今日の話は、世の終わりの裁きの話です。
ここに至るまでにも、こういう話がずっと続いています。
それも、一つ一つの話が長いんですね。
よほど大事な話だということになるでしょう。
もちろん、大事な話ですね。
天国に行くか地獄に行くか。
これ以上大事な話はありません。
私たちが世の終わりに行くべきところは、天国か地獄か、どちらかしかないというのが、今日の話です。
私たちは、羊か山羊か、どちらかしかないのです。
羊には永遠の命が与えられます。
山羊は永遠の罰を受けます。
羊でも山羊でもない人というのは出てこないのです。
私たちは、自分がグレーゾーンだと思うかもしれません。
しかし、今日の話は、グレーゾーンはないという話なんです。
白か黒かだけ。
私たちは、この話をしっかり聞きたいと思います。
まず、一番大事なのは、羊と山羊が分けられる時には、どういうことで分けられるのかということですね。
35節、36節にこうあります。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。
イエス様が困っていた時に助けたことがあるということですね。
いや、助けたというのは少し違うかもしれません。
病気の時に、治療をして病気を治してくれた、とは言われていません。
お見舞いしたんです。
お見舞いしても治りませんが、お見舞いをした。
慰めた、励ました。
愛を現した。
これは、牢にいた時も同じですね。
牢にいた時に、何か話をして、手続きをして、牢から出してくれた、とは言われていません。
牢にいた時に訪ねてくれた。
牢にいる人を訪ねても、その人が牢から出られるわけではありませんが、その人を訪ねた。
慰めた、励ました。
愛を現した。
自分に出来ないことをしろと言われているのではないということになりますね。
出来ることをするだけでいいんです。
それは、他のことでも同じですね。
飢えている人を食べさせる。
それが出来るということは、自分は食べ物を持っているということになりますね。
まあ、大方の人は家の中に何か食べるものは持っているでしょう。
それを人にあげる。
水をあげるというのも、自分が水を持っているということになりますね。
それは私たちも持っていることになるでしょう。
宿を貸すというのも、自分に家があるということになりますね。
それもあります。
服を着せるというのも、今自分が来ている服以外に服を持っていることになりますね。
それもそうですね。
つまり、出来ることをするということなんです。
しかし、助けてもらったこの人は、どういう人なのでしょうか。
飢えている、のどが渇いている、旅をしていて宿がない、服もない、病気である、牢に入れられている。
「この時に」、「この時に」と言われていますから、これが全部同時に当てはまっているということではないでしょう。
そして、考えてみると、これらはどれも、私たちもいつかそうなる可能性のあることですね。
逆に言って、これらのどれも経験したことがないという人の方が少ないはずです。
ただ、どれか一つでも経験するとしたら、それは大変なことです。
「のどが渇いている」ということですが、大げさな言い方をすると、人間は、三日間水を飲まなかったら命を落としてしまいます。
「旅をしていて宿がない」場合も、もっと大きなリスクにさらされることになります。
そして、これらの状況はすべて、そういう状況になってしまったのなら、自分ではどうすることもできない状況であると言えます。
40節でイエス様は言っています。
自分ではどうにもならない状況に置かれてしまったという意味で、この人は最も小さい人なのだ、ということですね。
自分ではどうすることもできない状況が、起こっている。
自分に起こっている出来事を、自分で分かっているけれども、それでもどうすることもできない。
自分の家族が牢に入っているというのではありません。
自分が牢に入れられているのです。
自分が病気で、自分に服が無くて、宿が無くて、水が無くて、食べ物が無いのです。
自分のことを自分でどうにもできないのです。
最も小さい人というのは、分かっていても、自分で自分をどうすることもできない人のことです。
場合によっては、私たち自身にも起こりうることです。
そして、イエス様は、最も小さい者は自分の兄弟だと言いました。
どうしてでしょうか。
イエス様こそ、最も小さくなられた方です。
神の子であるのに、この世に降りてこられて、人になられた。
これ以上小さくなるということはありえません。
だから、イエス様の目は、小さい者に向けられていくんですね。
この世の人は小さい者に目を向けるより、大きい者に目を向けますが、イエス様は私たちとは違う見方をしておられるということです。
