2022年06月19日「なぜ殺してはいけないの」
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なぜ殺してはいけないの
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- 木村恭子 牧師
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出エジプト記 20章12節~17節
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聖書の言葉
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 20章12節~17節
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<説教要約>
説教 「 なぜ殺してはいけないのか 」
今日の話は第六戒、出エジプト記20章13節、「殺してはならない」です。
そして、今日の説教題は「なぜ殺してはいけないのか」です。
日本の法律には殺人罪があり、人を殺すと罰せられます。
でも、殺人罪について規定した条文には「なぜ人を殺してはいけないのか」は明記されていないそうです。
人を殺すと罰せられますが、それはなぜか? 理由は書かれていないのです。 どうしてでしょうか?
しかし聖書は、人を殺してはいけない理由をはっきりと教えます。
それは、「人は神に似せて、神の像につくられたから」です。 確認しましょう。
①創 1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
「かたどって」は、もちろん、人の外見、姿かたちの問題ではありません。
中身のことです。人は、神の良きものが与えられた存在として、造られたのです。
さらに創世記2章7節には、別の書き方で記されています。
②創 2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
人は、神の息、命の息を吹き入れられて生きる者となりました。
ここで「息」とは「霊」とも訳せる言葉です。つまり、人には神の霊が宿っている、あるいは分け与えられたのです。
人は、神に似たものとして、神の霊が与えられた存在として、尊いのです。
しかし人は、神のかたちに造られたそのままの状態で、生きることができませんでした。
アダムとエバが、「これを食べれば神のようになれる」という蛇の言葉に騙されて、禁じられていた木の実を食べたこと。神の言葉に留まらず、自分の判断を優先したことが、人類の罪の始まりでした。
罪が心に入り込んだことで、人に与えられていた神のかたちは、傷つきゆがみました。
こうして、人の心に罪が入った結果、殺人が起きたのです。
それも、兄が弟を殺すという、いたましい出来事。 カインとアベルの事件です。
具体的には、神が弟アベルの献げ物に目を留め、カインの献げ物には目を留められなかった、ということへの『怒り、ねたみ、そして憎しみ』です。 この心の罪が殺人という行為になったのです。
この後、人類は罪によって急速に堕落の一途をたどります。それで神は、一度は世界を洪水で滅ぼされました。 水による洗いきよめ、それがノアの箱舟の出来事でした。 しかしそれでも、神は、ノアとその家族を残してくださいました。
洪水の後、地上に降り立ったノア一家が最初にしたことは、神への感謝の礼拝でした。神はその礼拝をお受けになって、こう言いました
創世記9章6-7節です。
9:6 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
9:7 あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。
この段階で、人は、もう造られたままの神のかたち、罪のない状態ではありませんでした。
神はそれでも「人は神にかたどって造られた」といわれ、罪ある人の中に、神のかたちが残っていると言います。
そして、ノアと家族を祝福して、「産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」と言われたのです。
人の心に罪がありましたけれど、それでも神は、人がこれからも生きていくようにと祝福なさったのです。
「産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」これは、人を殺すこととは正反対の方向性です。
人は、神にかたどって造られ、生きるように!と神が言っておられるから、だから、「殺してはいけない」のです。
新約聖書の中で、イエスはこのように教えておられます。
マタイ5:21-22
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
イエスは、ここで、実際に人を殺す行為ではなく、それ以前のこと、人への『怒りや憎しみ』に言及しています。
人の心の中の罪、『怒りや憎しみ』という心の思いが、やがて殺人へエスカレートしていくと指摘しています。 実際、カインとアベル事件でもそうでした。
さらにイエスは、人の口から出る言葉に言及します。「ばか」ということ、「愚か者」ということ。言葉の暴力です。
人をおとしめたり、人を傷つける言葉を、イエスは禁じておられます。言葉によって人を殺す、あるいは殺される、ということが実際、起こります。
