インターネットにインスタグラムというのがありまして、写真をとって、それをのせて、みんなに見てもらう、というものなんですね。
それがインスタグラム、略してインスタ。
みんなに見てもらう写真ですから、良く見えるもの、見栄えがいいものをのせたいわけです。
インスタグラムで見るのに見栄えが良いものを、「インスタばえ」と言っています。
前の教会にいた時に、高校生たちが、この「インスタばえ」という言葉から「イースターばえ」、という言葉を言い出しまして、若い人たちの言葉への敏感さに驚いたことがありました。
ただ、世の中の言葉には流行がありますけれども、聖書の言葉は永遠に変わらない神様の約束の言葉です。
神様の言葉の実現を求めていく中に、私たち一人一人に、イースターばえのする日がやってくるんじゃないかなと思います。
ただ、今日の場面は、イースターばえしないような場面ですね。
喜びというのはないわけなんですね。
二人の弟子たちがおかしな方向に歩きだしていきますね。
今までエルサレムという町にいたんですが、そこから離れていくんです。
エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に向かっていきます。
このエマオという村はこの二人がもともと住んでいた村なのかもしれません。
もう、イエス様が死んでしまって、すべて終わってしまったから、もう家に帰ろう、ということでしょうか。
とにかく、今までいたところから離れていきます。
イエス様から離れていきます。
17節に、この二人は暗い顔をしていたと書かれていますけれども、もう本当に悲しかったんでしょうね。
悲しくて悲しくて、あきらめてしまって、イエス様から離れていくんです。
悲しみが人を間違えさせるんですね。
ただ、この時弟子たちは、イエス様のことを完全にもう忘れてしまったのではありませんでした。
ずっと黙って二人で歩いていたのではなくて、イエス様の話をしていたんですね。
どういう話をしているのかと言うと、19節に、こういう話をしていたんですという話が出ていますけれども、要するに、イエス様という素晴らしい人がいたけれども、権力者たちに殺されてしまった、そして、お墓の中からイエス様の遺体がなくなってしまった、という話ですね。
こうなりますと、この二人は復活を信じているのかと思ってしまいますが、信じていたのではありません。
信じていたんだったら、エルサレムから離れていくことはありませんね。
15節に、この二人は「話し合い論じ合って」いたと書かれていますけれども、要するにこの二人は、これはこういうことではないか、あれはこう考えたらいいんじゃないか、と議論していたんですね。
イエス様が十字架につけられてしまったのは権力者が裏で仕組んだことなんじゃないか、とか。
お墓に行った婦人たちの前に天使が現れたというのは、イエス様が生きていてほしいという婦人たちの気持ちが強くて、それで、婦人たちはありもしないものを見たんじゃないか、とか。
お墓にイエス様の遺体がなくなっていたのは、誰かが持ち出したんじゃないか、持ち出したとしたら、あの人じゃないか、とか。
そういう話をしていたんじゃないかなあと思いますね。
とにかく、議論をしていたとは言っても、元気に言葉をやり取りしていたわけではないでしょう。
暗い顔で、暗い声で、ポツポツ話をしていたんじゃないかと思います。
もうこうなると、イエス様の弟子とは言えませんね。
いや、この二人にそんなことを言ったとしたら、先生が死んだのにどうしろって言うんだ、と怒られるかもしれませんけれども、この二人は、もう全部終わってしまったと思っているんです。
けれども、終わっていないんですね。
イエス様が終わらせないんです。
イエス様がこの二人に近づいてきます。
そして、一緒に歩きはじめます。
18節を見ますと、「エルサレムに滞在していながら」という言葉がありまして、イエス様もエルサレムの方から来たということのようですから、要するにイエス様はこの二人を後ろから追いかけてきたんですね。
イエス様は、勝手にあきらめた弟子たちを後ろから追いかけてきて、一緒に歩いてくださるんです。
けれども、不思議なことに、二人にはそれがイエス様だとは分からなかったと言うんですね。
これはどういうことなのかなあと思いますが、16節に、「二人の目は遮られていた」と書かれていますね。
