復讐してはならない
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 5章38節~42節
38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章38節~42節
今年の夏の甲子園の優勝校ですが、こういう優勝校があるのかと驚きました。
京都国際高校。
今は生徒の8割は日本人ですが、もともとは韓国人学校で、校歌も韓国語なんですが、そういうことをどうこう言いたいわけではありませんでして、ゼロからお金もない中で、短い期間に力を付けて、全国の頂点に立ったということですね。
京都国際高校は今の監督、小牧憲継監督が就任して、しっかり野球に取り組んでいくことになってから、まだ十数年なんですね。
しかも、とても小さい学校なので、お金もなかった。
というか、学校自体が廃校寸前だったそうですね。
そんな状況でのスタートですので、監督の就任当初は、打ったバッターが三塁に向かって走ることもあったそうです。
ただ、試合で勝てなくても、頑張って選手を育てて、何人かの選手がプロ野球に入ったことがあって、この監督に任せれば選手が大成できるんじゃないかということで中学野球の指導者の間で評価が高まりまして、その結果、「甲子園に行くよりもプロに行きたい」という選手が集まるようになって、チーム力が向上して、日本一になった。
学校自体、生徒が集まらずに経営破綻しそうになっていたのを再生させた。
こういう学校が他にあるのでしょうか。
「甲子園に行くよりもプロに行きたい」。
去年、京都国際高校から、3人の選手がプロ野球選手になったそうです。
歴史ある甲子園はもちろん、かけがえのない場所であり、だからこそ、野球少年にとって憧れの場所です。
しかし、憧れの場所というものはずっといられる場所ではないですね。
高校野球にいつまでも出場し続けることはできないわけです。
憧れではなく、プロフェッショナルを目指した結果が、日本一だった。
そこへいきますと今日の御言葉は、キリストに対する憧れを打ち壊す言葉かもしれないですね。
キリスト教というと、愛という言葉をイメージする人が多いはずです。
キリストの周りに集まった人々も、キリストに愛を期待していた人がたくさんいただろうと思うんですね。
柔らかい、温かい、優しさを求めている。
果たしてそういう人々は、今日の御言葉に耐えられるだろうか。
今日の御言葉では、憧れではなく、プロでないと出来ないようなことが言われている。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。
有名な御言葉ですね。
聖書を読んだことがない人でも知っている御言葉ではないかと思います。
しかし、この御言葉を実行したことがある人がどれくらいいるでしょうか。
右の頬を殴られたら、左の頬も向ける。
そんなことをやっていては、この世の中では生きていけないのではないでしょうか。
それは、下着を取ろうとする者に上着をも取らせる、ということも、一ミリオン行くように強いられたら、二ミリオン行くというのも同じことですね。
これでは、いつか必ず生きていけなくなりそうです。
ただ、これらの言葉の意味は、私たちがイメージする意味とは少し違っているんですね。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉は、殴られたら殴り返さずに、殴られたままでいなさいということではないんですね。
まず「だれかがあなたの右の頬を打つなら」と言われていますが、相手の右の頬を殴る、ということは、どういう具合に殴るのでしょうか。
人類の9割は右利きだそうです。
ですから、相手を殴るとなったら右手で殴りますね。
そうすると、右手は、相手の左の頬に当たるはずです。
だからこれは、相手を普通に殴る、という話ではないんです。
もし相手の右の頬を殴ろうと思うなら、自分は普通に手を突き出して殴るのではなくて、自分の右手の手の甲で、左から右に払うようにして相手の頬を打つかたちになります。
これだったら相手の右の頬を打つことができますね。
そして、このしぐさが問題なんです。
自分の手の甲で相手の頬を打つことは、相手を侮辱することなんですね。
それも、最大に侮辱することだったんです。
ですから、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というこの言葉は、殴り合いのけんかの中での言葉ではないんです。
相手からどれだけ侮辱されても、相手を憎んで復讐してはいけないということなんですね。
