2024年12月31日「わたしにつながっていなさい」

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わたしにつながっていなさい

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 15章1節~10節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 15章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

新しい年が近づいてきました。
何か新しいことが起こりそうな気がする。
けれども、新年になっても、何か具体的に新しいことがあったわけではありません。
当然、自分が新しくなったわけでもないんですね。
何も変わらないと言えば何も変わらないんです。
何にも変わっていないのに、新しくなった気分だけを味わうというのがお正月ということでしょうか。
だいたい、新年の新しい気分を味わうのはお正月の三日間くらいですね。
三日間くらいは新しい気分を味わいますけれども、それ以降はだんだんいつも通りになっていきますね。
どうして三日間は気分が違うのかと考えますと、その三日間くらいは普段と少し違うものを食べたり、あるいは、何もせずにテレビを見ていたりして、普段と違う生活をするからでしょうね。
だから何となくいつもと違う気分になる。
要は、気持ちだけなんです。
それも、三日たったらなくなるような、その時だけの気分なんですね。

そう考えますと、自分がある日を境に決定的に新しくなるなんて言うこと、まずないですよね。
私自身が27歳の時に洗礼を受けた時のことを思い出しますけれども、その時も自分が新しくされたことを思いましたけれども、洗礼を受ける前の自分と、洗礼を受けた後の自分とで、同じ面と違う面と、どちらの面が多かったかと言われると、やっぱりそんなに変わってないんですよね。
私は私のまんまなんです。
でも、考えてみると、それから二十年近くたって今になってみると、確かに変わっている気がするんです。
二十年前と、歩くスピードも歩き方も変わらないけれども、背格好も何も変わらないけれども、歩いていく方向が変わったっていうようなことは確かにあるんですよね。
自分は何にも変わっていないんだけれど、もう元居た場所には戻れないくらいのところに来たんじゃないかなと思いますね。
と言いますか、もともと歩いていたその道に戻って、その道をまた歩きたいなんて絶対に思わないんです。
変わっていないはずが変わっていたんですよね。
そういうご経験って、信仰の歩みとしても、人生の歩みとしても、あると思うんですね。
私たちは、変わったと思っていても変わっていなかったり、何にも変わっていないと思っていても、実は変わったりしている。
何だかはっきりしませんけれども、きっとそれは私たちが気分で生きているからでしょうね。
気分で生きていると、自分のことでもなかなか分からない。
では、その私たちのことを、イエス様はどのように見ておられるんでしょうか。
私たちはどんな存在なんでしょうか。

今日のところでは、実を結ぶとか結ばないということが何度も言われていますけれども、結局それが大事なんだということですね。
では、私たちがどのようになったら、私たちは実を結ぶようになるんでしょうか。
今日の御言葉はイエス様が弟子たちと一緒に過ごした最後の夜に語ったメッセージです。
ですから、もうこの言葉はイエス様にとっては弟子たちに対する遺言なんですね。
ここで、強烈なことが言われていますね。
5節の最後ですが、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と言われています。
これはもう、プライドの高い人だったら怒りはじめるでしょうね。
「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」。
これってもう、あなたがたには何もできないと言われているのと同じです。
私たちには何もできないんでしょうか。
私たちにできることはたくさんあるようにも思えます。
しかし、イエス様はそんな私たちに言うんですね。
「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」。
4節の最後のところでも、イエス様は同じことを言っていますね。
「あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。
大事なのは、イエス様につながっているということなんです。
つながっていれば実を結ぶんですね。
しかし、イエス様につながっていると言っても、それが具体的にどういうことなのか分かりません。
そのことをもう少し分かりやすく言ってくれているのが7節ですね。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい」。
これで分かりますね。
イエス様につながっているというのは、イエス様の言葉が私たちの内にいつもあるということなんです。
大事なのはイエス様の言葉です。
考えてみますと、このヨハネによる福音書の一番最初のところに、こういう言葉がありましたね。
「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。
言葉は神なんです。
イエス様は神の言葉なんです。
その神の言葉に私たちがつながっているかどうか。
神の言葉が私たちの中にあるかどうか。
それが決定的なことなんですね。
しかし、私たちは毎週日曜日にこうして神の言葉を聞いているわけですよね。
私たちは神の言葉とつながっている気がします。
だったら、もうそれでいいんでしょうか。
実はそうではありませんでして、この、「つながっている」という言葉は、原文では、「内に留まる」という言葉です。
それを「つながる」というふうに訳してしまったのは、今日の話はぶどうの木と枝の話ですので、木と枝を目で見ても「内に留まる」というイメージがわきにくいですから、分かりやすくするために「つながる」と訳したんでしょうね。
とにかく、「内に留まる」というんですから、これはもう、別々に生きていて、時々つながるとか、そういうことではないですね。
時々つながるとか、部分的につながっているとか、そういうことではない。
私たちの存在丸ごと、神の言葉の中にあるかどうかなんです。
この7節で言われていることは深いですね。
まず、私たちがイエス様につながっていること。
つまり、私たちがイエス様の内にあるということ。
それがまず言われまして、次に、イエス様の言葉が私たちの内にあるということ。
つまり、イエス様が私たちの内にあるということ。
こういうことですので、イエス様の中には私たちがいて、私たちの中にはイエス様がいるんです。
どっちが外とかどっちが内とか、言えないんです。
イエス様の中に私たちがいて、私たちの中にイエス様がいる。
もうこれが自分の考えなのか、イエス様の考えなのか、分けることができない状態。
ここまでが自分の言葉で、ここからがイエス様の言葉だとはっきり分けることができない状態。