現代社会では、インターネット上の誹謗中傷が大きな問題になっています。
相手の顔が見えないインターネット上での誹謗中傷は、顔が見えないだけにエスカレートしがちです。しかし、顔が見えなくても、そこには神のかたちである、生きた人間がいることを私たちは常に意識する必要があります。
このあと、いつものように、ウェストミンスター小教理問答、ハイデルベルク信仰問答、70周年宣言を確認しておきましょう。
5.ウエストミンスター小教理問答 問67-69
問67 第六戒は、どれですか。
答 第六戒はこれです。「あなたは殺してはならない」。
問68 第六戒では、何が求められていますか。
答 第六戒が求めている事は、私たち自身の命と他人の命を守るために、あらゆる正当な努力をすることです。
問69 第六戒では、何が禁じられていますか。
答 第六戒が禁じている事は、私たち自身の命を奪うこと、あるいは隣人の命を不当に奪うこと、またその恐れのあるようなすべての事です。
ウェストミンスター小教理問答は、「命を守るための努力」を求め、「命を不当に奪うこと」を禁じています。
6.ハイデルベルク信仰問答 問105-107
問105第六戒で、神は何を望んでおられますか。
答 わたしが、思いにより、言葉や態度により、
ましてや行為によって、わたしの隣人を、
自分自らまた他人を通して、
そしったり、憎んだり、侮辱したり、
殺してはならないこと。
かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。
さらに、自分自身を傷つけたり、
自ら危険を冒すべきではない、ということです。
そういうわけで、権威者もまた、
殺人を防ぐために剣を帯びているのです。
問106しかし、この戒めは、
殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。
答 神が、殺人の禁止を通して、
わたしたちに教えようとしておられるのは、
御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような
殺人の根を憎んでおられること。
またすべてそのようなことは、
この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。
問107しかし、私たちが自分の隣人を
そのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。
答 いいえ。
神はそこにおいて、
ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、
この方がわたしたちに求めておられるのは、
わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、
忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、
その人への危害をできる限り防ぎ、
わたしの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。
ハイデルベルク信仰問答は、第6戒について、とても詳しく記しています。
新約聖書のイエスの指摘に沿って、殺人へとエスカレートする心の問題。「ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心」を「殺人の根」と指摘し、心の問題を「隠れた殺人」といいます。
そして、問107では、さらに積極的に「隣人への愛」に生きることを求めています。
自分の隣人を自分自身のように愛すること、
忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示しすこと、
その人への危害をできる限り防ぎ、
わたしの敵に対してさえ善を行うこと。
イエスがそうなさったように、あなたがたもそのように生きよ、と求めています。
7.70周年宣言
「殺してはならない」
「キリストは…、十字架によって敵意を滅ぼされました。」・・・ (エフェソ2:16)
命はすべて神のものである。消え入りそうな人の命を救い、万物を更新するために主は来臨された。生きとし生けるものはみな、神の愛によってこそ光り輝く。
わたしたちは、主の十字架の愛にうながされ、この世にあふれる憎しみの連鎖を断ち切って平和を作り出し、命の喜びがみなぎる世界の回復に参与しよう。
それ故、わたしたちは、命への畏れと愛とを見失い、暴力的かつ破壊的な世界を造り出そうとするあらゆる企てには手を貸さない。
70周年宣言はさらに積極的な解説になっています。
特に、私たちが、イエスの愛を知る者、イエスの愛に生きる者として、積極的に平和を作り出すものとして生きることを求め、宣言しています。
「この世にあふれる憎しみの連鎖を断ち切って平和を作り出し、命の喜びがみなぎる世界の回復に参与しよう。」と。
70周年宣言は、イエスの十字架の意味から、神と人との和解、そして人と人との和解、という方向で「殺してはならない」を解説しています。
結局、これが全ての根底にあります。
神は、洪水で全人類を滅ぼすことをなさらず、命を保ち続けてくださいました。
さらに、その人類を罪から救い出すために、御子の命を犠牲にして、人を愛し抜かれたのです。
この、神の愛を知っている者として、私たちも、神と人を愛する積極的な歩みをしていこうではありませんか。