先週の場面で、サマリア人の女性がイエスに「水をください」と頼んだ。
イエスが話していたのは、普通の水のことではなく、「永遠の命に至る水」のことで、それは、「その人の内で泉となる」、つまり、後から後からいくらでも湧き出してくるようなものだった。
これは普通の水ではない。
救いのこと。
この女性はそれを理解していたわけではないけれども、とにかく、水を求めた。
そうすると、イエスは「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言った。
水の話ではない。
救いの話でもない。
しかし、これはイエスがこの女性のことをすべて良く分かっておられてそう言っているということが後から明らかになる。
この女性は、このことで、渇いていた。
救われていなかった。
この人には夫がいなかった。
この答えは嘘ではない。
しかし、答え方として不十分。
イエスは言った。
「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
この女性は、今までに、5人の夫と結婚しては別れてきた。
今もある男性と一緒にいるが、正式に結婚はしていない。
一体これはどういうことか。
結婚していても、次々に夫が死んだということか。
当時の平均寿命は38歳。
この時代なので、大きな事故に遭ったり大きな病気をしたりすると、だいたいの場合、助からない。
栄養の条件も今よりも悪い。
しかしもし、結婚相手が次々に死ぬというようなことがあったなら、この時代なら、次に一緒に生活する相手というのは、おそらく見つからないだろう。
実際、結婚相手が次々に死んでしまうために、魔女のように見られた女性の話が、聖書の時代に書かれた本に残されている。
ということは、この女性は、結婚はするけれども離婚してしまうということを繰り返してきたということ。
しかし、それにしたって、この時代にはそういう人がどのように見られたか。
薄汚い者のように見られた。
誰もこの人を相手にする人はいなかった。
だから、この人は今、昼に水を汲みに来ている。
この人は、人がいるところには行けない。
人がいるところで水を汲もうとしたら、嫌がらせをされるということもあったかもしれない。
いや、きっとそう。
この人が今まで、相手から離婚を言い渡されてきたのか、本当のところはこの人から離れていったのかは分からない。
離婚しても再婚できるということは、夫が書いて、妻に与えた離縁状があったはずなので、今までの夫たちも、離婚に納得はしていたらしいが、本当のところはどちらから離婚を切り出したのかは分からない。
この女性の方に高い理想があって、離縁状を書くことを求めたのかもしれないし、夫の方が妻を嫌うようになって、離縁状を書いて追い出したということかもしれない。
いずれにせよ、この女性は、なぜ自分はいつもこうなってしまうのかということで悩んでいただろう。
そして、いずれにせよ、街中ではつまはじきにされて、孤独だった。
疲れていただろう。
しかし、その女性に、イエスの方から声をかけた。
「水を飲ませてください」。
これは、この孤独な女性にとって、本当に久しぶりに他の人から声をかけられた瞬間だっただろう。
そして、イエスはこの人のことをすべて知っておられて、この人が「水をください」と求めるように、心を開いてくださった。
しかし、永遠の命に至る水をいただくためには、自分の渇きをイエスの前にさらけ出さなければならない。
イエスはそれをすべて知っておられる。
ただ、私たちの方からそれをイエスに示すこと。
それはイエスへの信頼がなければできないこと。
永遠の命に至る水は、イエスとの信頼関係の中でいただくもの。
だから、イエスはこの女性に、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言った。
それは、この女性の罪や恥を責めるためではない。
イエスがそれを背負ってくださるため。
人の罪を代わりに背負って、ご自分が十字架にかかるため。
この話は何も、この時だけの特別なことではない。
イエスは私たちのすべてを知っておられる。
牧師には皆、こういう経験がある。
日曜に説教をした後、「先生は今日、こういうお話をなさいましたが、先生は誰かから、私の家の話を聞いていたんですか」。
何も聞いていない。
そんなつもりで話をしたわけでもない。
誰も気付かない所で、イエスが働いてくださるということは、珍しいことではない。
この人は言った。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」。
預言者というのは、神の言葉を伝える人。
そのために、神から遣わされた人。
