2024年12月23日「飼い葉桶の救い主」

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飼い葉桶の救い主

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ルカによる福音書 2章1節~7節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 2章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

キリストが生まれる場面。
キリストはローマ帝国の皇帝アウグストゥスの時代にお生まれになった。
わざわざここに、皇帝の名前まで書かれている。
この名前がここに書かれていることには意味がある。

この皇帝は世界史の教科書にも名前を残した人で、とても強いリーダー。
強い軍隊をもって、地中海の周り全体を支配した。
そして、一つの大きな帝国が地中海の周り全体を支配したことによって、戦争が無くなった。
平和になった。
これを「ローマの平和」と言う。
皇帝アウグストゥスは平和を実現した人。
実はこのアウグストゥスというのはこの人の本当の名前ではなく、本当の名前はオクタビアヌスと言う。
ではこのアウグストゥスというのは何なのかと言うと、アウグストゥスというのは「尊厳ある者(近づきにくいくらい尊い者)」という意味の言葉。
強い軍隊の力で戦争を終わらせて、平和を実現した。
そのことで、この人は非常に尊敬されていた。
この時代には、「救い主」と言えばこの人、皇帝アウグストゥスのことだった。
それだけでなく、この人は、何と「神の子」とも呼ばれた。
この時代のローマ帝国のコインには、「神の子アウグストゥス」と記されていた。
アウグストゥスの誕生日は8月だが、アウグストゥスの生まれた月を「アウグストゥス」と呼ぶことになった。
この呼び方が今でも残っている。
8月のことを英語でオーガストと言う、これはアウグストゥスから来ている。
人々は8月の皇帝の誕生日を「福音」の日としてお祝いしていた。
良い知らせ、福音と言ったらこの時代にはそれは、アウグストゥスの誕生日のことだった。
イエス様がお生まれになられたのはそんな時代、そんな地域でのことだった。

けれどもこのローマの平和が、人々にとって本当に喜ばしいものだったのか。
ユダヤ人からすると、自分の国をローマ帝国という大きい国に支配されているという状態。
しかも、今日の場面を読むと、人々は住民登録をしなければならなかった。
この住民登録、何のためなのか。
ローマ帝国が人々から税金を取ったり、人々を兵隊にしたりするため。
決していいことばかりではなかった。
戦争はなくなったが、ローマの平和というのは力で実現した平和。
力で実現した平和だから、その力で人々を支配するようになっていく。

住民登録は自分の先祖の町ですることになっていたので、ヨセフとマリアは、ナザレからベツレヘムまで、直線距離で100キロ以上の旅をしなければならなかった。
マリアはすでに身ごもっていたから、というか、赤ちゃんが生まれる直前のことだったから、この旅は本当に苦しかっただろう。
ヨセフにとっても一歩一歩が本当に心配でしかたなかっただろう。
けれども、この住民登録、実は、家族を代表して一人の人が行けばそれでいいということになっていた。
だから、ヨセフ一人が行けばそれでよかった。
マリアまで行く必要はない。
それなのにどうして、ヨセフはわざわざお腹の大きいマリアを連れて行ったのか。
これは、マリアが周りからどういうふうに見られていたのかということを考えるとわかるような気がする。
マリアは聖霊によって結婚前に身ごもった。
けれども、そのことを信じてくれた人がヨセフ以外にいただろうか。
マリアのお腹はどんどん大きくなっていく。
ずっと隠していることはできない。
聖霊によって身ごもったという話をしたとしても、それを信じる人がいるだろうか。
きっと、マリアは、親兄弟や近所の人から冷たい目で見られていただろう。
だからヨセフはマリアを残していくことができなかった。
ヨセフとしては、もし自分がいない時にマリアが出産しなければならなくなった時、マリアのこと、生まれてくる赤ちゃんのことを親戚や近所の人たちに任せることはできなかった。
だから、ヨセフはマリアを連れて行ったのだろう。
つまり、この二人には、地元に居場所がなかった。
そして、ベツレヘムでも居場所がない。
ベツレヘムはヨセフの先祖の町なので、親戚が住んでいたのではないかと思うが、それでも泊まる場所が見つからなかった。
これは、親戚たちからも距離を置かれていたということかもしれない。
こんな悲しいことはない。
子どもが生まれるというのに、祝福してくれる人が誰もいない。
それどころか、宿屋にも彼らの泊まる場所がなかった。
彼らの泊まる場所がなかった、それは、部屋がいっぱいだったということなのかもしれないし、彼らが出せるお金で泊まれるような安い部屋がなかったということなのかもしれない。
それにしたって、マリアはもういつ生まれてもおかしくないくらい、お腹が大きくなっている。
自分の家に来ていいよという人が一人くらいいてもいいのではないか。
けれども、悲しいことに、この時、この町には、そういう人が一人もいなかった。
それも、ローマの平和の現実なのか。
戦争はなくなった、けれども、力で実現した平和は、その力で人々を支配するようになっていく。
そして、そのような世の中で、皆、自分のことしか考えられなくなっていく。
困っている人がいても、誰一人助ける人がいない。
これが、神の子であり、救い主であるローマ皇帝が実現した平和。
キリストはこういう、人の心の暗闇の中にお生まれになられた。
クリスマスの出来事というのは、心温まる話ではない。
どこからどう見ても、つらく悲しい出来事。
人の世の、つらさ、悲しさ。
その中に、キリストはお生まれになられた。
本当の救い主は、そのような時、そのような場所に、お生まれになられた。
けれども、そんな中でも、神様の御心は実現していく。