そして、ここで気を付けたいんですが、これは気分ではないんですね。
イエス様の「言葉」ということが言われています。
言葉なんです。
気分じゃないんです。
言葉と聞きましても、まだ何かあやふやな気持ちになるかもしれませんが、ヘブライ語では言葉という単語と出来事という単語は同じ単語なんですね。
あやふやなものではなくて、出来事なんです。
ですから大事なのは、しっかり自分の状態を意識することですね。
イエス様の中に私たちがいて、私たちの中にイエス様がいる。
自分自身とイエス様を区切ることができない。
そういう状態であるということ。
そこに実りが与えられるんですね。

7節の後半ではこう言われています。
「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。
イエス様はこういう約束をしてくださっているんですね。
言葉が私たちの内にあるということ。
それも、いつもあるということ。
時々ではなくて、「いつも」と書かれていますよね。
いつもイエス様の言葉と共にある。
わたしの言葉はいつもイエス様の言葉。
しかし、こうなりますと、何だかこれは大変そうな気がします。
けれども、9節を見てください。
イエス様は私たち弟子たちを愛してくださっているんです。
その愛に留まりなさいと言われています。
私たちはイエス様から愛していると言われているんです。
実を結んでほしい、枯れてほしくないと言われているんですね。
その愛に留まることなんです。
イエス様の言葉は私たちへの愛の言葉なんです。
その言葉が私たちの内にありますか、ということなんです。
要は、愛をこばんでいませんか、ということなんです。
イエス様の愛はお断りだ、という人はいますか。
イエス様は言っています。
わたしの愛にとどまりなさい。
こういうふうに言われているということは、まず事実として、イエス様が私たちを愛しているということですよね。
だからこれは、私たちが自分で頑張ってどうのこうの、ということではないんです。
ただ、その愛を断ってしまっていないか、ということなんです。
愛をこばんでいるんだったら、その人は木につながっていない枝です。
いつか枯れてしまいます。
枝ということですから、切り落とされてもすぐに枯れてしまうことはないでしょうけれども、木から切り離されたら、枝はいつか必ず枯れますね。
そうなりますと、6節に書かれている通り、投げ捨てられて、後はもう火に投げ入れられるだけです。
枯れた枝はそうするしかありませんよね。
神の裁きとはそのようなものだということですね。
だから、言われているんです。
「わたしの愛にとどまりなさい」。
イエス様の愛の中にとどまりなさい。
そこから出ていかないように。

ではどうなると、イエス様の愛にとどまっていることになるのでしょうか。
最後の10節に、「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と言われています。
わたしの掟というのは、イエス様のただ一つの掟がありますね。
「互いに愛し合いなさい」。
イエス様から愛されて、イエス様に愛されているように、他の人を私たちも愛していく。
それがイエス様の愛にとどまっているということで、イエス様の言葉にとどまっていることなんですね。
人間は自分がされたことを人にしますね。
自分がされていないことを人にはしません。
愛された人だけが愛することができます。
私たちがもし愛されているのなら、私たちは愛することができるはずです。
私たちがどのような形で、どんな人を通して、どんな場面にイエス様からの愛を受けてきたか。
それは人それぞれでしょう。
ただ、私たちがその愛にとどまっているのなら、私たちは他の人を愛します。
それが、その人がイエス様の内にあるという証拠なんですね。