神が人になられた。
それで、見え方が違うわけです。
まして、イエスがこの世に来られたのは、最も小さい人を救うためですね。
それは、私たち全員そうです。
私たち全員、自分の罪を自分でどうにもできない、最も小さい者です。
私たちは皆、思いと言葉と行いで、神に背くことがあります。
自分のことだけれども、私たちはそれを自分でどうすることもできません。
その、最も小さい者である私たちのために、イエス様は人となられて、私たち罪人の代わりに、罰を受けてくださったのです。
神が人になって、私たちのために、命まで投げ出してくださった。
イエス様は、最も小さい人のための救い主なんです。
そして、最も小さくなって、最も小さい人を救ったのがイエス様です。
だから、イエス様にとって、最も小さい人は、命を投げだしても構わない、兄弟なんです。
イエス様がそのような方だと分かっていたら、私たちにはできるはずです。
自分のことを自分でどうすることもできない人がいて、その人を助ける。
それは、その時だけのことかもしれません。
飢えている人に食べ物を差し上げる。
その人は、明日もどこかで飢えているかもしれません。
牢に入っている人を訪ねる。
これだともう、解決にはなっていないんです。
でも、出来る範囲で、その人に愛を現す。
イエス様がどういう方なのかが分かっていたら、私たちにも自然にできるはずです。
イエス様の目は、いつも、最も小さい人を見ておられます。
そして、私たち自身、最も小さい者です。
その私たちが、最も小さい者のための救い主に救われたんです。
イエス様が私たちを救ったのは、私たちが大きい者だからではありません。
最も小さい者だから、放っておけなかったんです。
その御心で、私たちは救われたんです。
そこに私の命があるんです。
だとしたら、私たちにはできるはずです。
周りの人の見え方が変わってくるはずです。
最も小さい人に目が行くようになって、自然に助けることができるようになるはずです。
この話の中で、最も小さい人を助けた人たちは、あなたがたは私を助けてくれたと言われて、驚いています。
助けた人たちには、そんなつもりはなかったんです。
相手がイエス様だなんて、思ってもいなかったんです。
ただ、この人たちは、イエス様の御心を現していた。
何も意識していなくてもそうすることができるくらい、イエス様に似た者になっていたんです。
最も小さい人を助けなかった人たちも、あなたがたは私を助けてくれなかったと言われて、驚いています。
その人たちの言葉は、助けた人たちの言葉とほとんど同じですね。
助けなかった人たちも、そんなつもりではなかった。
ただ、この人たちは、イエス様の御心を知らなかった。
だから、最も小さい人に心を留めることがなかった。
イエス様に似た者ではなかったんです。
どちらの人たちも、そんなつもりではなかったので驚きました。
片方の人たちは、何も意識しなくて、小さい人を助けました。
それがその人にとって自然なことだった。
もう片方の人たちは、何も意識しなくて、小さい人を助けませんでした。
それがその人にとって自然なことだった。
私たちも、いつか、その時が来たら、驚くことになるということでしょう。
大事なのは、今の内に、私たちが、どれだけイエス様に似た者になることができるかどうかです。
イエス様に心を向けましょう。
イエス様の目は、最も小さい者に向けられています。
そう、私たちに向けられているんです。
イエス様は最も小さい私たちのために、最も小さくなってくださいました。
神の子が最も小さくなってくださったところで、私たちは救われたんです。
私たちが見上げる十字架の主は、最も小さくなられた方です。
私たちは、小さいことというのはつまらないことだと考えます。
しかし、小さいことというのはつまらないことでしょうか。
イエス様から見て、私たちが小さい者だからこそ、イエス様はご自分から進んで小さい者になってくださったんです。
ご自分でご自分を小さくするようなことをしてくださったんです。
最も小さくなってくださった。
これはつまり、大きい小さいなんて、どうでもいいことだと、イエス様は言っているんですね。
イエス様は私たちを愛しておられます。
愛しているから、大きい小さいなんてどうでもいいんです。
愛するとは、そういうことですね。
どんなことがあっても、どうでもいい。
私はあなたを愛している。
そのイエスの愛をしっかりと自分の心に留めたいと思います。
そうすれば、意識しなくても、自然に人を愛することができるはずです。
だからこそ、イエス様は、今日、私たちに、このようなことを教えてくださったんです。