クリスマスを待ち望む季節になりました。
今日はこのイザヤ書7章から、クリスマスにお生まれになられたイエス様とはどういう方なのかを考えてみたいと思います。
このイザヤ書はイエス様の時代よりも700年前に書かれた本なのですが、このイザヤ書の7章14節ですね。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」。
この御言葉を覚えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
この御言葉が、マタイによる福音書に出てきますね。
開いていただかなくてもかまいませんが、マタイによる福音書の1章23節にこの言葉が書かれています。
マタイは、700年前に書かれたこのイザヤ書の御言葉はイエス様のことだ、イエス様にふさわしい、イエス様にぴったりだ、と考えたんです。
だからマタイは、自分がイエス様の誕生について書く時、クリスマスのことを書く時に、このイザヤ書の御言葉を書いたんですね。
直接にはこのイザヤ書7章の男の子は、イザヤ書8章の3節になって生まれてくる、イザヤ自身の子どものことを指していると考えられます。
けれどもマタイは、イエス・キリストはまさにここに記されているこの男の子なんだと言うんですね。
聖書というのは、そもそも、そういう読み方をするんですね。
つまり、全然違う状況、全然違う人のことを書いている言葉であっても、聖書の言葉というのは神の言葉で、永遠に生きて働く力のある言葉なので、時代や状況が違っても、その御言葉がその時だけでなく、ずっと後になってもまた実現する力がある、その力が無くなることはないと考えられていました。
ですから、新約聖書には、旧約聖書の言葉がたくさん引用されているわけです。
ではこの場合、一体どういう意味でイエス・キリストがこの男の子なのか、見ていきたいと思います。
そしてそのことが私たちにとってどういう意味があるのか、考えてみたいと思います。
今日はイエス様について知りたいので、細かい事は言わないで、大事な所だけを拾いながら読んでいきたいと思います。
まず、このイザヤ書7章が描いている状況ですけれども、1節2節を見ると、エルサレムが外国から攻撃されそうになっていることがわかります。
そうすると、「王の心も民の心も森の木々が風にゆれ動くように動揺した」というのが2節の後半ですね。
大変な困難を前にして、激しく心を揺さぶられたわけです。
こういったことは私たちにも起こってきます。
もうダメかもしれない、と思って、激しく心を揺さぶられることは誰にでもあることでしょう。
そうなるともう私たちは、森の木々が風に揺れ動くようにされてしまう。
心も体もじっとしていられなくなってしまう。
考えもまとまらなくなってしまう。
けれども、そのような時、神様が私たちからは隠れたところで動いてくださるんですね。
それが3節からです。
神様はイザヤに対して、アハズという王様に会いに行きなさいと命じます。
神様は心を乱している王様に直接働きかけないんですね。
人を用いて働かれるんです。
神様は王様のところに、人を行かせます。
そしてその時に、シェアル・ヤシュブという名前の息子を連れて行くように命じています。
この「シェアル・ヤシュブ」という言葉は、「残りの者は帰ってくる」という言葉です。
「残りの者は帰ってくる」。
聖書で「残りの者」と言ったら、信仰に留まる人のことで、「帰ってくる」と言ったら、神様のもとに帰ってくることですので、そういう名前の子どもを連れて行け、ということは、神様としては、取り乱している王様に対して、神様の方に向き直りなさいと言っていることになります。
このようなことが言われるのには理由がありました。この王様は神様に信頼していなかったんですね。
イザヤがどこでこの王様に出会うのかというと、「上貯水池からの水路の外れ」です。
ここまでこの王様が出てくることを神様は知っておられたから、イザヤに対してその場所に行きなさいと命じたわけです。
この場所はエルサレムの町の外れです。
ここから水が湧き出していて、その水をエルサレムの中に引き込んでいたんですね。
町を敵に囲まれてしまった時に水がなくなると大変ですから、この王様はこの場所を確認しに来たんでした。
つまり、この王様にとってこの貯水池こそが命の源であったわけです。
私たちも心を乱してしまった時、同じような行動をするのではないでしょうか。
神様に頼るよりも先に、目に見えるものにしがみつこうとする。
けれども神様はその場所にも来てくださるんですね。
まるで先回りするようにして、その場所に来てくださる。