相手が自分を侮辱するままにしておきなさいということなんです。
次に、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」とイエスは言います。
「訴えて下着を取る」というのは、借金の差し押さえです。
借金を返せないと、裁判所に訴えられて、自分の持ち物で借金を返すということがあります。
つまり、ここのところでは、私たちは、借金を返せなくて訴えられた人であるという設定なんですね。
しかも、下着を取られそうになっているわけです。
当時は、上着と言ったらコートのことで、下着というのはコートの下に着ている普通の服のことでした。
服を取られそうになっているんです。
ということは、私たちは、お金になるようなものを他に何にも持っていないという設定なんですね。
これはもうそれだけで大変なことです。
それなのにイエスは「上着をも取らせなさい」と言うんです。
でもこれ、いくらイエスの言葉だと言っても困ります。
人の上着というのはたとえ借金があっても、取ってはいけなかったんです。
旧約聖書の出エジプト記の22章の25節26節にそのことが書かれています。
上着というのはコートのことだと言いましたが、コートは、貧しい人にとっては、それにくるまって寝るための布団にもなったんですね。
だから、上着は取ってはいけないことになっていたんです。
これは貧しい人の権利だったんです。
けれども、イエスは、それも取らせてやれ、というんですね。
つまり、自分の権利を主張するなということです。
ただこれは、貧しい人にとっての最低限の権利です。
それなのに、自分の権利を主張するなと言われているんです。
その次には、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」と言われています。
ここでわざわざミリオンという距離の単位が使われています。
このミリオンという言葉は後に、英語でいうところのマイルという言葉になった言葉です。
このミリオンという単位はギリシャ語なんですが、ローマ帝国の距離の単位なんですね。
ですので、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら」というのは、ローマ帝国の法律です。
ローマ帝国では、例えばローマ帝国の兵隊が、そこいらを歩いている人の誰にでも命令することができました。
その内の一つが、「一ミリオン行くように強いる」ということなんです。
一ミリオンというのは1.5キロくらいの距離です。
1.5キロくらいまでだったら、ローマ帝国の権力で、誰にでも、たとえば荷物を運ばせる、ということができたんです。
ですから、考えてみますと、イエスが十字架にかかる前に、十字架を背負って死刑にする場所まで歩かなければならなかったんですが、イエスは十字架を背負う前に拷問を受けて血だらけで、途中で歩けなくなったということがありました。
その時、ローマの兵隊はそこにいた人に、代わりに十字架を背負わせたということがありました。
そういうことができたわけです。
ただ、そうなりますと、ローマ帝国に支配されている人々は良い気がしないですよね。
ローマ帝国に対する抵抗運動が起こります。
イエスの弟子にも、熱心党のシモンという人がいました。
この熱心党というのが、激しい抵抗運動をしていた人たちだったんです。
もちろん、全員がそんな運動に加わっていたわけではないですが、言ってみれば、全員、帝国に支配されることは嫌だったんです。
ですから、そういう運動は当然起こってくることになります。
しかし、そこでイエスは、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」というんですね。
常識をひっくり返すようなことが次々に言われています。
復讐するのが当然だ、抵抗するのが当然だと思っても、そんなことをしてはいけない、どんな理由があっても人を憎んではいけない、恨んではいけない。
そういうことが言われているんですね。
それどころか、「左の頬をも向けなさい」、「上着をも与えなさい」、「一緒に二ミリオン行きなさい」なんていうことまで言われています。
受け容れられないようなことをしてくる相手を、積極的に受け容れなさいと言われているんですね。
これは困りますね。
そんなことをしていたら、やっぱり、いつか必ず生きていくことができなくなってしまうのではないでしょうか。
ただここで気を付けなければいけないことは、「左の頬をも向けなさい」というのは、その通りにしても相手が困るようなことですね。
