2023年01月01日「あなたがたはキリストの体」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 12章12節~27節

原稿のアイコンメッセージ

教会とは何か。一つのキリストの体。教会の中でよく聞く言葉。教会はキリストの体。

ただ、パウロはここで、「キリストの場合も同様である」と言う。体の話をしておいて、キリストも同じだ。「教会も同じだ」とは言わず、「キリストも同じだ」。今日のところでパウロは、教会という言葉を一つもつかっていない。教会がキリストの体というのは、たとえ話ではない。現実に教会はキリストの体であり、私たちは文字通りその体の部分。

パウロがここで言っているのは、そういう教会をこれから頑張って建て上げようという話ではない。もうすでに現実。そういう教会にしようというスローガンではない。13節、「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」。これらは、当時の社会において、正反対の人たちの代表。ユダヤ人は神のしるしを求める。ギリシャ人は知恵を求める。求めるものが全然違う。奴隷と自由な人も正反対。でも、現実に、一つ。人間の目で見れば全然違う。でも、一つになっているじゃないか。どうしてか。洗礼を受けて、同じ一つの霊をいただいているから。同じ一つの霊によって、現実に一つに結ばれている。それが根拠。

もちろん、私たちには違いがある。違いがあるということを分かってほしいな、と思うこともあれば、違いがあると言ってほしくないな、と思うこともある。基本的に違いがあると言ってほしくないけれども、違いを認めてほしいという気持ちになることもある。ただ、大事なのは違いがありながらも、現実に一つになっているということ。体にいろいろな部分があるように、違いがあっても一つ。それが教会の現実。霊的な現実。肉の目には違いがあっても、霊的には現実に、一つ。

この世のグループも、一つになっているグループはある。しかし、この世のグループと教会は、どのようにして一つになっているのかが違う。この世では、気が合うから、趣味が一緒だから、考え方が一緒だから、ということ一つになる。だから、違う人たちは入っていけない。人間的に同じでないと一つになれない。またそこで、仲が悪くなってしまったら一つでなくなるし、考え方が違ってきてしまったら一つでなくなる。別れてしまう。時々は、仲が悪かったはずの人たちが、同じものを求めて、一つになることもある。政治の世界にはそういうことがある。何もそれを悪いというのではないが、教会はそうではない。私たちは気が合うから、趣味が一緒だから、考え方が一緒だから、で一つになっているのではない。同じ一つの聖霊をいただいて、一つのキリストの体にされた。もうそうなっている。

そしてこれは、パウロが自分の考えで言っていることではない。パウロはもともとどういう人だったか。ユダヤ教のエリート。何をしていたか。キリスト教を攻撃していた。いろんな町に行って、教会に入って行って、クリスチャンを捕まえて、刑務所に入れていた。そのパウロがどうしてクリスチャンになったのか。使徒言行録9章。パウロがダマスコという町に行こうとした時、パウロは強い光を浴びて、倒れてしまう。その時、パウロはキリストの声を聞いた。「なぜ、わたしを迫害するのか」。パウロが迫害しているのは教会。でもそれをキリストは、あなたがしていることは、私を迫害することだ、と言った。だから今日、パウロは言う。教会はキリストの体だ。いや、教会という言葉はつかっていない。私たちはキリストの体だ、私たちはキリストの一部だ。キリストがそう言っていること。

15節、16節で、足が「わたしは手ではないから、体の一部ではない」、耳が「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言われているが、そんなことは間違っている。この世のグループではそういうことはあるかもしれないし、この世のグループはそうしないとグループを守れないということもあるだろう。しかし、教会は違う。ただ、残念なことに、もっとひどいことも言われている。21節には、目が手に向かって「お前は要らない」、頭が足に向かって「お前たちは要らない」。これもこの世の話。でも、教会ではそんなことはありえない、あるはずがない、あってはならない。自分には目があるから手は要らない、という人がいるか。世の中では普通のことかもしれない。手よりも目の方が大事な感じがする。足よりも頭の方が大事な感じがする。これはつまり、能力の高い人が能力の低い人を切り捨てるという話。会社で言うとリストラ。でも、教会はキリストの体。キリストの体のどこか一部分を要らないと言える人がいるか。

22節では、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。どうしてかというと、あまりよく見えない部分は「覆う」、「見栄えよくしようとする」。どこかの部分を覆ったり、見栄えよくしようとしたりするのは、体の他の部分の働き。覆うというのも、見栄えを良くするというのも、目の働き、頭脳の働き、手の働き。いろんな部分が一つになって働いて、弱く見える部分を助ける。見栄えを良くするというのは例えば、髪型を整えたり、化粧をすることだろうか。覆うというのは……? とにかく、パウロは、一つの体というものはそのようなものだと言う。パウロは、体と言う時に、強い部分が弱い部分が助けるという見方をする。それは普段から私たちがしていることで、それが体ということの本質。強い部分のために弱い部分を切り捨てるなどということはない。誰もそんなことはしない。

それだけではなく、24節で、神は、キリストの体を作り上げていく時に、むしろ見劣りのする部分をこそいっそう引き立たせようとしておられるのだ、と言う。ここに、人間の思いと神の思いとの違いがある。人間は、強いもの、美しいものを愛する。しかし神は、むしろ見劣りのするものを引き立たせる。見劣りのするものをもっと愛してくださる。私たちには不思議。しかし、神からすれば当然。もし、神が強いものだけを愛するなら、私たちはどうなっていたか。私たちは神の目には強いものではない。私たちは誰も、神の言葉を完全に守ることができない。でも、神は私たちを愛して、教会に招いてくださった。もし神が強いものだけを愛するのなら、教会には人は一人もいないはず。キリストは、見劣りのする私たちのために、死んでくださった。神の言葉に従えない罪が私たちにはある。その罰を、私たちの代わりに受けてくださった。それがキリスト。教会は、そのキリストの体。だから、弱い部分があったとしても、他の部分が助ける。それで、体に分裂が起こらない。一つのままだ。教会は体なんだ。例えば、足が弱かったら、誰だって杖を突いて歩く。足の弱さを、手が助ける。「各部分が互いに配慮し合っています」ということ。27節には、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。これも体というものの現実。体の中の一部が痛んだだけで、体全体の具合が悪くなり、元気がなくなってしまうことがある。歯が痛むだけで、横になってしまうこともある。喜ぶ時も、体の一部分だけで喜ぶということはない。ホームランを打ったバッターがいるとして、そのバッターの手だけが喜んでいるだろうか。体全体で喜ぶ。体というのは現実に一つ。キリストの体も、現実に一つ。

キリストがそう言っている。あなたがたは私だ。「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」、この全員で一人の私だ。私たちは、人を見る時に、どこの出身なのかを気にする。あるいは、その人の立場がどんな立場なのかを気にする。キリストはそうではない。この世のことで人を見ない。あなたがたは私の体の部分部分だ。それは部分の違いを言いたいのではない。一つの体なんだ。そこに心を向けたい。

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