一番偉い者は
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 22章24節~30節
24また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。25そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。26しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。27食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。28あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。29だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。30あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 22章24節~30節
ボイス・トレーニングというものを受けたことがあります。
私は年に2回くらいラジオ番組に出演しているんですが、その番組の出演者が集まって会議をして、その後、ボイス・トレーニングを受けたことがあるんですね。
ただ、どうしても、声というのは持って生まれたもので、トレーニングなんかしてもそんなに変わらないんじゃないかと思っていました。
けれども、そうじゃないんですね。
ボイス・トレーナーの先生が言うには、声というのはトレーニングで全然変わったものになるんだそうです。
実際、その先生は、フジテレビでボイス・トレーナーのお仕事をなさっておられるんですが、新入社員のアナウンサーの声を一年のトレーニングでキレイな声にするんだそうです。
では一年間、どんなトレーニングをするのかというと、その人その人の悪いくせを直すトレーニングなんだそうです。
本当はどの人も良い声を出すことができるものなんだそうですけれども、小さい頃に言葉を覚えていく時に、無意識に親の話し方の悪いくせをまねてしまうものなんだそうでして、その、後から身につけた悪いくせを直せば、もともと持っているきれいな声が出るんだそうですね。
そして、面白いなと思ったのは、その先生の授業は、最初、ストレッチで始まったんですね。
体をリラックスさせて良い状態にすることが、良い声を出すためにはものすごく大切なことなんだそうです。
普段私たちは緊張していないと思っていても、緊張しているものなんだそうです。
その緊張をほぐして、体を良い状態にする。
それがとても大事なんですね。
そこで考えたんですけれども、声って、私たちの体の状態だけじゃなくて、心の状態も出ますよね。
プラスの内容を話している時と、マイナスの内容を話しているときとでは、私たちの声は全然違っているのではないかと思います。
ですので、声というのは、私たちの心の状態と体の状態がベストの時に一番良い声が出る、ということではないかと思います。
自分がどんな声で話しているのかを気をつけてみようと思わされました。
また、声というのは誰でも良い声が出せる、親から受け継いだ悪い癖を除きさえすれば、ということですが、そのことにも考えさせられました。
聖書が示している人間というものと、重なる話だと思わされたんですね。
私たちは本来、神の似姿に造られているんですよね。
ただ、そこに、アダムとエバ以来の罪が入ってしまった。
その罪さえ取り除きさえすれば、というところですね。
今日の場面ですが、弟子たちはどんな声で話していたでしょうかね。
イエス様はどんな声で話しているでしょうか。
じっと耳をすませていると聞こえてきそうな気がします。
最後の晩餐の場面ですけれども、ちょっと困ったことになっていますね。
弟子たちの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか、という議論が始まりました。
いったいどうしてこんなことになってしまったのかと思いますね。
何しろ、皆さん、この前の場面で、イエス様が何を言っておられたでしょうか。
イエス様はこれから弟子の一人が裏切ることを知っておられたんですね。
これから十字架にかかることも知っておられます。
そのことをこの前の場面で、弟子たちに対して言っておられたんです。
弟子たちは、その場にいたんです。
それなのにいったい何でしょうか。
今日の場面で弟子たちは「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか」と議論するんですね。
イエス様がさっきまで何を言っていたのかということは置いておくとしても、そもそもこういう議論というのはどうなんでしょうか。
だって、「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか」ですよ。
小学生だったらそういう話をすることもありそうですけれども、この人たちは大人で、それもイエス様の弟子ですよ。
これはちょっともう信じられないですね。
イエス様に直接従っている人たちが、これですよ。
ではいったいどうしてこういう議論をし始めることになってしまったのかなと考えてみたんですが、今日の最初の24節では、こういう「議論も起こった」と書かれているんですね。
こういう「議論も起こった」。
ということは、他にも議論していたことがあったということになりますね。
それは何かと言いますと、23節ですね。
弟子たちは、自分たちのうちでいったいだれが裏切り者なのか、と議論していたんです。