侮辱するつもりで右の頬を払ったのに、左の頬を向けられたら、相手はどう思うでしょうか。
侮辱が通じなかったことになりますね。
言ってみれば、侮辱したかったのに、出来なかったことになります。
むしろ、自分が侮辱されたと感じるのではないでしょうか。
「上着をも与えなさい」なんて、もっと困りますよ。
上着は渡さなくていいというのは聖書で認められている権利なんですから、いやそれは受け取れません、という話になります。
もし受け取ってしまったら、自分が訴えられますから。
「一緒に二ミリオン行きなさい」というのもそうですよね。
命令できるのは一ミリオンまでなんですから、それ以上になったら法律違反の命令をしたことになってしまいます。
ですからこれらは、実際には実現しないことを言っているんですね。
そういうふうに対応したとしても、そういうことにはならないことを言っているんです。
ではどうしてそんな、言っても意味がなさそうなことを言うのか。
どうしてこんな話になったのか。
そもそも、今日の話は、「目には目を、歯には歯を」という言葉から始まっていました。
旧約聖書の良く知られた言葉ですね。
旧約聖書のレビ記24章17節からのところでこれについて語られています。
人にけがをさせたら、同じけがを自分もさせられるということですね。
相手の目をつぶしたら、自分も目をつぶされるわけです。
相手の歯を折ったら、自分も歯を折られるわけです。
現代の世界では、けがをさせられてもそういう仕返しはしませんね。
現代では慰謝料というかたちで、お金で解決します。
ですので、私たちがこれを読むと、何か乱暴な気がします。
ただ、この言葉が意味していることは、実は、人を憎んで怒りに任せて復讐してはいけない、ということなんです。
どうしてかというと、人からけがをさせられたら、私たちはその人を憎むことになります。
そして、憎んで復讐する、となったらどうなるでしょうか。
もし、私たちが自分の目をつぶされたとしたら、相手の命を取ってやりたいというくらいに、その人を憎むだろうと思うんですね。
自分がつぶされたのは目だけでも、相手の命まで取ってやりたいというくらいに憎むだろうと思うんです。
もし、自分の歯を折られたら、折られたのが一本だけだったとしても、相手の歯を全部折ってやりたいというくらいに恨むだろうと思うんです。
私たちはやられたこと以上にやり返したいという思いがあるんです。
それが証拠に、わたしたちは皆、やられたことは覚えているわけですよ。
いつまでも覚えていたりもします。
それに比べると、自分がやったことは覚えていないんですね。
もしかすると、自分がまずいことをしていることに自分では気づいてもいないなんていうこともあるかもしれません。
そういう私たちが、相手に仕返ししていいということになったらどうなるでしょうか。
大変なことになるでしょうね。
そしてそもそも、仕返しをしたとしても、自分がひどい目にあったという事実は消えません。
ですから、復讐というのはいつもやりすぎてしまうことになるんです。
そうなると、やられた側も黙っていられませんから、復讐に復讐が積み重なって、大変なことになってしまうでしょう。
その私たちに言われているのが、「目には目を、歯には歯を」ということなんですね。
これは、憎しみにまかせて仕返ししてはいけないということなんです。
「目には目を」までで止めておけ。
「歯には歯を」までで止めておけ。
それ以上はしてはいけない。
こういうことですから、実は、「目には目を、歯には歯を」という御言葉に隠されている御心は、人を憎むな、人を恨むな、ということなんです。
相手を憎んでいたら、「目には目を」だけでは済みませんから。
人を憎むな、人を恨むな、それがこの言葉の本当の意味なんです。
目をつぶされたのなら、相手の目をつぶすところまではしてもいいぞ、と言っているのではないんですね。
神様はこう言っているんです。
あなたがたは自分のことは置いておいて、いつも人に仕返しをしようとしている。
そして、仕返しをしたとしても、自分がひどい目にあった事実は消えないから、結局、憎しみはいつまでも消えない。
いつまでも仕返ししたいと思い続けている。
それではいけない、人を憎んではいけない、人を恨んではいけない。
それが神様の御心なんですね。
そして、その御心を受けて、イエスは言っておられます。
「悪人に手向かってはならない」。
しかしこれ、その後に続く話を読みますと、本当のところ、相手は悪人なんでしょうか。
そもそも、自分ではなく相手が、右の頬を打ってきたわけです。
