈りをあわせる」

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祈りをあわせる

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 12章1節~5節

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そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、
ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。
ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。
こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 12章1節~5節

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<説教要約> 2022年8月21日 使徒言行録12:1-5 「祈りをあわせる」 新約P236
本日の礼拝から、「使徒言行録の説教」を再開します。
今日は12章の最初です。11章の後半で、エルサレム教会以外の教会、しかもユダヤ人以外の人々を中心としたアンティオキア教会の誕生が記されていて、その続きです。そして13章からパウロの伝道旅行が始まります。つまり12章は、教会が世界宣教に向けて動き出す直前の様子が記されているのです。

12章の最初に、突然ヤコブの殺害のことが記されています。本当に短い記述で。
先ず、ここで登場する「ヘロデ」と「ヤコブ」について説明しておきます。
この「ヘロデ」は、イエス誕生の時の「ヘロデ王」とは別人物です。イエス誕生の時のヘロデ王は、通常「ヘロデ大王」と呼んで区別します。12章のヘロデ王は「ヘロデ大王」の孫にあたる人で、正式には「ヘロデ・アグリッパ1世」といいます。彼は大変な策略家で、うまく立ち回り領地を少しずつ増やしていき、AD41-44年には、祖父ヘロデ大王の支配地とほぼ同じ領地をローマ皇帝から任されていました。
しかし、彼は、純粋なユダヤ人ではありませんでした。それで、何とかユダヤ人たち、特に当時力のあったファリサイ派の指導者たちの機嫌を取って、穏便に領地を治めたいという思いがあったようです。
そういう事情があって、ヘロデは、当時ユダヤ教が目を付けていた、キリスト教会に迫害の手を伸ばしたのです。それが、「教会のある人々に迫害の手を伸ばした」という短い文章の背景です。

2節には「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」とあります。「ヨハネの兄弟のヤコブ」と記されていますから、12使徒のなかで、ゼベダイの息子、そしてヨハネの兄弟ヤコブだということがわかります。
マタイ福音書には、イエスがゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネに声をおかけた記事が記されています。
マタイ4:21-22 「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」
とあります。このヤコブがヘロデに殺害されたヤコブです。
ヤコブの殺害について、とても短く記されています。
ですが、この出来事は教会にとっては小さなことではなかったはず。教会も、信者たちの中にも、大きな動揺があったはずです。

また、ヤコブの殺害を「ユダヤ人は喜んだ」と記しています。ですから、ヘロデはさらに調子に乗って、迫害の手を「ペトロ」にまで向けたのです。

ペトロは以前にも、逮捕されたことがありました。しかし、今回はユダヤ教の指導者による逮捕ではありません。ヘロデによる逮捕、つまり政治権力による逮捕投獄です。そして、ローマへによる見張りがつけられました。ヘロデは、数日後にはペトロも殺害するつもりだったのです。
このことが伝えられた教会は、ペトロのために集まって、熱心に祈っていました。
                                                                                                                                                                                                                                              エルサレム教会の中心的な指導者が殺害されれば、教会全体が委縮していく可能性は十分に考えられます。ヘロデもユダヤ教指導者たちもそれを狙っていたはずです。
しかし、ヤコブは殺害されましたが、ペトロは不思議な方法で救い出されたのです。
神の力が働いたとしか思えないような不思議な方法で。
ですから、この一連の出来事によって、教会全体が委縮するということは起こらず、かえって力を得たのです。それは、12章24節を見るとわかります。「神の言葉はますます栄え、広がって行った。」

一方で、ヤコブは殺害されたのに、ペトロは助け出されたのですが、この違いはどうしてでしょうか?
ヤコブはペトロに比べて劣っていたから、このようになったのでしょうか。
あるいは、ヤコブの死は、なにか特別な意味、役割があったのでしょうか。
いろいろ思うのですが、いくつかのことをお話ししたいと思います。

まず、ヤコブの死は決して無意味なことではなかったと思います。この出来事を通して、キリスト者たちは、キリスト者として生きていくこと、福音を伝えることは、生半可なことではなく、命がけのことだということをはっきり意識したはずです。
また、ヤコブの殺害だけであれば、あるいはさらにペトロまで殺害されれば、教会全体は委縮したかもしれません。しかし、ヤコブの殺害とペトロの救出の両方があったことで、教会は、大きな決意と覚悟を持って、また勇気と希望をもって、福音宣教に臨む心構えができたはずです。
ですから、ヤコブが殺害されたことは残念ですが、しかしこのことも含めて、神の救いのご計画が着々と進んでおり、キリスト者一人一人に役割と働きが与えられているのだと思うのです。

私たちは、人との比較で物事を考えがちですが、そうではなく、私たち一人一人に対する神の御心、召命は異なるということを覚える必要があります。みな公平に同じではないのです。
しかし同時に、私たち一人一人のために、キリストは十字架で死なれたのですから、一人一人が神の前に大切な存在であり、愛されているのだということも重要な真実です。

神は、仕事も家族も捨てて主イエスに従ったヤコブを、軽んじたり、おろそかにされたのではありません。ヤコブも神に愛された大切な弟子であり、彼のためにもキリストは十字架で死んでくださったのです。

ここでの神のご計画は、ヤコブが命を救われることではなかったとしても、それでも、私たちは、愛する主の民のため、隣人のため、教会のために祈りを合わせることが求められているのだと思います。
ヤコブの命が救われる祈りは、神のご計画とは異なることだったとしても、愛を持って隣人のために祈ることを神は求めておられるし、教会の祈りとしてそのような祈りがささげられたはずです。

しかし教会には、さらに大切な、祈るべき課題があります。それは神の福音が宣べ伝えられ、神の国が広がっていくことを求める祈りです。
私たちも、神の国の進展のため、互いの救いのために、心をあわせて祈っていきましょう。

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