こういう議論になってしまうのは仕方がないのかなとも思いますね。
何しろ、イエス様が、弟子たちの中から裏切り者が出ることを予告したんです。
それはいったいだれなんだろうか。
当然気にかかることです。
けれども、この議論はどういう議論だったんですかね。
もし私たちが最後の晩餐の席にいたとしたら、だれが裏切り者なのかなんてそんな議論、簡単にできますか。
なかなかできないと思いますね。
普通に考えますと、だれかを疑うということはあっても、はっきりと疑っていることを口に出したくはないですね。
でも、弟子たちはそういうこと口にしていたということですね。
あいつじゃないか、いや、お前じゃないかっていう話をしていたんです。
議論をしているっていうのはそういうことですよね。
そんな話をしていたんです。
そして、そうやって、お互いを批判するような話をしていく中で、今度は逆に、じゃあいったいだれが一番偉いのかという話になっていった。
自然な流れでそういう話になっていった。
そういうことではないかと思います。
ですから、23節と24節はつながっているんですね。
最初はお互いを批判する話をしていて、その話をしている中で、じゃあいったいだれが一番偉いのか、ということになった。
お互いを批判する話から、自分はお前よりも良い人間だ、という話になっていった。
そう考えますと、これは最初にしていた話も同じですね。
最初にしていた話、誰が裏切り者なのかとお互いを批判する話、これも、自分はお前よりも良い人間だ、という話だったはずですね。
自分はお前よりも良い人間だと思っているから、人を批判することができるんです。
つまり弟子たちは、ずっと同じことを議論していたんです。
だれが裏切り者なのかという議論も、だれが一番偉いかという議論も、中身は同じです。
自分はお前よりも良い人間だ。
結局みんな、そう言いたかっただけなんです。
聖書はそのことを、こんな子どものような争いとして描いています。
これ、聖書を読んでいる私たちも気をつけろっていうことですよね。
これは本当に気をつけたいところです。
何しろ、この時こんな子どものような争いをしていた弟子たちに対して、「あなたがたがしている話は、結局のところ、自分はお前よりも良い人間だっていう、そういう残念な話なんですよ」と言ったとしたら、弟子たちは当然否定するでしょうね。
いや、そうじゃない、自分たちはイエス様のことが心配だから話をしているんだ、とか、私たちはイエス様の弟子としてどうあるべきなのか、という話をしているんだ、と弟子たちは言うでしょうね。
自分では自分の愚かさになかなか気づかないんです。
だからこそ、気をつけたいですね。
今、聖書は私たちに言っているんです。
自分はだれかよりも良い人間だと考えることは、こんなにも愚かなことなんだ、そういうふうに考えていると、こんなにも愚かなことになっていくんだということを言っているんですね。
もし弟子たちが、この時イエス様を見上げていたら、こんなことにはならなかったでしょう。
でも、弟子たちはイエス様を見上げていたんじゃないんです。
弟子たちが議論している、「だれが一番偉いだろうか」という言葉は、「だれが一番偉く見えるだろうか」という言葉です。
イエス様が自分をどう見ているかではなくて、自分が人からどう見られているかを議論していたんです。
弟子たちの問題はイエス様を見上げていなかったことにあります。
イエス様を見上げたいですね。
イエス様を見上げていれば、自分はあいつよりも良い人間だなんてこと、考えませんから。
イエス様を見上げていれば、その時、私たちは良い声で、良い話をしているんじゃないかと思うんですね。
ここでイエス様は弟子たちに対して何と言いましたか。
これは、イエス様の弟子と、世の中の人たちは違うんだ、という話ですね。
世の中では、支配する人、権力を振るう人がいて、その人が「守護者と呼ばれている」。
この「守護者」というのは、直訳すると「善を行う者」という言葉なんですが、要するに、王様が民衆に自分のことをそう呼ばせていたんですね。
けれども、イエス様の弟子たちはそうであってはならないんですね。
「いちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。
支配し、権力を振るうのではなくて、仕える者となることが、イエス様の弟子として偉い人なんですね。
イエス様は、弟子たちに対して、偉い人になることを否定しているわけではありません。
偉い人になることは良いことなんです。
ただ、世の中のように権力を振るう人がイエス様の弟子として偉いのではなくて、仕える者が偉いんですね。
偉くなって人を支配しようとか、権力を振るおうとか、そういうことでは全くない。
仕える人が偉いんです。
そして次にイエス様は、仕える者とはどういうことなのか、ということで、「食事の席に着く人と給仕する者」というたとえ話をなさいます。
食事の席に着く人と給仕をする者はどちらが偉いか。
お客さんとウェイターはどちらが偉いか。
簡単な話ですね。
食事をする者の方が偉いに決まっています。
そしてここでイエス様は、ご自分は給仕する者である、と言うんですね。
この「給仕をする者」という言葉は単に、「仕える者」という言葉です。
イエス様は仕える者なんですね。
支配する者、権力を振るう者ではないんです。
ご自分の弟子たちに対して仕えてくださる方なんですね。
考えてみれば、今弟子たちがついているこの食卓は、イエス様が前もって準備しておいてくださった食卓です。
そして、イエス様は、この食事の場で、弟子たちにパンを与え、ぶどう酒を与えてくださいました。