実際の目ではなくて、心の目ということなんでしょうけれども、さえぎられていた。
ここのところを原文で読みますと、このさえぎるという言葉は、支配されるというような言葉なんですね。
弟子たちは何に支配されていましたか。
悲しみに支配されていました。
ですから、ここのところは、私たちの悲しみがイエス様をさえぎってしまうということを言っているのかもしれません。
この弟子たちは深く悲しんでいました。
そして、もうすべてが終わってしまったと絶望して、イエス様から離れていく旅をしていました。
悲しみが、人をイエス様から離れさせるんです。
だから、悲しみがイエス様をさえぎって、イエス様を分からなくさせていた、悲しみがイエス様をさえぎってしまったということを聖書は言いたいのかもしれません。
考えてみると、ヨハネによる福音書でイエス様のお墓に行ったマグダラのマリアも、お墓でイエス様に会ったけれども、最初はそれがイエス様だとは分からなかったと書かれています。
そして、マグダラのマリアも、その時ひどく悲しんでいたんですね。
私たちも、心したいと思います。
悲しみがイエス様を遮るということがあるんですね。
ここでイエス様は、何にも知らないふりをして、「その話は何のことですか」なんて話しかけますね。
二人の内の一人が答えますけれども、話を聞いていると、キリストが十字架につけられたことは、エルサレム中に知れ渡ったことのようですが、イエス様はそれでも知らないふりをされます。
イエス様はまず、弟子に話をさせようとするんですね。
弟子の理解を確かめるんです。
弟子は、イエス様のことを説明して、イエス様は預言者だったと言いますね。
預言者というのは神様から言葉を預かって、それを人々に伝える人のことですから、イエス様は預言者であるというのは間違ってはいません。
権力者がイエス様を十字架につけたと言いますが、それも間違っていません。
けれども、21節、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。
これはどうでしょうか。
イスラエルはこの時、ローマ帝国という大きな国に支配されていました。
そのローマ帝国からの解放です。
弟子たちは、それを期待していたんです。
それを期待して、イエス様に従っていたんですね。
その期待は、弟子たちの勝手な期待でした。
勝手な期待が期待外れに終わってしまって、勝手に絶望することになったんです。
けれども、十字架につけられてから「もう今日で三日目になります」と弟子は言います。
「三日目」と聞いたら私たちは三日目に復活するというイエス様が予告なさっておられた言葉を思い出しますが、弟子たちは復活ということはまったく信じていないんですね。
この弟子たちは、お墓に行った婦人たちが、イエスは復活したと話していたことを聞いているのに、しかも、婦人たちは、この前の場面の9節で、一部始終を話して聞かせたということですので、7節で婦人たちが天使から聞いた「三日目に復活する」という話も聞いていたはずなのに、それでも信じないんですね。
24節を見ますと、この弟子たちは、ペトロが後からお墓に行ってイエス様の遺体がないことを確かめたということも知っています。
それでもやっぱり信じないんですね。
ある意味、この人たちはごく普通の人だと思いますね。
天使であろうが仲間であろうが、人が言うことよりも自分の考えを大事にする。
誰の言葉よりも、自分の考えを大事にする。
自分の考えに合わないものは受け入れない。
その意味で、ごく普通の人たちです。
だいたい、とにかくイエス様は自分たちの目の前で死んだんだから、それは間違いないんだから、お墓に遺体がなかったとしても、大きなことではない。
この弟子たちはそう考えたでしょうね。
ただ、自分の考えを第一にしていたのでは、自分の考えを超えるものを理解することはできません。
自分の考えが一番大事なんだったら、神を理解することはできないんです。
弟子たちはそれを反省しなければいけません。
こんなのでは、最初から弟子とは言えないんです。
けれども、そんな弟子とも言えないような弟子であったそしても、イエス様は一緒に歩いてくださって、話をしてくださるんですね。
それも、後ろから追いかけてきて、話をしてくださるんです。
これは、いろいろなかたちで私たちにも起こっていることではないかと思うんです。
私たちも、自分の考えを一番にしてしまうことがあります。
