誓ってはならない
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 5章33節~37節
33「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章33節~37節
今日のイエス様のお話は、誓うということについてですね。
皆さんは誓うということをしたことがありますでしょうか。
これは大人の方々は多くの人がしたことがあるのではないかと思いますね。
多くの場合、この世で職業に就く場合、誓約をして職業に就く、ということがあるのではないかと思います。
しかし、今日イエス様は、「一切誓いを立ててはならない」とおっしゃるんですね。
そうなりますと、昔自分が誓ったことはどうなってしまうんだろうか、と思ってしまいます。
そこでよく読んでみますと、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」ということですね。
これが聖書の専門家たちの教えでした。
聖書の専門家たちがこのように教えていたんです。
これはこれで、私たちにも納得できる話ですね。
偽りの誓いなんて、もちろんダメなことですし、神である「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのも、もちろんそうしたいわけです。
ただ、そういう、この時代の人たちが皆聞いていた話を取り上げて、その上でイエス様は、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」とおっしゃるんですね。
イエス様はそういう言い方で、「この御言葉にある本当の御心はこうなんだ」と教えることがありました。
しかし、「一切誓いを立ててはならない」というのは一体どういうことでしょうか。
誓ったことをもし守れなかったら大変だから、誓わないでおいた方がよい、ということなんでしょうか。
そういうことなんだったら、まあそれはそうかもと思いますね。
しかしこれは、そういうことではないらしいのです。
37節を見ますと、イエス様は、あなたがたはこうしなさいと言っていますね。
「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」。
然りというのは正しいという意味です。
否というのは間違っているということですね。
「正しい、正しい」、「間違っている、間違っている」。
これでは意味が分かりません。
けれどもこれは、聖書の他の箇所を見ると分かるんですね。
新約聖書のヤコブの手紙第5章12節に、こういう言葉があります。
「あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」。
然りは然りとする。
否は否とする。
正しいことには正しいと言う。
間違っていることには間違っていると言う。
つまり、あなたがたの言葉がいつも真実であるようにしなさいということをイエス様は言ったんですね。
誓いを立てているかどうかに関係なく、いつも、真実を語りなさい。
どんな時でも言葉に偽りがあってはならない。
イエス様がおっしゃったことはそういうことです。
聖書の専門家たちは、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と教えていました。
イエス様は別に、それを否定しているわけではありません。
ただ、イエス様がここで言っているのは、この言葉にある神の御心はもっと深いものだということなんです。
いつも真実の言葉を語りなさい。
偽りの誓いを立てないことは大事だけれども、偽りの誓いを立てなければそれでいいというものではないんだよ。
誓ったことだけ果たしたらそれでいいというものではないんだよ。
あなたがたの言葉がいつも真実であるようにしなさい。
そういうことをイエス様はおっしゃっているんです。
ルールみたいな言葉を聞きますと、私たちは、守れていれば良い、守れなかったらダメだ、とそれしか考えなくなってしまうことがあります。
イエス様がそんな私たちに言っているのは、神の言葉はそのように読むものではないということなんです。
表面的に読んでいるだけではいけないよ、ということですね。
言葉の奥にある神の御心を理解しなさいということです。
イエス様は、聖書の正しい読み方を教えてくださっているんですね。
ただここで、困ったことがありまして、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という言葉は聖書にないんですね。
しかし、この言葉の元になった言葉は聖書の中にあります。
聖書の中の、ある言葉が元になって、「偽りの誓いを立てるな」という言葉が出てきたんですね。
ではその元になった言葉は何だったのかと言いますと、出エジプト記20章7節です。
出エジプト記の20章にはいわゆるモーセの十戒が書かれているんですけれども、十戒の三つ目に、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。
これが元になって、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という教えができてきたんです。
しかし、そう言われても、という感じですね。
内容がちょっと違ってしまっているような感じです。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」というのと、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのは話が違ってしまっているような感じです。
ただここで考えてみますと、そもそも、神の名をみだりに唱えるとはどういうことでしょうか。
みだりに、というのは、乱用するということですね。
つまり、神の名を自分勝手に利用することです。
それが、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」ということですね。
神を自分勝手に利用するな、と。
これはどういうことなのかと言いますと、誰かが何かを言った後で、「私の言葉は真実です。神が私を通して語っておられるんです。これが神様の御心なんです」と言ったとしたらどうでしょうか。
聞いている側としては反対しにくくなりますね。
しかしそれは神を自分勝手に利用することになりかねないわけです。
ただ単に自分の意見なのに、そこに神の名を持ち出しているということになるかもしれないわけですね。