そしてその場所で、この王様は、神の言葉を聞くことになります。
ここに自分の命がかかっていると思っていたその場所で、神の言葉を聞くのです。
神の言葉こそ本当の命の源なんです。
イザヤはこの王様に対してこういうことを言いました。
4節ですが、「落ち着いて、静かにしていなさい」。
このメッセージを王様はどのように聞いたでしょうか。
今にも国が滅んでしまいそうなのに、落ち着いて、静かにしていることはできません。
静かにしていられなかったからこそ、命の源だと考えていたこの場所にやってきたんです。
神様は続けて語ります。
10節です。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」。
しるしを求めなさいと言われています。
しるしというのは神の業のこと、もっとはっきり言うと奇跡のことです。
目に見える、神の業を求めなさい。
神様はそう言うんですね。
取り乱して、目に見えるものに自分の命がかかっているとしか考えられなくなっている時に、神様はそう言うんです。
あなたは今、目に見えるものに頼ることしか考えていない。
だったら、目に見える私の業を求めなさい。
深く陰府の方に、あるいは高く天の方に、しるしを求めなさい。
目の前の現実よりもはるかに深いところからの、目の前の現実よりもはるかに高いところからのしるしを求めなさい。
現実とは別の次元の、人間の次元ではない神の次元からの業を求めなさい。
そうして、私に向き直りなさい。
動揺して、神様を見失ってしまっても、神様の方から手を差し伸べてくださるんですね。
ということは、神様は、私たちを助けるために、ずっと私たちのことを見ておられるということなんです。
ずっと見ておられて、手を差し伸べるタイミングを見計らっておられるのが神様なんです。
それなのに王様の答えはどうでしょうか。
12節です。
「わたしは求めない。
主を試すようなことはしない」。
ちょっと聞くと、信仰深そうな言葉です。
なるほど確かに、神様にしるしを求めるというのは信仰的なことではないですね。
奇跡を見せてくださいというのは、神様を本当のところは信じていないということです。
奇跡を見たら信じますよと言うのは、この王様が言っている通り、神様をテストすることです。
けれども、今神様は何をしてくださっていますか。
神様は手を差し伸べてくださっているんです。
この王様は取り乱して、神様よりも目に見えるものにしがみつこうとしているのに、神様の方から手を差し伸べてくださったんです。
それなのにこんなことを言って突っぱねるというのは信仰の言葉ではありません。
そもそも、この王様は一度も神様に頼ろうとしなかったではないですか。
この王様の言葉は、信仰の言葉ではありません。
単に強がってこう言っているんですね。
信仰の言葉に見せかけてはいますけれども、そうではありません。
信仰があるように見せかけて強がってもっともらしいことを言っているだけなんです。
ただの言い訳なんです。
これが人の弱さです。
本当は取り乱していても、それを認めたくない。
そんな姿を人に見せたくない。
ましてこの人は王様です。
強くなければなりません。
しかしこれは、私たちとは関係のない話ではありません。
私たちも、自分自身を自分の王にしてしまっていないでしょうか。
そして私たちも、自分自身のことについては強くなければならないと心のどこかで思っていないでしょうか。
そして、もっともらしいことを言って強がって見せたことはなかったでしょうか。
そんな私たちは、神様の目にどのように映っているでしょうか。
それが13節の後半です。
それは私たちが神様にもどかしい思いをさせることなんですね。
私たちがもうダメかもしれないと思って、どうしようもなく動揺して、でもそんな弱い自分を認めたくなくて、強がってもっともらしいことを言う時、その時神様はもどかしい思いをしておられるんですね。
私たちの言い訳が、神様にはもどかしいんですね。
でも、それではいけない。
9節にこう書かれていました。
「信じなければ、あなたがたは確かにされない」。
この言葉はよく分かります。
信じていない王様は、まったく確かではありません。
そして、確かでないから強がらなければならなかったんです。
でも私たちは神の業を求めます。
目の前の現実よりもはるかに深いところから、はるかに高いところから、神様が働いてくださるのを求めます。
手を差し伸べてくださる神様のその手を、つかむんです。
そこに確かさがある。
私たちはもう、強がったりしない。
そんなことをする必要がない。
現実を超えた方に希望を置くんですね。
その方が、私のことを見ておられるから。
