わたしの羊
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- 説教
- 尾崎純 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 10章22節~30節
22そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。23イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。24すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」25イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 10章22節~30節
今日の話も羊の話。
けれども、今までの場面は仮庵祭というお祭りの時の話だった。
仮庵祭は9月から10月の祭り。
今日の場面は、神殿奉献記念祭というお祭り。
これは11月から12月のお祭り。
つまり、今までの場面と今日の場面は、話はつながっているけれども、2か月くらい後の話。
この神殿奉献記念祭というお祭りがどのようなお祭りだったのかと言うと、紀元前164年の出来事を記念するお祭り。
その頃、イスラエルはシリアという国に支配されていた。
現代でも、シリアという名前の国はあるが、エルサレムを支配していたシリアという国は今で言うトルコからインドの近くまで支配するような大きな国だった。
その国がエルサレムを支配して何をしたかというと、エルサレムの神殿の宝物を奪い取った。
エルサレムの神殿の中にギリシャ神話のゼウスの像を建てた。
しかも、そのゼウスの像に、犠牲の動物として、豚をささげた。
ユダヤ人は豚を汚れた動物として嫌う。
それを、神殿で、ゼウスの像にささげた。
そこで、祭司であったマカバイという人が反乱を起こし、外国の軍隊を打ち倒し、エルサレムをユダヤ人の手に取り戻して、神殿を清めてもう一度、神にささげた。
それを記念するのがこのお祭り。
ところで、ここで、その季節が冬であったと言われている。
このお祭りは11月から12月にお祝いする、冬の祭り。
だったら冬だということはわざわざ書かなくて良いはず。
それを書いているというのは、イエスの時代も、イスラエルの国にとって厳しい時代、冬の時代だったということを示しているのかもしれない。
イエスの時代のイスラエルも、ローマ帝国という大きな強い国に支配されていた。
人々は、かつてシリアの支配を打ち倒したマカバイのようなリーダーを求めていた。
そして、ちょうどこの祭りの時、イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
わざわざ場所までここに書かれているのは、この出来事があったのがエルサレムの、それも神殿の中であると知らせるため。
このお祭りはエルサレムにやってきて祝うのではなく、それぞれの町で祝うお祭りだった。
ただ、イエスは神殿にやってきていた。
そのイエスを、ユダヤ人たちが取り囲んで問い詰めた。
「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。
メシアというのは神からの救い主のことだが、この時代には、人々は、メシアとして、マカバイのようなリーダーを求めていた。
ただ、このような質問をしたユダヤ人たちは、おそらく、イエスがそうだとは思っていなかっただろう。
イエスが強いリーダーかもしれないと思っていたのなら、こんなふうに質問することはできないはず。
この質問に対して、イエスが何かまずいことを答えたら、やっつけてやろうという気持ちだったのだろう。
イエスは答えた。
「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」。
その通り。
今までに出てきた信じない人たちは、最初からイエスを認めないと決めている人たちだった。
イエスが神を父と呼んで、しかも、父の名によって、――この、「名によって」というのは、「名義で」ということになるが、――父なる神の名義で奇跡を行っている。
イエスが何者であるのかは明らか。
「しかし、あなたたちは信じない」。
どうしてか。
「わたしの羊ではないからである」。
イエスの羊ではないから、イエスを羊飼いだと認めない。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。
実際に、羊というのは、羊飼いの声を聞き分ける。
しかし、イエスの羊でないなら、羊はイエスには従わない。
そして、羊は自分たちだけで群れをつくって生きることはできない生き物。
羊には羊飼いが必要。
ただ、イエスは彼らの羊飼いではない。
彼らの羊飼いは別にいる。
彼らは別の羊飼いを羊飼いと認めて、それに従っている。
それは、今までに見てきたところで言うと、「雇い人」ということ。
雇われて羊飼いをしている人。
雇われているのであっても、仕事をきちんとしてくれればそれでいいと思うかもしれない。
しかし、狼が来るのを見ると、雇い人は羊を置き去りにして逃げると言われていた。
自分の命も危ないかもしれない、となったら、自分の命が大事。
命に関わるところでは、当てにならない。
つまり、一番大事なところで、当てにならない。
イエス以外の羊飼いというのが、会社であったとしても、国であったとしても、あるいは自分の能力であったとしても、お金であったとしても、そういうもの。
ただ、この世の中には、言ってみれば雇い人の羊飼いがいくらでもいる。
そして、多くの人が、雇い人の羊飼いの声に聞いて従っている。
しばらく前に「忖度」という言葉がブームになった。
「忖度」とは何か。
聞いてもいない声が聞こえる。
その声に従ってしまう。
でも、羊飼いの方では責任は取らない。
忖度したその人個人の責任にされてしまう。
羊は屠られてしまう。
にもかかわらず、現代では、若者でも忖度するようになっているそう。
深刻な問題。
ただ、そうなると、自分は果たしてイエスの羊なのだろうか、と思ってしまう。
「彼らはわたしに従う」と言われているが、私たちは、いつもいつもイエスに従うことができているわけではない。
人によっては、今日の御言葉を聞いて、もっとイエスに従うようにならなければ、と思う人もいるかもしれない。
しかし、そういった考え方は間違っている。
イエスに従うことができるようになったらイエスの羊になることができる、ということではない。
イエスは、頑張ってわたしの羊になりなさい、とは言っていない。
羊は元々羊飼いのもの。
イエスの羊は元々イエスの羊。
そして、「わたしは彼らを知っており」と言われている通り、羊飼いが羊を知っているから、羊が羊飼いの声を聞き分けることができるようになっていくというか、できるように導いてくださる、羊が羊飼いに従うことができるように導いてくださる、ということ。
