2022年03月13日「何をしているのか知らない」
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何をしているのか知らない
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- 木村恭子 牧師
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ルカによる福音書 23章32節~43節
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聖書の言葉
ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 23章32節~43節
メッセージ
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<要約> ルカ23:32-43 「何をしているのかわからない」
今朝はルカによる福音書23章に記されている二つの言葉、
「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)、に注目します。
23章32~38節には、イエスの十字架に立ち会った人々の反応と、彼らの言葉が記されています。
「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」「民衆は立って見つめていた。」「議員たちも、あざ笑って言った。」「兵士たちも・・・侮辱して言った。」
ユダヤ教の指導者、議員たちはイエスをあざ笑い、ローマの兵士たちはイエスを侮辱しました。
そんな中で彼らが発した言葉には共通点がありました。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
そして、犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と。
周囲にいた民衆たちの言葉はありませんが、しかし「神なら自分を救えるはずだ」という思いがあったと考えます。
そして、周囲の人々の言葉を聞いてイエスが発した言葉はたった一言。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 という、彼らの赦しを神に願う祈りでした。
ところで、「彼らをお赦しください」とイエスが祈られたとき、「彼ら」とは誰のことでしょうか。
その場で黙ってイエスの姿を見ていた民衆たちでしょうか。あるいはイエスの十字架の姿を見てあざ笑ったユダヤ教の指導者や議員たち。あるいは、いつもの犯罪人の刑罰と同じように、イエスを取り扱い侮辱したローマ兵のことでしょうか。赦しが必要な「彼ら」とは、イエスの十字架の場に居合わせて、イエスの十字架をよしとした人々だけでしょうか。
イエスの復活、昇天後、キリスト教徒たちは、イエスの生涯と十字架についてこのように理解しています。
フィリピの信徒への手紙2章6-8節。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
これは、当時のキリスト賛歌をパウロが記したものと言われています。つまり、人々は、イエスの十字架と復活後に初めて、この出来事(十字架)の意味を理解したのです。
旧約時代、大祭司は、動物を犠牲として、雄牛の血を神の前に注いで人々の罪の赦しを神に願いました。しかし、イエスは、十字架上でご自身の血を注いて、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られたのです。十字架上で自らを犠牲として、人々の罪の赦しを願う大祭司の役割を果たされたということです。
自分を救う力のあるお方、神の御子が「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」に、十字架上で神の罰を受けて苦しみ、死なれたのです。
つまり、イエスの十字架は、その場にいた者たちのためだけではありません。やがて、この福音を聞き、受け止め、信じる者たちのためでもありました。
イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られた「彼ら」とは、神のみ前に、罪あるわたしたち。神を神と思わず、自分中心に生きているわたしたち。
まことの神を知り、信じていても、隣人より自分を、神よりも己を優先するわたしたちのこと。
イエスは十字架上で自らを犠牲として血を流し、今ここにいるわたしたちの罪の赦しを神に執り成されたのです。
今朝はもう一つ、キリストの十字架上の言葉を扱います。
それは、キリストの両脇で十字架にかけられた犯罪人、強盗にかけられたイエスの言葉です。
犯罪人の一人は、その場にいた人々と同じようにイエスをののしりました。
しかし、もう一人の強盗はイエスに言いました。
23:42イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。
短い言葉ですが、ここで彼が「あなたの御国」と言っていることが重要です。
「あなたの御国」とは、「神の国はあなたのものだ」ということ。つまり「イエスは神の国の主」であり「イエスは神だ」という告白です。
彼は、神であるイエスに、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。せめて、自分のような者がいたことを覚えていて欲しいという、本当に小さな願いでした。しかし、その小さな願いの中に、イエスは、まことの神への信仰をお認めになったのです。
そして言いました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。
何ということでしょう。死の直前のほんの数分の会話においてです。
しかしこの人は、人生の最後の時にイエスを神と告白し、神の憐れみを受けたのです。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
イエスの言葉から、私たちも多くのことを知ることができます。わたしたちの地上生涯の死は、終わりではないこと。「楽園」(パラダイス)があること。
キリストを主と信じる者は、死の後もインマヌエル(主が共にいてくださる)ということです。
また、このイエスの言葉には、さらに大きな慰めがあります。
この強盗のように、人生の最後に救いへと移されることもある、その最後の瞬間にまで、救われる望みがあるということです。
愛する者の救いのために、祈り続ける勇気と希望を私たちに与えてくれる言葉でもあります。
今朝は、イエスの十字架上の2つの言葉を見ました。
「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
十字架の苦しみの中でイエスが語られた二つの言葉は、自らの罪の深さを認識していないわたしたちへの憐れみと、神への執成しであり、悔い改めた者への救いの宣言でした。
この同じキリストが今、神の右に座しておられ、同じ言葉を、わたしたちに語っておられます。
私たちは十字架のキリストと、今神の右におられるキリスト、その両方のお姿を心に刻み、ここにこそ慰めと赦し、そして死を超えた希望があることを覚えたいのです。