けれども、2節を見ますと、恐ろしいことが書かれています。
イエス様につながっていても、実を結ばないということがあるんですね。
そのような枝は投げ捨てられて、枯れて、火に投げ入れられるんです。
しかしどうして、イエス様につながっているのに実を結ばないということがあるんでしょうか。
この1節2節あたりでは、天の父なる神様のことが言われていますね。
ここで神様がどういう方だと言われているでしょうか。
1節を見ますと、神様は農夫なんですね。
農夫は枝を取り除くということをします。
しかし、そもそも、ということで言いますと、イエス様というぶどうの木を植えてくださったのは農夫ですね。
農夫というのはそういうことです。
私たちが良い実を結ぶようにイエス様というぶどうの木を植えてくださったんです。
そして、農夫の仕事はそれだけではないんですよね。
2節の後半には、私たちが実を結ぶように手入れをしてくださるのも農夫だと書かれています。
これはどういう手入れでしょうか。
実はこの「手入れ」という言葉は、すぐ後の3節の「清くなる」という言葉と同じ言葉です。
3節でこう言われていますね。
「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」。
要するに、手入れを受けるというのは、イエス様の言葉を聞くことですね。
イエス様の言葉を聞くことによって私たちは手入れをされているんです。
自分でも気づかない内に神様の取り扱いを受けているんですね。
余分な葉っぱを取り除いたり、余分なつるを取り除いたり、大きくはならなそうなぶどうの房を小さい内に取り除いたりすることもあるでしょう。
良い実を実らせるために手入れをするのが農夫の仕事です。
神様がそれをしてくださるんです。
私たちから余計なものを取り除いてくださる。
清くされる。
私たちは、イエス様の言葉に聞くことを通して、実はそういう手入れを受けているんです。
ですから、ここのところをちょっと気を付けて、頭の中に入れておいていただきたいんですね。
私たちは手入れをされる必要があるんですね。
手入れがいらない人はいないんです。
私たちは手入れをされて初めて良い実を結ぶんです。
2節で、イエス様につながっていながら実を結ばないということがあると言われていますけれども、それは、手入れをされる必要があるということを私たちに気付かせるためにそう言っているんですね。
この中に、手入れをされる必要が自分にはないという人がいますか。
私たちはここで、手入れをしてくださる神様に目を向けたいんですね。
もし、イエス様につながっていれば良い実を結ぶということにだけ目を向けますと、私たちにとってイエス様は、自分に良い実を結ばせてくれる手段なんだということになってしまうかもしれません。
そうなると私たちは、自分にとって都合の良い部分だけ、イエス様を受け入れるということになってしまうかもしれません。
でもそうではないんです。
イエス様は私たちにとって都合の良い手段ではありません。
7節で聞きましたね。
私たちはイエス様の内にあるんです。
そして、イエス様の言葉は私たちの内にあるんです。
私たちとイエス様は、ある部分でだけつながっているとか、ある時だけつながっているとか、そういうものではないんですね。
もし私たちにとってイエス様が良い実を結ぶための手段なんだとしたら、私たちはイエス様というぶどうの木の枝であると言えるでしょうか。
もし私たちが自分にとって都合の良い部分だけイエス様を受け入れるということだったら、私たちはイエス様の中にいると言えますか。
それは、イエス様の言葉をひとつの手段として、人生をより良いものにしようという態度です。
それは言ってみれば、自分は枝なのに、自分こそは木だと勘違いしているっていうことですよね。
それで良い実を結ぶことができるでしょうか。
もちろん、自分の都合で、イエス様の言葉を手段にして生きていても、何かの実を結ぶことはあるかもしれません。
いえ実際にそういうことはあるでしょう。
けれどもそれは、まことの実りではないんですね。
イエス様は1節で言っておられます。
「わたしはまことのぶどうの木」。
イエス様は「まことの」実を結ばせてくださるんですね。
その時限りでいつかは枯れてしまうような実りではなくて、まことの実りを与えてくださるんです。
そのために私たちは手入れを受けます。
私たちは手入れを受けて、余分な葉っぱを取り除くように、イエス様を手段にするような自分の思いを砕かれて、初めてイエス様につながる枝になって、良い実を結ぶんです。
御言葉を聞くことによって手入れされていくんです。
余分なものを取り除かれて、良い実を結ぶ良い枝になっていくんです。
自分の思いが打ち砕かれていくことによって、本当の実を結ぶようにされていくんです。
もし私たちの中に、イエス様の言葉を自分のための手段にするような思いがあるなら、神様はその点で私たちを手入れなさるでしょう。
もし私たちの中に、自分にとって都合の良い部分だけイエス様の言葉を受け入れるという思いがあるなら、神様はその点で私たちを手入れなさるでしょうね。
今日、私たちは、イエス様の言葉を通して手入れをされました。
手入れを受けた実感を持っておられる方もいらっしゃると思います。
そして、いずれにせよ、私たちはこれからも手入れを受けていくことになります。
自分の思いを砕かれていくことになります。
その時その時は大変かもしれません。
しかし、手入れを受ける私たちには約束されています。
「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。
手入れを受けて、イエス様と一つになって、良い実を結ぶことが、私たちに約束されているのです。
新しい一年がそのような一年になりますように、お祈りいたします。

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