2022年06月05日「私の平和を与える」
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私の平和を与える
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ヨハネによる福音書 14章23節~27節
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聖書の言葉
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 14章23節~27節
メッセージ
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<説教要約>
ヨハネ福音書14章23-27節
説教 「わたしの平和を与える」
今日はペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝です。
ペンテコステ、聖霊降臨は、復活されたイエスが天にお帰りになった10日後に起こりました。
これはユダヤ教の過越祭から50日目のことで、ユダヤ教の五旬祭という祭りの時の出来事でした。
ですが、これは突然起こったわけではありません。イエスは十字架におかかりになる前に、そのことを弟子たちにお話になっていました。
今朝は、イエスが十字架におかかりになる前に、弟子たちに語っておられたことを確認し、ペンテコステ、聖霊降臨の意味を学びたいと考えます。
実は聖霊の約束に関してはヨハネ福音書14章の15節から始まっています。
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
イエスはまず、弟子たちにこう語ります。弟子たちはイエスの教えを信じ、ここまで従ってきました。ですが、その心の中はどうだったでしょうか。イエスの業を信じている者、イエスの力を頼りにしている者、イエスが病人や弱い人々をお助けになる方であることを喜んでいる者、いろんな理由でイエスに従っている人々がいたと思います。そういう弟子たちを前にして、イエスは「わたしを愛しているか?」と問うています。
そしてイエスは、わたしたち一人一人にも同じ質問をしておられるのです。
「あなたは私を愛しているか?」と。
ですが実際、「イエスを愛する」とはどういうことでしょうか?
ボンヘッファーという神学者がこの箇所をこのように解説しています。
『イエスを愛するとはどういうことであろうか。それは、我々に言葉を与え、我々を守る方に所属するということ、イエスとの交わりを他の何者にも勝って追い求めるということ、イエスが今ここにいてくれることを熱望するということである。このようにイエスを愛する者は、自分の愛する者の言葉を堅く守り、それに固着し、それを離さない。そしてその言葉どおりに生きることが可能な場合には、その通りに生きようとする。・・・・。』
イエスを愛するとは、イエスとの交わりを求めること。イエスの言葉を求め、御心を求め、イエスに従って生きようとすること。 心の中だけの問題ではないのです。
イエスを愛することと、イエスの言葉に従って生きることとはひとつのことなのです。
イエスはそのことを確認なさったあと、16節で聖霊を派遣することを約束しておられます。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
イエスは、天にお帰りになった後も、イエスを愛する弟子たちを「みなしご」のような状況にはしない。
あなたがたに「別の弁護者」「真理の霊」を遣わす。これが「聖霊」のことです。
聖霊は、イエスが天にお帰りになった後、イエスを愛する者たちを助け、導く神の力です。
そして、23節から24節前半。
14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。
ここでもう一度、イエスを愛する人、神を愛する者は、イエスの言葉、教えを守る、ということを確認し、その人と共にイエスがいてくださると教えています。
つまり、神への愛、神を愛することと、神の教えを守ることは、一つのことなのです。
また、神の愛に留まることは、神の言葉に留まること、と言い換えることもできるのです。
そして26節。
14:26 弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
イエスが天にお帰りになった後、キリストの霊である聖霊が、神の言葉、イエスの言葉を「ことごとく」思い起こさせる、と主は言われます。
そして、イエスの教えは
14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。と続きます。
イエスが弟子たちに残そうとしている平和とは、何でしょうか?
今、世界中の人々が、地上に戦争がないこと、平和に生活することを願っています。世界の平和は私たち人類の心からの願いです。
しかし、イエスがここでお語りになっている平和は、そういう形としての、現象としての平和ではありません。ですから、イエスは「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」と言っておられるのです。
イエスはこの後十字架の道に進んでいかれますが、イエスの十字架は、わたしたちの罪の赦しのためです。罪の赦しは、神との和解です。イエスはここで、「わたしと神との間の平和」を問題にしておられるのです。
聖霊が私たちに与えられるのは、わたしたちに神の言葉、十字架による救いの意味を理解させ、私たちが救いへと入れられるため。神との平和の関係に入れるためであり、それが聖霊の目的です。
世界平和の実現は、人類の願いですが、これは究極的には神の国が実現する時に与えられるものです。残念なことですが、地上に罪がある限り、完全な世界平和は実現しないと聖書は教えています。
しかし、希望を捨ててはなりません。主イエスはこうも教えておられるからです。
②ヨハネ16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
イエスを愛し、イエスの言葉に生きる私たちには、聖霊の助けがあり、既に神の平和が与えられていることを忘れてはなりません。
では今、私たちに与えられている「別の弁護者」「真理の霊」、「聖霊」は、どのように私たちを助けてくださるのでしょうか。
聖霊の働きの特徴的なことは、神のことば、聖書の言葉と共に働らくということです。
聖霊は、神の言葉を聞く人の心を開き、素直にし、キリストを信じる信仰を与え、洗礼へと導きます。
また、聖霊は、キリストを信じて歩む人々と共に働き、助けを与えます。
み言葉を通して私たちの心に語り掛け、御心を示し、生きる勇気と励ましを与えます。悔い改めを迫ることもあります。み言葉と共に聖霊が働くからです。
今日は聖餐の礼典、聖餐式がありますが、聖霊は礼典と共に働くということも忘れてはなりません。
ウェストミンスター小教理問答、ハイデルベルク信仰問答、そして礼拝式文から聖餐式の式辞のなかで、聖霊に関する所を記しておきましたので、確認してください。
<ウェストミンスター小教理問答>
問29 キリストが手に入れたあがないは、どのようにして私たちに分け与えられますか。
答 キリストの手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊がそれを私たちに有効に当はめてくださることによってです。
問30 御霊は、キリストの手に入れたあがないを、どのようにして私たちに当はめてくださるのですか。
答 御霊が、キリストの手に入れたあがないを私たちに当はめてくださるのは、私たちの中に信仰を働かせ、それによって私たちを有効召命においてキリストに結び付けることによってです。
<ハイデルベルク信仰問答>
問53「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。
答 第一に、この方が御父と御子と同様に永遠の神であられる、ということ、第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしとともにいてくださる、ということです。
問65 ただ信仰のみが、わたしたちをキリストとそのすべての恵みに与らせるのだとすれば、そのような信仰がどこから来るのですか。
答 聖霊がわたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通してそれを確かにしてくださるのです。
<聖餐の礼典について>
聖餐式はいろんな意味を持ちますが、今朝は「礼拝式文」から聖霊に関することを記しておきます。
「聖霊を求める礼典であり、感謝の礼典である聖餐」
主の晩餐において、聖霊が祈り求められ、パンとぶどう酒の聖別が祈られます。パンとぶどう酒は、聖霊によってキリストの御臨在を示すしるしとなります。このパンとぶどう酒を信仰の目で見ることによって私たちはキリストと出会います。このキリストとの交わりのゆえに、わたしたちも聖なるものとされます。