このことが、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という質問に対する答えとして語られた。
そもそも、この質問をした人は、間違っているということ。
羊飼いは羊が選ぶものではない。
羊は羊飼いの声を聞き分ける。
もちろん、最初から羊飼いの言っていることの意味が分かるわけではないだろう。
でも、何かの形で、羊飼いが羊飼いであることは感じるはず。
そしてそこから、羊飼いの声を聞いて従うように導かれていく。
私自身の場合で言うと、27歳の時に教会に通い出した。
日曜日だった。
礼拝で説教を聞いた。
イザヤ書からの説教だった。
イザヤが、神の言葉を伝えても、人が聞いてくれない。
その苦しみが記されている個所だった。
でも、牧師は、それでも、そこにも神の御心がある、と説教した。
そのページのどこにも、神の言葉は書かれていなかった。
しかし、説教を聞いて、確かに、そう読める、と感じた。
それが私が神の声を聞いた最初だった。
だからといって、簡単に従うことができるようになったわけではない。
私は、自分自身を羊飼いにしていた。
自分の声に従っていた。
自分が神だった。
マイナスからのスタート。
そこから、神の言葉を伝えてくれる自分の牧師には従うようになり、山中雄一郎先生にも従うようになり、そのことを通して、イエスに従うことを学んで、今に至っている。
ただ、今でも、一日の半分以上は自分に従っている。
本当ならそれではどうにもならないはずだが、それでもどうにかなっているのは、イエスが私を知っておられるから。
私のことを知っておられるから、それでも何とか従うべきところで従って、迷子にならないように導いてくださっている。
その上で、28節、「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。
羊として養われるどころではない。
イエスは十字架にかけられた後に復活したが、その、死の力にも打ち勝つ永遠の命を与えてくださる。
イエスが命がけで成し遂げたことを、私たち自身のものとしてくださる。
死の力にも打ち勝つ力なので、誰も私たちをイエスから引き離すことはできない。
そして、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」ということ。
ここは、理解が難しい所。
「わたしの父がわたしにくださったもの」というのは、父なる神が救い主イエスに、救われるべき人を与える、という何度も出てくる表現で、今日の言葉で言うと、イエスの羊たち、ということになるが、それが、「すべてのものより偉大」であるということになっている。
私たちがすべてのものより偉大だろうか。
聖書協会共同訳では、ここのところを別の写本――写本というのは手で書き写したコピーで、何千もあるが、手で書き写すので、ところどころ違っている――から翻訳した。
聖書協会共同訳では、ここのところはこうなっている。
「わたしに彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない」。
これだと、神がすべてのものより偉大だということなので、分かりやすい。
ただここは、「わたしの父がわたしにくださったもの」というのは、イエスの羊たちのことだ、と理解しても良いのではないかと思う。
私たちは、自分がすべてのものより偉大だと言われると、どうしてそうなるのかと思うが、旧約聖書のイザヤ書43章には、有名な御言葉である、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」という言葉がある。
神の目には人は高価で尊い。
だからこそ、神の子が私たちのために命を投げだしてくださる。
だからこそ、永遠の命という、全てのものより価値あるものを与えても惜しくない。
それは、イエスにとってだけでなく、父なる神にとってもそうであるから、誰も奪うことができない。
イエスと神は、全てに勝って、人の救いを第一にしておられる。
ただ、今日の話は、イエスの羊ではないとされた人たちには、救いのない話にも聞こえる。
イエスの羊なのかどうかで決まってしまうのなら、イエスの羊ではない人にとってはもうどうしようもないのではないか。
ただ、イエスのことを信じないのは、その人が、イエス以外のものを羊飼いにしているから。
イエス以外のものを羊飼いにしているから、イエスを拒否できる。
しかし、そのような人でも、後からイエスを羊飼いとすることはある。
私がそうだったように。
皆さんの多くがそうだったように。
いや、ある意味、皆さん全員がそうだったのではないか。
まだイエスに本当の意味で出会っていないだけで、本当はイエスの羊、ということはある。
少し前の16節の御言葉だが、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」ということ。
囲いの外にいる羊でも、探し出して導いてくださるということ。
だからイエスは、今、イエスを信じようとしない人にも、イエスが永遠の命を与えてくださるということまで話したのではないか。
その人がどうしたって信じない人なら、そこまで言う必要はない。
イエスは、ご自分に反対する人をも招いておられる。
ただ、この世には、イエスを羊飼いとすることを拒否させるような力が働いている。
羊は賢い動物ではない。
だから、羊は危険な目にあうことがある。
しかしそれは、基本的に、自己責任。
賢くないからそういう目にあう。
そして、この世では、賢くないことをして失敗した人がいると、自己責任だ、ということで突き放す。
しかし、イエスという羊飼いは、たとえ羊が愚かであっても、命を捨てる覚悟で羊を救う。
それは人間の目に不思議に見える。
また、イエスという羊飼いは、ご自分から出かけて行って羊を探してくださる。
ユダヤ人が今でもイエスを理解できないのは、ユダヤ人が、神は罪人が惨めな姿で帰って来た時だけゆるすものだ、と考えているから。
それは、ユダヤ教的な考え方というより、この世の人も、多くの人が無意識にそう考えているのではないか。
しかし、私たちは、それとは違う神を知っている。
それは、人間の目には不思議に見える。
しかしそれは、神は人間が想像するよりはるかに素晴らしい方であるということ。
神は、人を探して連れ帰ったくださる方。
全てに勝って、人の救いを第一にしておられる方。
私たちのことを高価で尊いと言ってくださり、ご自分の命を投げだしてでも、神の前に取り戻してくださる方。
その神が、私たちのことを、「わたしの羊」だとおっしゃってくださっている。
その神に従っていこう。
今はまだこの囲いに入っていない羊たちにも、まことの羊飼いを伝えていこう。