自分ではそう気づいていないかもしれませんが、そういう時が一番危ないですね。
これはこうだろう、これはこうするのが当然だろうと私たちが思う時、たいていそれは、他の人から見たら、まして神様から見たら、自分の考えを一番にしてしまっている時ですね。
それは必ずしも間違っているわけではないのかもしれませんが、その時、私たちの目はもっと大事なものからさえぎられているんです。
この二人がそうですよね。
この二人の考えたことは、必ずしも間違ってはいません。
けれども、自分の考えを一番にしているその時には、イエス様は見えないんです。
そのことをイエス様は、「物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言っていますけれども、それは誰にでも当てはまります。
私たちが私たちである限り、毎日そうだと言ってもいいでしょう。
けれども、その私たちを、イエス様は追いかけてきてくださる。
私たちには、それがイエス様だとは分かりません。
けれども、イエス様が私たちを追いかけてきてくださって、私たちに話をしてくださっていることというのはあるんじゃないかと思うんですね。
そして、この時、イエス様は弟子たちに聖書からご自分のことを説明してくださったと27節に書かれています。
イエス様はここで、何か奇跡を行って、その奇跡の力で弟子たちを信じさせたとか、そういうことではないんですね。
ご自分のことを聖書から説明してくださったんです。
言葉で伝えてくださるんですね。
無理やり信じさせるようなやり方はなさらないんですね。
ただ、イエス様の説明を聞いて、それで、この二人の目がさえぎられていたのが見えるようになったということではなかったんですね。
けれども、この二人には、確かにある出来事が起こりました。
次の場面ですが、29節を見ると、この二人はイエス様に、一緒に泊まってくださいとお願いしたんですね。
まだ相手がイエス様だとは分かっていないんですが、イエス様を愛する思いを与えられているんです。
そして、32節を見ますと、イエス様の説明を聞いた時、私たちの心は燃えていたと言っていますね。
暗く沈んでいた心に、火が付けられたんです。
聖書の言葉に耳を傾ける時には、そういうことが起こるんですね。
これはこの二人が、二人で「話し合い、論じ合っていた」時にはなかったことです。
二人で話していた時には、二人は暗い顔をしていたんです。
けれども、そんな絶望の中にあった二人にも、聖書の言葉は心に火をつけてくれるんですね。
この二人は、自分の言葉を語り合っていました。
自分の言葉というのは自分を超えるものではありません。
ですから、自分の言葉を語っても、それで私たちが絶望から立ち上がることができるわけではありません。
ただ、自分の言葉を語るのをやめて、黙って神の言葉を聞く時、私たちはイエス様を愛するようになる。
心が燃やされる。
大事なのは、自分の言葉を語るのをやめて、神の言葉を聞くことができるかどうかなんです。
その神の言葉を語るために、イエス様は私たちを毎日追いかけてくださっています。
語りかけてくださっています。
目がさえぎられている私たちにはそれがイエス様だとは分かりませんけれども、毎日、私たちを正しい道に戻すために、語りかけてくださっています。
その言葉に聞きましょう。
自分の言葉を語るのをやめて、神の言葉に聞きましょう。
その時、私たちはイエス様を愛するようになります。
心が燃やされます。
そこに、復活の力が与えられていくのです。
イースターはただ単に、イエス様が復活したという日ではありません。
復活したイエス様が、弟子たちを立ち直らせてくださる、復活させてくださる日なんです。
私たちの中にも、それぞれに、悲しみに支配されている現実があると思います。
これについてはもうあきらめているということがあると思います。
そこにおいて私たちも、実はそこではイエス様に背を向けていて、イエス様から離れていこうとしているのかもしれません。
しかしそれはイエス様から見たら無駄なおしゃべりをしながらイエス様から離れていく旅をしているようなものなんですね。
でもイエス様は弟子たちがそのようであるのを望まないわけです。
そこでも、イエス様は私たちを後ろから追いかけてきてくださって、共に歩いてくださいます。
語りかけてくださいます。
そして、私たちを復活させてくださいます。
私たちはそのことを信じて良いのであります。