そんなことはするな、と言われているのが、十戒の第三戒なんです。
そこで、「偽りの誓いを立てるな」ということを考えてみますと、偽りの誓いというのは、本当はそうするつもりがないのに、神を持ち出す、神にかけて誓うということですね。
やっぱり、神を自分勝手に利用することです。
誰にでも、結果として偽りになってしまった、結果として誓いを果たせなかったということはあるかもしれません。
それは別なんです。
自分勝手に利用したわけではないからです。
でも、神を利用するつもりで誓いを立てたのなら、問題です。
要するに、その人の心の中がどうなのか、ということなんですね。
神を利用しようという心があるかどうか。
神を持ち出して、相手が反対できないようにしてやろう、相手を黙らせてやろうという気持ちがあるかどうかが問われているんですね。
実際、神を簡単に持ち出すのは良くないと思いますね。
私たちは聖書を通して神を知るのですが、ある御言葉があったとして、けれども、また別のページには、表面的に読んだらその正反対の御言葉もあるわけなんです。
表面的に読んでいたのでは理解できないですね。
掘り下げて深めて読んで、神の御心に触れることが大事です。
イエス様がそうしておられるように、聖書を読む必要があります。
とにかく、神を自分勝手に利用するな、というのが今日の話です。
ただここで、イエス様は、「一切誓いを立ててはならない」と言っているんですね。
神に誓ってこれはこうだ、神に誓って真実だ、という言い方を一切するなということです。
そして、今日の34節の後半から36節にかけては、「これこれのものにかけて誓ってはならない」と繰り返し言われています。
天にかけても、地にかけても、エルサレムにかけても、自分の頭にかけても誓うなということですね。
とにかくどのような事であれ、誓いを立てるなということになります。
イエス様の時代には、誓う時には、神にかけて誓ったんでした。
神にかけて誓うのが恐れ多いという時には、天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、自分の頭にかけて誓ったんですね。
しかし、イエス様は言うんです。
天は神の玉座である。
だから、天にかけて誓うのは、神にかけて誓うのと同じだ。
神を持ち出して、自分の言葉が真実だと人に聞かせようという考え方をしているのなら、それがそもそも間違っている。
たとえその言葉が真実だとしても、神を持ち出すな、神を利用するな、ということですね。
地にかけて誓うな、というのも同じですね。
地は神の足台であるから。
エルサレムにかけて、というのも、「大王の都」であると言われていますが、これは、「大王である『神の』都」であるということです。
自分の頭にかけて誓うな、というのも、「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」、つまり、あなたの頭も神のもの、神が作り、保っておられるものであるから、それにかけて誓うな、ということです。
そうなるともう、何かにかけて誓うということはできないですね。
何にかけて誓っても、神にかけて誓ったことになるからです。
そして、こうなってくるともう、誓うとか誓わないとかいう話ではないんですね。
私たちがどこで何を言ったとしても、それは全て神の前での言葉です。
神の前でない場所はどこにもないということなんです。
だから、「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさいということになるんですね。
いつも自分の口で真実を語りなさい。
いつも神の御前に立っているつもりでいなさい。
もちろん、結果として自分が言ったことが後から間違っていたと分かるようなことはあります。
それは問題ではありません。
今日言われているのは、自分のために神を利用しない、ということだからです。
そして、それを守れていればセーフということではなくて、もっと積極的に、いつも神の前に立って真実を語っていきなさいということを、イエス様は教えておられるんです。
だから、教会では、誓約ということをするんですね。
神の前に誓うということをします。
していいんですよ。
それは神を利用しているのではないからです。
神の前に立つ者として、自分の口で真実を語っていく、その一つとして、誓約ということがあるんです。
私たちがそうする時、神様は喜んでおられると思います。
神の前に心から誓っているんだから。
これからも、神の前に立つ者として、自分の口で真実を語っていきましょう。
そして、そのような気持ちというのが、神を利用する思いから一番遠いんだと思います。
そして、私たちのそのような思いを神様は喜んでくださって、私たちがそのように生きることができるように、力を与えてくださるに違いありません。
ただ、聖書の中には、今日の御言葉についての最悪の例があることを思い起こします。
自分こそイエス様の一番弟子だと思っていたペテロは、イエス様が逮捕される前、イエス様に対して、「あなたのためなら命を捨てます」と誓ったのに、イエス様が逮捕された後には、自分がイエス様の弟子であることを三度も否定することになります。
それも三度目については何と、「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた」と記されています。
呪いの言葉で誓ったんですね。
これは、もし自分の言葉が嘘なら神の呪いを受けても良いという、ユダヤ人にとっての最大限の誓いの言葉でした。
ペトロは、今日のイエス様の御言葉の、これ以上ないくらい正反対のことを言ったのです。
しかし、復活したイエス様は、イエス様の方からペトロに会いに来てくださいました。
しかも、ペトロを叱るようなことは一言もおっしゃいませんでした。
むしろ、ペトロがイエス様を否定したのと同じく、三度、「わたしを愛しているか」と質問してくださり、ペトロに「わたしはあなたを愛しています」と三度答えさせることによって、三度、イエス様の弟子であることを否定した失敗を取り戻させてくださいました。
キリストの教会は、誓約を破った者への「赦し」から始まっていると言えます。
私たちも、失敗することがないとは言えません。
けれども、私たちも何度でもやり直すことができます。
イエス様が、私たちを赦すためにいらしてくださるからです。
しかし同時に、私たちはそれに甘んじるべきではありません。
神が私たちを赦してくださっている。
その思いに立って、神の御前に生かされていることに感謝し、真実を語っていきましょう。
イエス様は私たちを、そのような喜ばしい生き方へと招いてくださっているのです。