私に手を差し伸べてくださっているから。
私たちにはどうしても心が揺れ動くことというのがあります。
とても大きな出来事を経験した時や今まで経験のないことを経験した時には心が揺れ動くということはあります。
もしかすると、他の人には小さなことに見えても自分にとっては動揺することというのもあります。
けれども、私たちはそういう時、動揺しながらであっても神様に求めていいんですね。
私たちは今日聞きました。
動揺している私たちに、「この私を求めなさい」と言ってくださるのが神様なんです。
「しるしを求めなさい」と言ってくださるのが神様なんです。
手を差し伸べるタイミングをいつも見計らってくださっているのが神様なんです。
私たちはその時、動揺しても、それを隠して強がって言い訳をしてしまうかもしれません。
ですけれども、たとえ私たちがそうだったとしても、それで神様が私たちを見捨てることはないんですね。
神様の方から私たちにしるしを与えてくださるんです。
14節です。
「それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ」。
今日の王様はしるしを求めませんでした。
言い訳をして、神様にもどかしい思いをさせました。
けれども、そんな人にもしるしが与えられました。
しるしを求めない者にも神様はしるしを与えてくださるんですね。
神様はご自分から離れてしまっている者をも愛してくださるんです。
インマヌエルというのは、神は我々と共におられるという意味です。
神様はもどかしい思いをしておられるのに、それでも、それだからこそ、私たちと共にいてくださる。
もどかしくて、もう目を離していられないから、だから私たちのそばにぴったりと付いていてくださるんです。
神様は私たちがどこにいても私たちと共にいてくださいます。
マタイによる福音書の最後の言葉を思い出します。
「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる」。
神様は私たちから遠く離れたところにおられるのではありません。
深いところにおられるのでも、高いところにおられるのでもありません。
私たちが今いる場所とは別の次元におられるのではありません。
今ここにいてくださっているんです。
私たちがここにいるから。
もどかしい思いをさせてしまう私たちですが、その私たちといつも一緒にいてくださるんです。
神様がこの私をいつも見ていてくださって、手を差し伸べてくださって、それだけでなく、一緒にいてくださっている。
そうなると、4節ですね。
「落ち着いて、静かにしていなさい」。
神様が共におられるから、私たちは、落ち着いて、静かにしていられる。
神様は、私たちが神様をまったく信頼して、落ち着いて、静かにしていることができるようにしてくださる。
私たちが揺り動かされないようにしてくださる。
それがインマヌエルの神様なんですね。
インマヌエルの神様が、私たちをそういうふうに確かにしてくださるんです。
落ち着くことができない状況、静かにしていることができない状況はいくらでも私たちの周りに起こってきます。
私たちはいつも自分自身と戦わなければなりませんし、試練や誘惑とも戦わなければなりません。
たとえ自分では静かにしていたくても、周りにいる人がそれを許してくれません。
そう考えると、落ち着く暇なんてありません。
けれども、私たちは落ち着いていていいんですね。
神様が共にいてくださるからです。
たとえ目の前にどんな困難な状況があるとしても、神様が私たちと一緒にいてくださる。
私たちを救ってくださる方が、私たちの隣にいつもいてくださる。
そうするとどうなるか。
4節の後半です。
私たちの前に立ちはだかっていたはずの大問題はもう、「燃え残ってくすぶる切り株」に過ぎないんですね。
私たちには神様が共にいてくださるから、私たちの目の前にどれだけ大きな炎が迫ってきたとしても、それは、燃えているのかいないのかわからないくらいのものでしかないんですね。
問題が起こったとき、私たちがその問題を見つめれば見つめるほど、問題は大きくなります。
けれどもそこでもし私たちが共にいてくださる神様に心を向けるなら、問題はもう問題ではなくなるんですね。
それが確かにされるということなんです。
そのためにインマヌエルの神様が私たちのところに来てくださいました。
それがクリスマスです。
今年も、私たちはそのクリスマスを祝います。
動揺することのあった一年でした。
強がることもあった一年でした。
けれども、そんな私たちにまた、クリスマスの季節が巡ってきました。
落ち着いて静かにしていましょう。
神様が共にいてくださいます。