この女性はサマリア人だが、サマリア人にとって、モーセの次に現れる預言者は救い主。
この女性はイエスが救い主であると考えている。
ただ、イエスはユダヤ人。
ユダヤ人とサマリア人は対立していた。
お互いがお互いに、こちらが本物だ、相手は偽物だと言っていた。
それはどうなるのか。
どちらが本物なのか。
この女性は、「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と言った。
夫の話をしていたのに、全然違う話になっている。
しかしこれは、この女性が話を変えようとしているということではない。
もし、話を変えようとしたのなら、イエスは話を元に戻しただろう。
しかし、イエスも、もう夫の話はしない。
話は、礼拝についての話になっていく。
これで良いということ。
この女性は人間関係に傷つき、孤独だった。
人に求めても満たされない。
その中で、神を求める思いが与えられていったのかもしれない。
実際、このところにある井戸は、ヤコブの井戸という由緒正しい井戸。
その井戸のことを自慢するように語ってもいた。
この人は孤独の中で気づいた。
人に満たしてもらえなくても、神とのつながりが確かなら、人に対して渇くことはなくなる。
神とのつながりが確かでないから、人を求めてきたけれども、それは、神とのつながりの代わりにはならない。
そもそも、人に完全に満たしてもらえることがあるのか。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く」というイエスの言葉があった。
根本的に必要なのは神とのつながり。
イエスは言った。
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」。
どちらが本拠地かということは問題にならない。
そして、ここでイエスは、「わたしを信じなさい」と言っている。
その上で、「父を礼拝する」と言っている。
目の前にいる人が、神の子だと信じること。
それは、神の子が人となってこの世に来られた、私の所に来てくださったと信じること。
それは、罪人の代わりに身代わりになってくださり、私たちを神の前に取り戻すためだったと認めること。
イエスを、救い主と信じること。
サマリア人には知らないことがある。
旧約聖書の最初の5つの本しか読まない。
だから、ユダヤ人の中から救い主が現れるということを知らない。
けれども、救いはユダヤ人から来て、エルサレムとかこの山とか、地理的な、人間的な対立を超えて、すべての人に与えられる。
その礼拝は場所が限定されるようなものではない。
人種が限定されるものでもない。
まことの礼拝は、霊と真理をもってする礼拝。
神が霊であるから。
だから、霊である神に向かい合い、神につながるのに、場所や人種は関係ない。
霊である神に、霊と真理をもって礼拝する。
神が救い主を私に遣わしてくださったという、私たちに与えられた霊的な事実、神の真理をもって、神を礼拝する。
その時はいつ来るのか。
「今がその時である」とイエスは言う。
この女性は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と言っている。
まだ、確信できないでいる。
しかし、このように言うということはどういうことか。
もうほとんど、イエスが救い主であると信じていて、その答えをイエスの口から聞きたいと願っている。
この女性は、確信は出来ていなかったが、イエスに求めた。
それこそ、霊と真理を求めた。
求める者には与えられる。
そしてその、霊と真理をもって礼拝するようにされる。
帰ってきた弟子たちは、イエスがサマリア人の女性と話をしているのを見て、固まってしまった。
弟子たちは、自分の常識にとらわれている。
しかし、救われた女性は水がめを置いて、町に戻る。
おそらくは、走って。
まことの礼拝において永遠の命に至る水を与えられて、渇きをいやされて、満たされて、新しく生き始める。
今まで、自分が相手にされなかったし、自分の方でも避けていた町の人たちのところに行って、救い主を証しする。
それは、勇気を振り絞ってそうしたということではなかっただろう。
渇きをいやされて、満たされた喜びの大きさに突き動かされて、気づいたらそうしていた。
それは、もうそれだけで、町の人たちを変えるくらいだった。
町の人たちが、今まで話したこともない、話したくもないこの女性の話を聞いて、イエスのところにやって来る。
現実に、いやされて、満たされて、新しくされるということが起こっている。
これ以上ないくらいの劇的なこと。
そして、それは、いつもの日常の中で起こった。
場所は、井戸端。
非常に良く知っている場所。
いつもの場所で、いつもと違うことが起こる。
それは、今日かもしれない。