救い主はベツレヘムに生まれると旧約聖書に預言されていた。
そのことが、今日、実現した。
ローマ皇帝が住民登録を命じたから。
それも、自分の先祖の町で登録しなければならないと命じたから。
そして、マリアはナザレの町で居場所がなかったから。
それらは悲しみの出来事。
私たちの人生の中でも、こういうことが起こってくることがある。
自分より上の人に従わなければならないという経験は、誰にでもある。
自分に力がないために力に押さえつけられるということは、私たちの生活の中でも毎日に起こっていること。
居場所がないという経験も、誰にでもある。
誰も自分を理解してくれなくて、誰も味方になってくれない。
そういう経験を、私たちはしてきた。
だからこそ、キリストはこの時、この場所に来てくださった。
この時、この場所にキリストが来てくださったというのは、私はあなたの側に立つよという宣言。
そして、どんなにつらい出来事、悲しい出来事があったとしても、そのような出来事も用いて、神様は御心を実現させてくださる。
イエス様は旧約聖書の預言の通り、ベツレヘムでお生まれになられた。
ローマ皇帝の強い力の下でお生まれになられたけれども、その皇帝の力も、神さまの御心を実現するために用いられていた。
マリアは自分の町に居場所がなかった。
誰も理解してくれないし、味方になってもくれない。
けれども、そのような人々の心の闇も、神さまの御心を実現するために用いられていた。
人間のどんな力も、人間のどんな心の闇も、神さまの御手の内にある。
だから私たちは、どれほど強い力に押さえつけられても、自分にはどうすることができないことが起こっても、絶望する必要はない。
イエスさまは人の力に苦しめられ、人の心に悲しまされる私たちのためにお生まれになられた。
それが今日、聖書の言っていること。
本当の救い主は、そのようにして、私たちの側(がわ)にお生まれになられた。
お生まれになられたのは馬小屋だと言われている。
馬小屋に生まれたとは書かれていないが、生まれたばかりのイエス様が寝かされたのが飼い葉桶なので、馬小屋に生まれたと言われるようになった。
馬小屋というのは子どもを産むのにふさわしい場所ではない。
というより、子どもを産むには最低の場所。
人の力に苦しめられて、人の心に悲しまされて、馬小屋にまで追いやられて、そこにまことの救い主が生まれた。
これがクリスマスの出来事。
まことの救い主は、生まれた時から、罪の世の悲惨さをすべて引き受けてくださっていた。
救い主は、私たちの現実の中に来られた。
そのようにして、私たちの側に立たれた。
これは私たちにとって福音。
誰よりも低いところにお生まれになられた。
だから、この方を救い主だと信じるなら、誰もその救いからこぼれ落ちることはない。
私たちに差し出されている救いは確か。
人のどんな罪も、私たちのどんな罪も、この救い主は引き受けてくださる。

