裁くためではなく救うため
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 12章44節~50節
44イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。45わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。46わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。47わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。48わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。49なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。50父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 12章44節~50節
最初に、「イエスは叫んで、こう言われた」とあります。
イエスが大声でお話をしたことは、今までにも何度かあったことでした。
大事なことを大事なタイミングで話す時には、イエスは大声で話したんですね。
しかし、この前の場面、12章36節には、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」とありました。
そして、この後、イエスが人前に姿を見せるのは、逮捕されて裁判の場所に引きずり出されてからです。
ですから、今、イエスの周りにいるのは弟子たちだけです。
そして、弟子たちしかいないのなら、叫んで話す必要はありません。
今までにイエスが叫んだ場面も、大勢の人に話を聞かせるために、大きな声を出したわけです。
では一体これはどういうことなのでしょうか。
そこでもう一つ気になるのは、この話の内容です。
今日のイエスの話はすべて、今までにも言われてきたことです。
今日のイエスの話に、新しい話は何もないんですね。
今までにも色々な場面で言われていたことが、ここに一つにまとめられている感じです。
この福音書を書いたヨハネが、イエスが今までに人々に伝えてきたことを、最後の最後にここにまとめて書いておいた、ということになるでしょう。
そして、今日の話は、イエスは何者か、ということに始まって、イエスと神との関係を語りながら、救いと裁きについて語るという、重要な話であり、深い話です。
まさに、大声で語るべきことです。
だから、「イエスは叫んで、こう言われた」と書いた。
最後の最後に、これだけは分かってほしいということを、まとめて書き記した。
そういうことではないかと思います。
つまり、イエスが叫んだというのなら、それは、この本を読んでいる私たちに対してなんですね。
これこそが、イエスが人々に残した言葉であるということ。
イエスは今まで、必死で今日の話を伝えてきて、そして、人前から姿を消した。
後は十字架だけなんですね。
そう考えますとこれは、決別電報のようなものだとも思います。
戦争で、ある部隊が、敵の攻撃を受けて全滅する。
その直前に、後方の味方に「自分たちはこのように戦いました。後はよろしく頼みます」と連絡する。
その、最後のメッセージが決別電報です。
ただ、今日のイエスの言葉は、決別電報とは決定的に違うんですね。
イエスは、「後はよろしく頼みます」とは言わないんですね。
イエスはこれから、ご自分の力で、人を救うんです。
その救いを、この本を読んでいる人がいただくことができるようにということで、今日のメッセージがあるわけです。
だからこそ、「イエスは叫んで、こう言われた」ということになるんですね。
ここに救いがかかっているんです。
まず、イエスは、ご自分と神との関係について話します。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」。
イエスは父なる神の御心を実現するために遣わされました。
その意味で、イエスを見るとは神を見ることです。
では、神の御心とは何でしょうか。
続きに書いてあります。
「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」。
この世は暗闇なんです。
そこに、イエスという光が差し込んだ。
これはつまり、人を救いたいという神の御心です。
旧約聖書の預言書であるイザヤ書の9章1節に、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」るという御言葉があります。
このイザヤ書9章1節は、イエス・キリストを現しているということで、新約聖書にも引用されていますが、この世は闇なんですね。
どうしてかというと、9章1節の後半の方には、「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とありまして、この9章1節の後半は、前半の言い換えなんですね。
同じことを、表現を変えて、別の言葉でもう一度書くという表現の仕方があるんですね。
ですので、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」るというのと、「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」というのは、同じことを言っていて、前半の「闇」というのは後半の「死の陰」なんです。
そして、「死の陰の地に住む」というのは、人間皆そうですね。
私たちは皆、「死の陰の地」に住んでいる。
いずれ死ぬ運命の中で、いずれ死ぬことを知りながら生きている。
それが「死の陰の地に住む」ということですね。
神は、そこから、人を救い出したい。
神の目には、人は、死という、どうしたって抵抗できない大きな力に支配されているように見えている。
そこから人を救い出したい。
死の陰は闇ということですので、それを滅ぼすのは光です。
それが、キリストご自身なんだということですね。
