2022年07月31日「むさぼってはならない」
問い合わせ
むさぼってはならない
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
出エジプト記 20章12節~17節
音声ファイル
礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。
聖書の言葉
「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 20章12節~17節
メッセージ
関連する説教を探す
<説教要約>
聖書 出エジプト記20:12-17節 説教 「 むさぼってはならない 」
朝の礼拝では十戒の学びを続けてきましたが、本日は十番目の言葉である第十戒「隣人の家を欲してはならない」、出エジプト記では20章17節です。
20:17「 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
「欲する」というヘブライ語は、心の思いである欲望と共に、その結果の行為までをも表す言葉だそうです。ですから、「隣人の家を欲してはならない。」とは、私たちの心の問題について教えているだけではなく、その結果として起こりうる行為まで含んでいるのです。
「欲する」とは、欲しいと思う、 願う、 望むなどと言い換えることができます。これは私たちの心の思いです。「欲する」こと自体は罪ではありません。問題は、欲する心が向かう方向性です。
第十戒は「隣人の家」具体的には、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のもの」を欲することを禁じています。
隣人が所有しているもの、隣人の生活状況をうらやむ心が罪の行為につながっていくからです。
ではなぜ、私たちは隣人をうらやむ心が起こるのでしょうか?
人との比較で神の恵みを考えようとする私がいます。
そして、神から与えられている恵みに満足できない私たちの心があります。
思い返せば、私自身この思いとずっと戦ってきました。
自分と他の人とを比較し、引け目を感じ、落ち込む、ということの繰り返しでした。特に若いころの私は、いつも、人との比較でいろんなことを考えていたように思います。
しかし、あるとき出会ったみ言葉で、目が開かれました。第二コリントとの12章9節です。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
使徒パウロが記した言葉です。パウロといえば、命がけでキリストの福音を宣べ伝え、多くの教会を建て、また新約聖書には彼の手紙がたくさん収められている、神に用いられたキリストの弟子です。ですがそのパウロでさえ、弱さがあると告白しているのです。しかし神は、彼の弱さでさえもお用いになるのです。
私たちは、自分の賜物や環境や、いろんな状況に対して、不平不満を言いたくなります。人との比較で文句を言いたくなることも多いものです。
そういう私に対して、神は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と語りかけておられるのです。
第十戒はむさぼり、欲張りへの戒めですが、これは、いま自分に与えられている神の恵みに満足し、感謝する心を教えているのです。
それではいつものように、ウェストミンスター小教理問答を見ましょう。
問79第十戒は、どれですか。
答 第十戒はこれです。「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。
問80 第十戒では、何が求められていますか。
答 第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです。
問81 第十戒では、何が禁じられていますか。
答 第十戒が禁じている事は、すべて私たち自身の身分に満足せずに、隣人のしあわせをねたんだり恨んだりすること、またすべて、隣人の所有するどのようなものにでも法外な意向や愛着を寄せることです。
問80では、「私たち自身の状態に全く満足すること」とあります。
私に示されている神の愛を信じ、神の恵みを信じ、「わたしの恵みはあなたに十分である」という、この言葉を心に刻みましょう。これは決して気休めなどではなく、神の愛に基づく真実です。
ハイデルベルク信仰問答では問113が第十戒についてです。
問113第十戒では、何が求められていますか。
答 神の戒めのどれか一つにでも逆らうような
ほんのささいな欲望や思いも、もはや決してわたしたちの心に
入り込ませないようにするということ。
かえって、わたしたちが
あらゆる罪には心から絶えず敵対し、
あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。
ハイデルベルク信仰問答は、私たちの心の問題を強調しています。
一か所、聖書を開きましょう。
マタイ6:33 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
神の国とは、神の恵みの支配に入れられることです。それは、イエス・キリストを信じる信仰を通して与えられる恵みです。
また神の義とは私たちが神のみ前に義人となる、聖人となるということではありません。「御子の十字架によって私たちに与えられる神の愛、罪の赦し」のことです。
ここでは、私たちが何よりも「イエス・キリストを信じる信仰を求めるように!」と教えているのです。
70周年宣言も確認しましょう。
「隣人の家を欲してはならない」
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」
神と共に生きる喜びを失った人間は、その虚しさと喪失感を埋めることができない。人の魂の飢え渇きを満たすのは、ただ主イエス・キリストの福音のみである。
わたしたちは、わたしたちのためにすべてを捧げ尽くされた十字架の主を仰ぎ見て、この方の内に真の幸いを見出そう。
それ故、わたしたちは、この世の富に執着する貪欲、他人の幸せへの羨望、すべての悪の根である金銭欲への誘惑から心を守り、福音に生きる道を選び取る。
70周年宣言は、私たちが何を第一に求めていくのか、どういう方向に歩みを進めていくのか。人生の歩みの方向性を教えています。
「わたしたちのためにすべてを捧げ尽くされた十字架の主を仰ぎ見て、この方の内に真の幸いを見出そう。」
十字架の主に向かって進んでいくように!と教えています。
そして、
「わたしたちは、この世の富に執着する貪欲、他人の幸せへの羨望、すべての悪の根である金銭欲への誘惑から心を守り、福音に生きる道を選び取る。」と宣言しているのです。
イエスに従う信仰の歩みにおいて、聖霊なる神の導きと支えとともに、私たちの心、意志も重要です。
「主イエスの十字架を仰ぎつつ、福音に生きる道」つまりキリストの愛に生きる道を選び取っていこう!という決心、決断が私たちそれぞれに求められています。