相手が自分を侮辱してきたんです。
何の理由もなく人を侮辱する人がいるでしょうか。
何か自分に原因があったとも考えられます。
相手からすると、自分の方が悪人だったかもしれないわけです。
また、二つ目の話では、相手が自分を訴えて、服を取ろうとしてきたわけです。
これは借金の差し押さえです。
つまり、自分が相手に借金していて、なおかつ、返せていないわけです。
これはもっと分かりやすいですね。
相手からすると自分が悪人なんです。
お金を返さない悪人なんです。
三つ目の話では、相手が自分に一ミリオン行くように強いてきたわけです。
しかしそれは法律に基づいてのことです。
相手がルールを破っているわけではありません。
別に相手は悪人とは言えないんです。
それなのに、「悪人に手向かってはならない」と言われているんです。
どうしてでしょうか。
私たちの考え方が、自分中心だからです。
自分がしたことは忘れても、やられたことはいつまでも覚えている私たちです。
聖書はそれを罪だというんですが、自分中心にしか考えることができない私たちです。
だから、本当は相手の方が正しいのに、勝手に相手を悪人にしてしまうことだってある。
イエスはそれを指摘しているんですね。
相手が必ずしも悪人ではないのに、あなた方の考え方が自分中心だから、相手を悪人にしてしまう。
それではいけない。
自分中心に相手を裁くことをやめて、相手を受け容れる心を持ちなさい。
それが、左の頬をも向けなさい、上着をも取らせなさい、二ミリオン行きなさいということなんですね。
だから今日の最後で、今までと全然違う話になっていますよね。
「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。
ここでは相手は求める者であり、借りようとする者だということですね。
さっきと違って、こちらは、自分の方が立場が上の場合です。
ただこれも、自分中心をやめて、相手を受け容れなさいっていうことですよね。
そして、その話をするために、イエスは今日、実現しないようなことまで言わなくてはいけなかったんですね。
私たちが頑固なまでに自分中心で、人を受け容れないからです。
自分が悪くても、相手を悪人にしてしまう。
相手が自分を頼ってきているのに、相手を悪人にしてしまう。
イエスの目に、私たちはそう映っているんです。
イエスは、そのような私たちに話してくださったんです。
しかし、ここで思うんですね。
私たちは確かにそのような者かもしれません。
ただ、だとしたら、自分中心に考えない、相手を勝手に悪人にしない、相手を憎まず、相手を受け容れる、私たちにそれができるでしょうか。
私たちが自分中心であるという現実を認めることだったら、私たちにもできるかもしれません。
しかし、私たちに本当に、今日の御言葉に従う力があるでしょうか。
憧れでは出来ないです。
私たちは、プロにならないといけない。
きっと、今日の話を聞いて、イエスのもとから去っていった人もいたと思うんですね。
一体誰が、その人を責められるでしょうか。
私たちはあくまで私たちとして生きています。
だとしたら、自分中心であるより他ない気もするわけです。
しかし、今日の話は、イエスが私たちにしてくださったお話です。
ですから、私たちはこの話を、イエスが私に話したこととして聞かなければなりません。
もし、イエスが罪もないのに十字架にかかりたくないと言っていたら、私たちはどうなりますか。
その時、イエスの周りにいた人たちは、紛れもない悪人たちです。
イエスが、悪人に手向かっていたら、私たちはどうなりますか。
私たちの罪はいつまでもそのままになります。
私たちはいつまでも、神の目に悪人であるということになります。
しかし、イエスは、悪人である私たちのために、十字架にかかってくださった。
何も言わずに、私が受けるべき罰をキリストが代わりに受けてくださった。
悪人であるより他ない私たちのためにです。
人を裁かず、相手を受け容れる。
それは、イエスが私たちになさってくださっていることなんです。
イエスにとって人を救うということは、憧れなんかではないですね。
どこまでもシビアな現実です。
その、本当のプロフェッショナルである、イエスが、私たちになさってくださっていることなんです。
おそらく、私たちには同じことをする力はないのでしょう。
しかし、実際にそのようにしてくださったイエスが、今もそのようにしてくださっているイエスが、私たちと一緒にいてくださいます。
イエスといっしょなら、できるはずなんです。
できるからこそ、イエスは今日、この言葉を語ってくださったんです。