2023年02月20日「自分で聞いて分かる」

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聖句のアイコン聖書の言葉

39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」43二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 4章39節~42節

原稿のアイコンメッセージ

サマリアの女性の証しによって、多くのサマリア人が信じるようにされていった場面。
他の人たちに証しすることになったということ自体が、この女性にとって大きな変化だった。
この女性は町の人たちから白い目で見られていた人。
この女性自身も、できる限り人に会わないようにして生活していた。
そのような女性が、イエスが救い主だと多くの人に証しするように変えられた。
一人の人の言葉によって、多くの人が信じるようになるだろうか、と疑問に思うかもしれない。
しかし、この女性の話を聞いた人たちは、この女性が、イエスに出会って変えられたことは確かに分かっただろう。
この女性はイエスに出会って、全く新しくされた。
人目を避けて生きていた人が、人前で堂々と話し始めた。
この女性自身、自分がそんなことをしていることに驚いていたかもしれない。
新しくされたことに突き動かされている女性。
だから、話を聞いた人も突き動かされる。

救い主との出会いは、人を新しくするもの。
今まで自分が背負っていた重荷を、救い主が降ろしてくださることによって、それが起こる。
「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」とこの女性は言った。
救い主は、私たちのことをすべてご存じ。
すべてご存じで、それを明らかにする。
すべてが明らかにされるとなると、恐れずにはいられない。
しかしそれは、罪を裁くためではない。
重荷を降ろさせるため。
むしろ、明らかにされない限り、自分で背負っているしかない。

アメリカで生まれたアルコール依存症からの回復のプログラムでは、回復のための大事なステップとして、「棚卸し」というステップがある。
それは、自分のことをすべて、自分の導き手に対して打ち明けること。
それをしないと、絶対に回復しない。
そもそも依存症というのは治りにくいもの。
自分の意志でコントロールできなくなっているということだから。
自分の意思が届かない所から、自分が支配されてしまっていることだから。
しかし、自分の意思を超えたものに、自分が支配されていることを認めることができたのなら、自分のすべてを明らかにすることができる。
私たちがなかなか自分のすべてを人前に明らかにできないのは、自分の意思で自分をコントロールすることができていると思っているから。
あるいは、そう思いたいから。
しかしそれは、自分が無力であるということを認めていないということ。
それでは、依存症は治らない。
自分が無力であることを認めて、神に信頼し、神の力を求めることが、回復のステップ。
私たちの多くは依存症ではないかもしれない。
しかし、聖書は、人間は罪の奴隷であると言う。
私たちの意思が届かない所から、私たちを支配しているものがある。
私たちは、自分の力ではそれをどうすることもできない。
罪とは神に背くこと、神から離れてしまっていること。
そのために私たちは神を悲しませることもある。
私たちは誰も、自分の力でそれをどうにかすることはできない。

この女性にも、神から離れてしまっているところがあった。
人に求めても、満たされない。
でも、あきらめることもできない。
人を求めつづける。
しかし、満たされない。
それで、渇いていた。
人に満たしてもらえなくても、神とのつながりが確かなら、人に対して渇くことはなくなるはず。
逆に言って、この人は、神とのつながりが確かでないから、人を求めてきたけれども、それは、神とのつながりの代わりにはならなかったということ。
しかし、イエスが重荷を降ろしてくださった。
イエスが自分のすべてを明らかにしてくださった。
それは裁くためではない。
イエスは、この女性のすべてを受け入れていることを明らかにしたと言える。
そのイエスを、この女性は信頼できた。
重荷を降ろせた。
神の子、救い主だと信じた。
すべて新しくされた。
それを感じたからから、多くの人がこの人の言葉を聞いて、イエスに会いに来た。

ただ、証しされて、証しに反応するのは最初のステップに過ぎない。
この後、この人たちはどうなっていったか。
サマリア人たちは、40節で、「自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された」。
これが第二のステップ。
ここに出てきている「とどまる」という言葉と、「滞在する」という言葉は、どちらも同じ言葉。
思い出してみると、この福音書の1章38節で、最初にイエスの弟子になった人々は、イエスから、「何を求めているのか」と聞かれて、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねた。
この「泊まる」という言葉も、「とどまる」、「滞在する」というのと同じ言葉。
そして、この弟子たちもイエスのところに泊まった。
また、この福音書の15章4節で、イエスは言う。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。
この「つながる」という言葉も、同じ言葉。
信仰に入るとは、イエスにとどまること、イエスにつながること。
その結果、今日の41節で、「更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」ということになっていく。
そして、42節で、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」ということになっていく。
証しする人はもう必要ない。
証しする人がいるから、イエスによって変えられた人が目の前にいるから、だから、自分はその人の話を聞いて、信仰を保つことができるというのではなく、もう自分自身が新しくされているので、証しする人がいてくれなければ自分だけでは心もとないということはなくなる。
自分自身が直接イエスにつながっているので、もう大丈夫。
そういう段階に入る。

ステップがある。
どんなことでも最初は聞くことに始まるけれども、聞き入れたとしても、それだけでは十分ではない。
聞いたことに反応して、リアクションをとる。
イエスのところに出かけていく。
そこで、イエスの言葉を聞く。
そして、イエスにつながり、イエスに留まる。
そこに、「自分で聞いて信じる」という本当の信仰が与えられていく。