当時の馬小屋というのは、町外れの洞穴だった。
洞穴を馬小屋として利用していた。
そして、洞穴はもう一つ使い道があった。
それはお墓。
遺体を布に包んで洞穴の中に安置した。
ここでは赤ちゃんの救い主が布に包まれて天然の洞穴に寝かされている。
子どもが生まれるのに、これ以上ふさわしくない場所はない。
救い主が生まれるのに、これ以上ふさわしくない場所はない。
しかし、キリストは、人の罪を背負って命を捨てるために来られた。
救い主であるのに、いや、救い主であるからこそ、この場所を選んでくださった。

人間の世界でも、高い立場にある人が、自ら進んで死地に立とうとすることがある。
第二次世界大戦の趨勢が変わった大きな戦いに、ノルマンディー上陸作戦がある。
この戦いは、始まる前から激戦になることが予測されていた。
その時、イギリスのチャーチル首相は自らも戦場に立って危険を共にしたいと司令官に言った。
しかし、そんなことをして敵の攻撃を受けて、チャーチルが死んでしまったりしたら、第二次世界大戦の行方がひっくり返ってしまうかもしれない。
それで司令官はチャーチルを止めようとするが、チャーチルは自分の考えを変えない。
困った司令官は国王に説得を頼んだ。
国王はチャーチルに言った。
「リーダーが戦場に立つのは当然である。
イギリスの首相としてチャーチルがそう言うのは正しい。
従って、国王の私が戦場に立つのも又当然である」。
これを聞いて驚いたチャーチルは「王よ。そのようなことはおやめになって下さい。万一のことがあれば取り返しが付きません」と国王に言った。
国王は、「ではそなたも戦場に立つのを控えよ」と返した。
こうして首相が戦場に行くことを思いとどまらせた。
これは当然のことだと思う。
しかし、この世界を造りなった王の王である神は、人の子としてこの罪の世に生まれてきてくださった。
それも、洞穴にいらしてくださった。
イギリスの国王は、万が一のことがあっては大変だという理由で、戦場に立たなかった。
しかし、まことの王の王であるキリストは、傷を受けるために来られた。
キリストは、人の罪を肩代わりして、命を落とすために来られた。
王に反逆する罪人を救うために、命を差し出しにやってきた王、これがイエス・キリスト。

救い主は、人の力によって追いやられて、人の心によっても追いやられて、飼い葉桶の中にまで追いやられて、この地上に誕生しなくてはならなかった。
しかし、それも御心だった。
飼い葉桶に寝かせられたということは、この後の場面で、救い主の誕生を最初に知らされた羊飼いたちへのしるしになる。
羊飼いたちは天使たちからそう聞いて、飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんを探した。
救い主が飼い葉桶に寝かせられることは、神さまが良しとされたことだった。
どうしてか。
この後、羊飼いたちがこの救い主を訪ねてくるが、もしもこの救い主が皇帝の宮殿で生まれていたら、彼らは近づくことができなかった。
宿屋で生まれていたとしても、自宅や親戚の家で生まれていたとしても、近づくことは難しかっただろう。
けれども、私たちの救い主は馬小屋でお生まれになられた。
ですから、私たちは救い主に近づくことができる。
私たちは自分から、救い主に歩み寄っていくことができる。
そして、羊飼いたちがそうしたように、救い主を礼拝することができる。
イエス様は私たちを招いてくださっている。
「私のもとに来なさい」、と私たちを招いてくださっている。
そうして招かれて、今、私たちはここにいる。
救い主を礼拝している。
今この時、この場所にクリスマスがある。
クリスマスとは、救い主がいらしてくださって、救い主に招かれて、救い主を礼拝すること。
そのまことのクリスマスが、ここにある。
そのことを喜びたい。

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