2024年02月01日「見えるということ」

問い合わせ

日本キリスト改革派 東仙台教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

礼拝全体を録画した動画を公開しています。

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 9章35節~41節

原稿のアイコンメッセージ

イエスに目を見えるようにしていただいた人が、外に追い出された。
これは、単に、その時にいた場所から追い出されたということではなく、この前の22節に書かれている通り、会堂から追放されたということ。
そして、会堂というものは地域の公民館でもあった。
そこから追放されるということは、共同体から追放されるということ。
普通に生きていくのも難しいようなことになってしまった。
文字通り、一人になってしまった。

しかし、それを聞いたイエスはどうしたか。
彼に出会ってくださった。
この「出会う」という言葉は、「探し出す」という言葉。
一人になってしまったその人を探し出して、語りかけてくださる。

大変だね、と言ってねぎらったのではない。
頑張れと言って励ましたのでもない。
イエスはその人に、いきなりこう言った。
「あなたは人の子を信じるか」。
人の子、というのは旧約聖書のイザヤ書7章13節に、イザヤが見た映像として書かれている、世の終わりに天から雲に乗ってやってくる方のこと。
天から雲に乗ってやってくるということなので、人間ではない。
しかし、姿かたちは人間だということで、「人の子のような者」と書かれている。
この人の子、という言葉は元々は、人間という意味にもなるし、私という意味にもなるし、あなたという意味にもなるし、彼とか彼女という意味にもなる言葉。
ただ、この時代には、神の国の完成として、この世の終わりを待ち望む、天から雲に乗ってやってくる「人の子のような者」を待ち望むということがあった。
だから、「あなたは人の子を信じるか」と言ったら、それは、あなたは神のもとから来る救い主を信じるか、という意味になる。

それに対して、見えるようになった人は答えた。
「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。
もちろん、その方を信じたい。
ただ、この人は、「その方はどんな人ですか」と聞いた。
これは、「その方は誰ですか」という言葉。
恐らくこの人は、自分の目を見えるようにしてくださった方こそ、その方だ、と思っていたはず。
ただ、その方がどこにいる誰なのか、自分は知らない。
イエスがこの人の目に泥を塗ってくださった時、この人はまだ目が見えなかった。
その後で、池に行って目を洗うと、目が見えるようになった。
そして、戻ってきた時には、もうそこにイエスはいなかった。
だから、この人は、イエスの顔を知らない。
今この人は、今目の前にいる人が自分の目を開けてくださった方だと知らずに、イエスと話している。
イエスのことを「主よ」と呼んでいるが、これは日本語で大人の男性のことを「ご主人」と呼ぶことがあるのと同じこと。
成人男性に呼びかける時に、どこででも使われていた、ごく普通の言葉。
この人は自分を救ってくださった方を求めている。
でも、それが誰なのか分からない。
救い主は、そのような人を探し出してくださり、その人に出会ってくださる。
そして、その人に、ご自分があの「人の子」である、神のもとから来た救い主であるということを明らかにしてくださる。

ここでイエスがこの人に出会ってくださったことは決定的なことだったかもしれない。
もし、イエスがこの人を探し出してくれなかったら、この人には結局、明るい未来は開かれなかったのではないか。
この人は、目が見えなかったところから目が見えるようになった。
これからの人生について、大きく可能性が開かれた。
しかし、共同体から追放されて、一人になってしまった。
それは、目が見えるようになったとしても、これから生きていく道が見えなくなるようなこと。
もし、この人がここでイエスに出会わなかったら、この人はいつか、生きる気力を失ってしまったかもしれない。
イエスはここぞというところで、人に出会ってくださる。
そして、ご自分のことを明らかにしてくださる。

私たちにも、これからのことについての良い方向への可能性があり、同時に、これからどうなっていくのか分からないような、不安な部分もあるだろう。
その私たちにも、イエスは声をかけてくださっている。
「あなたは人の子を信じるか」。
良い方向に行くかもしれない、悪い方向に行くかもしれない、そういうことでうろうろしているのなら、前に進んだとしても、やっぱりそこでうろうろしていなくてはならない。
と言うか、人間はいつでもうろうろしているもの。
私たちには先のことは分からないし、私たちは完全ではないから。
だから、私たちが本当に求めるべきなのは救い主。
「あなたは人の子を信じるか」。
イエスは私たちにもご自分のことを明らかにしてくださっている。

イエスは言われた。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
この「見る」という言葉は、イエスが最初にこの人を見た時の、9章1節の「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」というときの、「見かけた」というのと同じ言葉。
最初に、イエスがこの人を見てくださったから、この人もイエスを見ることができるようになった。
イエスが私たちを見てくださるのが最初。
その最初の内は、私たちの目も、まだ開かれていないかもしれない。
しかし、イエスは、私たちの目を開けてくださり、私たちもイエスを救い主として見ることができるようにしてくださる。