私たちにも、証ししてくれた人たちがいたことだろう。
証しを聞いて、私たちは、何かのかたちで、イエスのところに出かけていき、イエスの言葉を聞き、イエスのところに留まった。
イエスにつながった。
私たち皆に、何かのかたちで、そういうことがあったはず。
そして、おそらくそれは、礼拝に関係することではないか。
少し前のところで、この女性とイエスが話していた時の最後、イエスは礼拝の話をしていた。
神の言葉を聞き、神に留まり、神とつながるのが礼拝。
私たちが本当の信仰に入った時に、礼拝を通っているはず。

この時、サマリア人たちは、「この方が本当に世の救い主であると分かった」と言った。
礼拝の中で、私たちは、イエスこそ救い主であるということを知る。
それも、「世の救い主」。
誰か一人を救うのが精いっぱい、ではない。
この世を救う。
この世は救われなければならない。
丸ごと神から離れてしまっているから。
この世の人すべてを救う力がなくでは救い主とは言えない。
サマリア人の女性の場合は、人を求めても満たされず、渇いていた。
それはこの女性だけではない。
この世はいつも渇いている。
人を求めるだけではない。
この世に会って私たちは、お金を求めたり、地位や名誉を求めたり、安定を求めたり、刺激を求めたり、本当に色々なものを求める。
もちろん、水や食べ物を求めることもある。
しかし、それらで本当に満たされるのか。
与えられても、一度で十分ということはない。
もっと求めるようになっていく。
この世の人はいつも渇きを生きている。
神とのつながりを無くしてしまうと、代わりにどんなものを求めても、いつまでも満たされることはない。
その私たちを、救い主は新しくしてくださる。
重荷を降ろさせてくださり、神の元に取り戻してくださる。
救い主が留まってくださり、つながってくださる。

それを知っている人は、証しせずにはいられない。
この女性は、水を汲みに来たのに、28節で、水がめを置いたまま町に戻って証しした。
そして、証しした時のこの女性の言葉も素晴らしい。
29節で、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言っている。
相手に判断をゆだねている。
それでいい。
結局、イエスにとどまり、イエスにつながるかどうかが大事なのであって、そこは自分の手が届くところではないから、証しするに当たって無理強いしない。
する必要がない。
そもそも、自分が重荷を降ろしたということ、新しくされたということが最大の証し。
だから、無理強いしなくても人はやってくる。

では私たちは、どれくらい新しくされただろうか。
神戸改革派神学校の前の校長先生が、これについて証しをしてくださったことがある。
その先生は、大学生の時に信仰に入ったが、信仰を与えられる前はどうしようもなくずぼらで、ご自分のお母さんから「ずぼらというのはお前のためにある言葉だ」と言われるほどだった。
それを聞いた時、私は驚いた。
その先生ほど、几帳面で細やかに気づかいをなさる方を私は知らない。
しかし、信仰に入る前はそうだった。
どうしてずぼらだったのか。
人間どうせいつか死ぬ、という考えがあった。
それはそう。
人間どうせいつか死ぬ。
それに目を閉ざすのは正しくない。
ただ、その先生は、若い頃、このように考えていた。
「一生懸命勉強して、一生懸命働いて、出世して、お金を稼いでも、一生懸命子育てをして、子どもを立派な人間にしても、どうせ自分はいつか死ぬ」。
だから、ずぼらでいい。
頑張る必要はない。
頑張る意味はない。
頑張っても頑張らなくても、いつかすべて消えてなくなる。
それで、ずぼらになった。
けれども、聖書を読んで、自分に命を与えてくださる方のことを知った。
その方は、自分の命を保ってくださり、いつか、ご自分のみもとに引き寄せてくださる方である。
そうなると、もうずぼらではいられない。
どんな小さなことにも心を込める。
神学校では毎朝、短く礼拝をして、祈り合う時を持つ。
神学校は寮生活で、全員がそれに出席する。
ある日、朝の祈り会が終わって、礼拝堂を出て行くと、その先生が自分の前を歩いていた。
いつも朝の祈り会が終わると先生は別の方に向かうのに、どうしてここを歩いているのかと思った。
先生は廊下の突き当りにあったロッカーを開けて、ほうきを取り出した。
先生はほうきをもって廊下を引き返していく。
私は先生に声をかけた。
「何をなさるんですか」。
「掃除をしようと思います。昨日は風が強かったので、枯葉が廊下に残っていますから」。
私は驚いた。
掃除はもちろん神学生の仕事。
それをご自分でなさる。
いやそれは、校長先生にさせてはいけないこと。
私は、「私がやりますから、先生はお下がりください」と申し上げた。
しかし先生は、「では、一緒にやりましょう」とおっしゃった。
ほんの短い時間だけ、二人で掃除をした。
ただ、私は嬉しかった。
自分は、この先生が校長を務める神学校の学生なんだ。
それは今でも私の誇りになっている。
かつてずぼらだった人が、今ではそう。
神は人を新しくしてくださる。
昔のその先生を知っておられる方は、その先生が変えられたのを目の当りにしたら、どうだろうか。
イエスのところに行くだろう。
そして、イエスの言葉を聞き、イエスに留まり、イエスにつながる。
イエスは今日も、そのようなかたちで、多くの人を救ってくださっている。
イエスが私を救ってくださったことに感謝して、証ししていきたい。

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