2022年05月15日「神を礼拝する心」
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神を礼拝する心
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- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
出エジプト記 20章1節~7節
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聖書の言葉
神はこれらすべての言葉を告げられた。
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 20章1節~7節
メッセージ
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<説教要約> 十戒-3
聖書 出エジプト記20:1-7(旧約 P126)
説教 「神を礼拝する心」第二戒、第三戒
十戒を続けて学んでいますが、本日は第二戒、第三戒を学びます。
まず、第二戒を見ましょう。
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
ここでは、神の像を造ってはいけない、像を拝んだり、ひれ伏したり、仕えたりしてはいけない、と命じられています。つまり「偶像礼拝の禁止」です。
しかし第二戒を積極的に読むなら、ここには正しい神礼拝が教えられており、まことの神を、神として、正しく礼拝することが求められているのです。
では、どのようにすれば神を正しく礼拝できるのでしょうか。あるいは、正しい礼拝とは、どういう礼拝なのでしょうか?
新約聖書、ヨハネ福音書で主イエスが礼拝について教えいますので、そこを確認しましょう。
ヨハネ福音書4:23-24
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(しんり)をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
まことの神は「霊」であり、人間の目で見えるカタチを持ちませんから、神を礼拝する場に像は必要ありません。
では、礼拝においては何が求められるのでしょうか。それは、「霊と真理をもって」礼拝することです。
ここで「霊」とは、キリストの霊である聖霊のこと。聖霊は、私たちを主イエスを信じる信仰へと導くために働きます。
一方で「真理」とはなんでしょうか。
ヨハネ 14:6 でイエスは言いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と。
つまり、「真理」とは、イエスご自身であり、「イエスを主と信じる信仰」です。
ですから、神が求めておられる礼拝とは、「イエスを私の主と信じ、聖霊によって主と結ばれて」神を崇めることなのです。
「信仰をもって、見えない神をあたかも見ているがごとくに礼拝する」ということもできます。
そこには、見えるかたちの像、偶像は必要ないし、あってはならないのです。
しかし、人間はかたちあるものに心惹かれ、偶像を造り、それを拝みたくなるのです。
出エジプト記には、民が金の子牛の像を造って神の裁きを受けた話が記されていますが、私たちにも、同じ弱さがあります。どうしても「目で見る、見える」ということに執着してしまいます。
しかし、信仰とは、目で見ることができない神の存在とお働き、そして神の愛を信じることです。
復活の主イエスは、イエスの復活を信じなかったトマスに言いました。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
今朝、私たちは聖霊に導かれ集められて、神を礼拝しています。この礼拝に、確かにキリストがご臨在くださっていますが、私たちの目には見えません。しかし、インマヌエル、主が共におられることを、私たちは信じて礼拝しています。
「キリストを主と信じる信仰によって、見えない事実を確認しながら、見えない神を礼拝すること」これが「霊と真理による礼拝」、神が求めておられる礼拝です。
そしてこれが、十戒の第二戒の心です。
70周年宣言はさらに第二戒を積極的に言い換えて記しています。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」
神は霊であられる。主の臨在を鮮やかに示す福音的説教と礼典が生き生きと行われる礼拝に、偶像が入り込む余地はない。
わたしたちは、形だけの礼拝や自己満足的な生活に安住することなく、むしろ自分自身を主に献げ、隣人を愛する生活によって主に仕えよう。愛の神を永遠に喜び、主の正義を表すことが礼拝的人生だからである。
次の第三戒も見たいと思います。
20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
ここでは神の名を呼ぶことが禁じられているのではありません。禁じられているのは、正しくない用い方です。「神の名」は単なる名称ではありません。神の自己啓示です。ですから、私たちは、神の名を呼んで、神をほめたたえ、讃美し、祈るのです。
70周年宣言では第三戒をこのように記しています。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と。
「悩みの日にわたしを呼べ」と主は言われる。わたしたちがいかなる時でも御名を呼び求めることができるように、主は御自身を現してくださった。
わたしたち一人一人を愛してやまない方を、わたしたちもまた慕い求め、主の御名を大胆に告白して恥じない勇気と信仰とを祈り願おう。それ故、わたしたちは、主の御名を軽々しく用いること、まして自らを権威づけるために御名を濫用することを戒める。
私たちのささげる礼拝が、形式だけでなく、また自分の満足のためではなく、神に喜ばれる礼拝として、ささげられるよう、努力したいと思います。
また、神を礼拝するのは主日だけではありません。日々の生活の中でも、霊である神に目を注ぎ、神の意志である十戒に従って生きることができるよう、祈りましょう。