ご自分のことを明かしたイエスは、この人に言った。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスが来たのは裁くためではなく、救うためである、という聖書の言葉もあるが、ここではイエスは、裁くために来た、と言う。
それは、イエスが人を裁いて、救われる人と滅びる人に分ける、ということではなく、イエスを前にした時に、人が、救われる人と滅びる人に自然に分けられる、ということ。
それが、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」ということ。

「見えない者は見えるようになる」。
これが、この時、目が見えなかった人に起こったこと。
続けて、「見える者は見えないようになる」と言われている。
それがファリサイ派の人々に起こったこと。
イエスは、この人たちのことを、「『見える』とあなたたちは言っている」とした。
ファリサイ派の人たちは、自分たちは正しくモノが見えている、モノが分かっていると思っていた。
しかし、目が見えるようになった人からいくら話を聞いても、イエスを認めなかった。
自分たちに理解できないことをしているイエスを認めてしまうと、自分の正しさが傷ついてしまうから。
彼らは、自分を正当化して、イエスを否定した。
こうして、自分は見えていると思っている者に、救い主が見えなくなった。
逆に言って、「見えない者は見えるようになる」。
見えないというのはファリサイ派の逆で、自分が正しいとは思っていないこと。
これを、自分の罪が分かっていること、と言っても良い。
聖書で言う罪というのは、言ってみれば、神中心ではなく自分中心であるということ。
ファリサイ派の人々のような状態。
この人たちは、自分を正当化して、相手を否定する。
しかも、それが罪だということが分かっていない。
自分では見えていると言っていても、救い主を前にすると、見えていないことが明らかになった。
けれども、「見えない者」、自分が正しいと思っていない者、自分中心ではなく、自分の罪が分かっている者には、救い主が出会ってくださり、その方が救い主だと分かるようにされる。
つまり、「見えるようになる」。
フランスの哲学者、科学者で、神学者でもあるパスカルという人がこういうことを言っている。
「人間には2種類しかない。
自分のことを罪人と思う義人と、自分のことを義人と思う罪人である」。

ここでイエスは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と言っている。
いや、人は皆、罪ある者。
自分中心というのが全くないということはない。
ただ、ファリサイ派の人々は、自分中心で、しかも自分が正しいと思っている。
そうして、どうあっても自分を正当化し、相手を否定する。
それでは、裁きは免れない。
いやすでに、救い主を自分から否定したということで、実際のところ、それが裁きになっている。

人は皆罪人だが、神が問題にするのは、単に自分中心で神の御心に背いているということではないのだろう。
自分中心で、自分でも気付かない内に、神の御心に背いているということは確かに罪ではあるが、人がそのような罪と、罪に対する裁きから救われるために、神は神の子を救い主として送ってくださった。
これは、人間が自力では救われないということを神が認めているということ。
人間の力では無理だと知っているから神の子を遣わしてくださった。
だから、その御心が分かっていれば、自力で救われなくても、救いをいただくことができる。
しかし、ファリサイ派のように、自分を正当化するとなると、話は別。
自分を正当化するというのは、自分の罪を認めないことだから。
考えてみると、一番最初に罪を犯して御心に背いたのはアダムとエバだが、アダムとエバは、食べてはいけないと神から言われていた木の実を食べて、そのことが神に知られて、神はすぐにアダムとエバを裁いたわけではない。
神がアダムとエバを裁いたのは、神から、「お前は何をしたのか」と言われて、その時、言ってみれば自分の罪を認めるチャンスが与えられたのに、そこで人のせいにして、自分を正当化したから。
罪を認めず、自分を正当化したところで、罰が与えられた。
逆に言って、「お前は何をしたのか」と言われた時、素直に謝っていればどうなっただろうか。

イエスを前にすると、自分を正当化するかどうかという点で、人が救いと裁きに分けられていく。
しかし、私たちはそれを恐れる必要はない。
イエスが私たちに目を留めてくださり、イエスが救い主であることを見えるようにしてくださり、その上で、「あなたは人の子を信じるか」と問いかけてくださっている。
それが今。
イエスはご自分が救い主であることを私たちに明らかにしてくださっている。
それが今。
そして、そのイエスの御前で、「主よ、信じます」と言って礼拝しているのが、私たちの今。
一番大事なものが見えるようにしていただいた者として、これからも、「主よ、信じます」、これを第一にして生きていきたい。

関連する説教を探す関連する説教を探す