2022年04月16日「キリストと共に生きる希望」

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しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
テサロニケの信徒への手紙一 5章8節~11節

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<説教要約>
聖書  Ⅰテサロニケ5章8-11節(新約 P378)
説教 「キリストと共に生きる希望」  
 
受難節では主イエスの十字架上での7つの言葉を学んできました。
主イエスは、私たちの罪を担い、神に裁かれました。十字架においては、人として、肉体と魂両方に深い苦しみを味わわれ、そのお体は確かに死なれたのです。そして遺体は墓に葬られました。

イエスの葬りについては、四福音書全てに記されています。
今朝はマタイによる福音書27章57-60で確認しましょう。
マタイ27:57-60
27:57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。
27:58 この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。
27:59 ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。
イエスが十字架上で息絶えた時、それまで主イエスのそば近くでお仕えしていた11人の弟子たちの行方は福音書のどこにも記されていません。
イエスの遺体を引き取って埋葬したのは、今まで福音書には名前の出てこなかったアリマタヤ出身のヨセフという人です。マタイは「この人もイエスの弟子であった」と記しています。
また、マルコ15:43では
15:43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
と記されています。
また、ヨハネ福音書には別の情報があります。
19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19:40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
イエスの遺体を引き取って埋葬したのです。
つまり、アリマタヤ出身のヨセフと、ニコデモが、イエスの死と埋葬の証人だということです。
こうして主イエスのお体は確かに葬られたのです。それが金曜日の夜のこと。

その翌日はユダヤ教の安息日でありましたので、誰も何もできませんでした。
そして、週の初めの日の朝早く、女性の弟子数人が墓へと向かいましたが、彼女たちが見たのは空になった墓でした。そして天使が言いました「あの方は、ここにおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と。
イエスの復活を、弟子たちがどのように知ったのか、どのような順番でイエスとお会いしたのかなどは福音書によって細かい違いがあります。ですが、確かなことは、十字架上で死なれたイエスが、その朝、体と共に復活されたこと。そして、弟子たちの前に現れたということです。

ところで、主イエスが墓の中で、朽ち果ててしまったら、どうだったでしょうか?
主イエスの弟子たちの多くは、迫害を畏れて逃げ隠れしていました。
ところが、その後の弟子たちは、ユダヤ教からの、あるいはローマからの迫害を恐れず、キリストの十字架と復活を宣べ伝えました。それは、彼らが復活した主イエスと確かにお会いし、励まされたから。
また主が昇天なさったあとも、主が弟子たちと共におられて、彼らを支え励まし続けたからなのです。

復活のイエスにお会いして、イエスの弟子となったパウロは、命がけで福音宣教のために働きましたが、
その中働きの中で、キリストの死と復活を信じる者たちの生き方についてこう教えています。
Ⅰテサロニケ5章8-11節です。
少し前の4∼6節からから見ていきます。4-6節を要約すると、
イエス・キリストを主と信じ、教会に加えられている「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」
復活のキリストの光に照らされて「あなたがたは光の子、昼の子」です。
ですから、「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」と教えます。
そして、最初にお読みした8節に続きます。
5:8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。
キリストの十字架、死と復活を信じて生きているキリスト者は、光の子、昼の子です。
闇の力、サタンの力ではなく、昼の力、キリストの力に属しているのです。
そして、キリストの力に属してなお強く生きるために、「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」と教えます。

「信仰」とは、キリストを神のみ子、私の主と信じる信仰。キリストの十字架によって私の罪がゆるされたことを信じる信仰。「愛」は神への愛と人への愛。そして「希望」は、「最終的な救いにいたる望み」です。
注意したいのは、これらを胸当てとして、兜として、身に着けるようにと教えていることです。
胸当ても兜も、戦いの時に身を守るためのものです。ということは、キリスト者の歩みには戦いがある、試練がある、ということ。クリスチャンの歩みは、世との戦いがある。あるいは自分自身の罪との戦いがある、ということを暗示しているのです。

しかし、9節、10節。
5:9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。
5:10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

信仰の歩みには確かに戦いがあります。真剣に神に従おうとすればするほど、戦いが大きくなります。
しかし、神は、私たちを神の怒りから逃れさせるため、罪の赦しを与えるために、信仰に導き入れてくださったのです。
同時に、その戦いのために、主イエスが共にいてくださり戦ってくださいます。
主イエスの十字架の死は、私たちが生きている時も、死んだのちにも、主イエスに結ばれて、主と共に生きるようになるためなのです。
地上の信仰の戦いの中で、苦戦する時。 また死を直前にして恐怖におののく時。 さらには、私たちが地上生涯を終えた後も、主が共にいてくださり、キリストに結ばれて生きることができる。
それが、イエスの十字架の死の意味だと教えているのです。

このイースターの朝、「目覚めていても眠っていても、主と共に生きる」という祝福が、私たちにも与えられている、ということを再確認したいのです。

最後の11節は、パウロから地上の教会への勧めです。
5:11 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
あなた方は、主にある兄弟、姉妹として、お互いに励まし合うように。
互いに信仰において「向上するように心がけなさい」と。
「向上」とは、「建てあげる」あるいは「仕え合う」というような意味のギリシャ語です。
この勧めから、キリストを信じるとは「個人の救い」「わたしの救い」で終わるのではないことがわかります。
一つキリスト、同じ主に結ばれた神の家族、互いに励まし合う関係になることです。これは、共に信仰の戦いを歩む仲間が与えられたということです。
キリストと共に生きるとは、主の民として、主の民と共に生きるということ。
クリスチャンとして、他のクリスチャンと共に生きることだ、ということまでが含まれていることも覚えたいと思います。

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