ただ、救いだけではないんですね。
救いと裁きがあるわけです。
現実問題、死に滅ぼされてしまうようなことがあるわけです。
ただ、イエスは救うのが役割であって、裁きはしないというのが47節です。
裁くのは誰か。
48節にこうありますね。
「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」。
どうしてそうなるのかというと、48節の前半に、「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある」とあります。
イエスは救うのが役割です。
ですから、イエスを拒み、イエスの言葉を受け入れないということは、当然、救いを拒んだことになるわけです。
人は自分から救いを拒んでしまうものなんですね。
それで裁くというのは心が狭いと思う人もいるかもしれませんが、人間には罪があります。
罪というのは神に背く性質があるということです。
ですから、人が救いを拒むというのは、おかしなことではありません。
ただ、罪に対しては罰を、というのが世の中の常識であり、それは、聖書が語っていることでもあります。
そして、聖書的には、神には人を裁く権利があるわけです。
人を造り、命を与えたのが神だからです。
旧約聖書には、神を陶器師に、人間を陶器にたとえた話があります。
陶器師は陶器を作りますが、それを自分で壊すこともあります。
それは陶器師の自由です。
作った者と作られた者は対等ではありません。
むしろ、必要ないものを処分するのは、作った者の責任とも言えます。
神が人を救うために神の子を遣わしたとは言っても、自分から救いを拒むのなら、裁きしかないわけです。
ただ、イエスは裁きをなさいません。
裁きがあるのは神の定めた終わりの日です。
イエスがご自分の判断で裁きをなさることもありません。
そもそも、49節に、「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである」とあります。
イエスは完全に神の御心の下にあるわけです。
そして、50節を見ると、その「父の命令は永遠の命」です。
「永遠の命」というのは、死の陰からの救いですね。
父なる神はイエスに、救いを命じたわけです。
ただ、人は、イエスの言葉を聞いても信じない。
そして、聖書全体を通して、神が信じない者の心をねじ曲げて、無理に信じさせるという場面はないわけです。
それは、神が人の意思を尊重しておられるということにはなるけれども、罪の内にあって、罪が当たり前で、自分を罪人とも本気では思わない人間には、裁きしか残されていません。
求めれば誰にでも救いは与えられるのに、多くの人が受け取ろうとしない。
そのような現実の中で、これから、キリストの十字架と復活による救いが実現していくのです。
そのような現実があるのなら、もう何をしても仕方ないのではないかとも思えます。
しかし、イエスは、十字架と復活によって、ご自分が救い主であることを証ししてくださったと言えます。
自ら逮捕され、裁判の場でも何も言わずに十字架にかかったことは、イエスのくださる救いが真実であることの一つの証しになります。
何より、その後に、死に打ち勝って復活し、500人以上の人々の前に姿を現したこと。
これもまさに証しになるわけです。
そして、それを受けて、弟子たちは世界中に出て行って、キリストの復活を証ししました。
使徒言行録に弟子たちがイエス・キリストを宣べ伝えていく様子が描かれていますが、彼らが伝えたことは、キリストの教えよりも、ほとんどすべて、キリストの復活です。
その弟子たちにしても、弟子でありながら、元々は信じていなかった人たちです。
キリストが逮捕されると、わが身可愛さに全員逃げ出したわけですから。
その弟子たちが、十字架の後、打って変わって、命も惜しまずキリストの復活を宣べ伝えるようになるのです。
キリストの直接の弟子たちは十二人いましたが、十二人のうち十一人までは、殉教したと伝えられています。
これもまさに証しです。
信じることができない私たちのために、キリストご自身が証ししてくださり、逃げ出した弟子たちをも、命を惜しまず証しする者にしてくださったのです。
今日の話は、余地のない、厳しい話のように聞こえます。
しかし、この救いが実現するために、キリストがここまでしてくださったことを思うなら、命をかけて復活を宣べ伝えた弟子たちを思うなら、誰も軽々しく、信じないとは言えないはずです。
18世紀に、イギリスのある牧師が、一般の人々のために教理問答を書いたのだそうです。
教理問答というのは、聖書の内容についての質問と、それについての答えから成っていて、聖書の内容をかいつまんで教えてくれるものです。
その牧師が書いた教理問答の最後の質問は、キリスト教の真理とメッセージとを無視したものは一体どうなるか、というものでした。
それについての答えは、「キリスト教のメッセージを無視する者は必ず罪に定められる」ということでした。
そして、それに付け加えて、このように書かれています。
「まして、あなたはこの本を読んだのだから、その罪は一層深い」。
この牧師がどれほどの思いでこの教理問答書を書き上げたのかが分かる話です。
今日のイエスの言葉にも、それと同じ精神を感じます。
今日の言葉は、これを最後にイエスが死に向かっていく言葉です。
その意味でこれは決別電報です。
だからこそ、この言葉には、他の言葉以上の思いがあると言えます。
その思いとは何でしょうか。
イエスは、ご自分の愛する人を、一人も失いたくないのです。
だからこそ、ご自分が十字架にかかることをも良しとしてくださった。
復活した後には、逃げ出した弟子たちに会いに来てくださった。
逃げ出したことを責めることもなさらなかった。
キリストにとって、それらのことはすべて小さなことなんです。
大事なのは、一人でも多くの人を救うこと。
その御心を以って、今日、キリストは、私たちに叫んでおられます。
その御言葉に聞きましょう。
キリストは、文字通り、必死の思いで私たちを愛しておられます。
その愛によって、私たちは、本来、信じることのできない者であるはずなのに、信じる者に変えられるのです。