イエス様が弟子たちに給仕をしてくださったわけです。
そしてその時、このパンは私の体だ、このぶどう酒は私の血だ、と言ったのです。
つまり、その時イエス様は、私はあなたたちに私の命を与える、と宣言したんですね。
これ以上の仕え方というのがあるでしょうか。
イエス様は自分の全てをささげて仕えてくださる方なんですね。
私たちは毎月一度、イエス様が記念しなさいと言った通りに最後の晩餐を記念してパンとぶどう酒をいただいていますけれども、私たちはそのようなパンとぶどう酒をいただいているんですね。
イエス様がご自分の全てをささげて私たちに仕えてくださる、その約束をいただいているんですね。
だから私たちはイエス様を見上げる。
そうなると、自分はあいつよりも良い人間だなんてこと、考えませんよ。
というか、自分はあいつよりも良い人間だって考えていたら、それこそ、人を支配して権力を振るって、自分のことを良いように言わせて、ということになるんじゃないですか。
自分はあいつよりも良い人間だ、だから、権力を振るっても当然だ。
それが世の中の考え方ですね。
けれども、そのような弟子たちに対して、イエス様は命をささげて仕えてくださるんですね。
イエス様が命をかける価値なんてないんじゃないんですかって、そう言いたくもなるんですけれども、でも、イエス様はそうはお考えにならないんですね。
私たちには、ご自分が命を投げ出してもおしくないくらいの価値がある。
それくらい私たちは尊い。
イエス様はそう思っておられるんです。
だから、次の言葉でイエス様は言うんですね。
弟子たちをまったく否定しないんです。
「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」。
この言葉、どうでしょうか。
「踏みとどまってくれた」。
確かにこれまではそうだったかもしれません。
でもこれからこの弟子たちの中からイエス様を裏切る者が出ます。
そして、そうなると、他の弟子たちも全員、イエス様を見捨てて逃げ出すんです。
そのことをイエス様はもう知っておられます。
そしてこの、「踏みとどまってくれた」という言葉は、原文では、過去のことだけを言っているのではなくて、これからもずっとそうなんだ、という言い方なんですね。
それなのにイエス様は言うんですね。
「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」。
一度は逃げ出した弟子たちでしたが、後になってから、この弟子たちはキリストの教会を建てていきます。
世界中に建てていきます。
色々な試練が弟子たちにはありました。
けれども、そこでは、絶えずイエス様と一緒に踏みとどまって、教会を建てあげて行ったんですね。
弟子たちは、後から仕える者となっていったんです。
イエス様は弟子たちの失敗は見ておられないんですね。
どのように弟子たちがまことに仕える者になっていくか。
そこだけを見ておられるんです。
失敗は見ないんです。
良い面を見てくださる。
それくらい、失敗に目が止まらないくらい、弟子たちに価値を見出しておられるんですね。
私たちもそうじゃないですか。
私たちも、自分にとって価値のある人の失敗は気にせずに良い面を見ますけれども、それと同じことですね。
それくらい、イエス様は私たちのことを大事に思ってくださっているんです。
だから、最後のところでイエス様が言っておられますけれども、イエス様は弟子たちに支配権を与えると約束してくださっています。
この「支配権」という言葉は原文では「国」という言葉です。
イエス様は弟子たちに国を与えてくださった。
国には国民が住んでいるわけですが、それが一番最後のところの「イスラエルの十二部族」です。
イスラエルは十二の部族から成り立っていたんですが、イスラエルというのは神様が選んだ神の民ですね。
そして、新しい神の民の集まりが教会です。
弟子たちはこれからまさにそのように、世界中に教会を建てあげていくんですね。
今はまだ、自分はあいつよりも良い人間だと考えてそんな議論をしている弟子たちですけれども、その弟子たちにイエス様は、お前たちはこれから一番偉くなるんだよ、と言ってくれているんです。
イエス様は今、どんな声で話しておられるんでしょうね。
これから逃げ出す弟子たちなんですけれども、でも、そんなことには目を止めずに、イエス様は、その向こう側に、弟子たちが仕える者になって、立派に教会を建て上げていく姿を見ておられるんです。
イエス様は私たちも同じように見てくださっているでしょうね。
私たちにも、弟子たちと同じような弱さがあります。
欠けがあります。
けれども、イエス様は、そこには目を留めておられない。
私たちが必ず立派に教会を建て上げることができると、そこを見てくださっている。
私たちが、一番偉い者になる、身を低くして仕える者になると、そこを見てくださっているんです。
そのために、イエス様は私たちにも、パンとぶどう酒を給仕してくださっているんです。
イエス様が命をささげて私たちに仕えてくださっている。
だとしたら、弟子たちにできたことで、私たちにはできないことなんて、何もないはずです。
ですから、こう信じることができます。
私たちの教会も、これから、もっともっと立派な教会になっていくでしょう。
イエス様に見守られて、励まされて、祝福されて、もっと立派な教会になります。
そのために、イエス様は私たちにもパンとぶどう酒を与えてくださっているのです。
そのことを信じて、歩んで行きましょう。
イエス様はもう、道を備えてくださっています。