今日の場面も場所はエルサレム。
エルサレムとは書かれていないが、「シロアムの池」というのが出てきているので、それでエルサレムだと分かる。
シロアムの池はエルサレムの南の端にあった。
この池は町の外の泉から水を送り込んできて、その水を貯めている場所だった。
私たちは溜め池というと山の中の広い湖を想像するが、町の中にあるので、この池はそれほど広くはない。
私たちの教会の1階部分よりも一回り小さいくらい。
そして、7節を見ると、この池の名前について書かれている。
シロアムという言葉は「遣わされた者」という意味だと書かれているが、町の外から町の中に水を送りこんできているので、こういう名前が付いている。
つまり、「遣わされた者」というふうに訳してもいいが、水のことなので、日本語に訳すとしたら、「送られた」と訳す方がふさわしい言葉。
ただ、今日の話はシロアムの池から始まっているわけではない。
イエスが通りすがりに、生まれつきの見えない人を見かけられた場所、そこで弟子たちがイエスに質問し、イエスが答えて、目の見えない人に触れた場所、そこから今日の話が始まる。
イエスは通りすがりに、この生まれつき目の見えない人を見かけたのだが、この人はイエスと弟子たちが話している間も、ずっとそこにいた。
何をしていたのか。
道端に座って、物乞いをしていた。
この時代には体にハンデのある人はそうして生きるしかなかった。
この人を見かけたことのある人は、町の中にたくさんいただろう。
そして、今日は、イエスもその人を「見かけた」。
そう聞くと、歩いている中で、その人のことが何となく目に入っただけ、という感じがする。
しかし、この「見かけた」という言葉は、「見る」という言葉。
イエスはこの人をまっすぐに見た。
だから、そのイエスの様子を見て、この後、弟子たちがイエスに質問したということだろう。
弟子たちはイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
この時代の人々は、罪を犯すと病気や障がいがその人に現れると考えていた。
日本にも同じような考え方をする時代があった。
しかし、この人の場合は生まれつき目が見えない。
その場合、誰に罪があったのか。
親の罪が子どもに現れたのか。
それとも、子どもが生まれてくる前に、まだ母親のお腹の中にいた時に、罪を犯したのか。
そのことについて聖書の先生たちが議論することもあったそう。
現代に生きる私たちは、病気や障がいが罪の結果だと考えることはない。
聖書的に考えても、罪を犯すと病気や障がいがその人に現れるというのなら、病気や障がいのない人はいないはず。
弟子たちの質問は、質問自体が間違っている。
しかし、この問いは現代においても生きていると言わなければならない。
病気や障がいが自分に現れる時、それが予想しないものであればあるほど、人は、どうしてこうなったのか、何が悪かったのか、と考える。
どこかに理由を見つけようとする。
どこかに理由を見つけて、納得したいという思いになる。
そして、その納得できる理由を探すのは、過去において。
まだ来ていない未来に理由があると考えるのは難しいので、手っ取り早く過去に探すことになる。
そして、何とか過去に原因を見い出して、今の結果を結び付けて、納得しようとする。
しかし、そこに何かプラスになることがあるだろうか。
私が子どもの頃、父に連れられて野球の試合を見に行った。
残念なことに、応援していたチームが負けてしまった。
帰りの電車の中で、父は言った。
父は、負けた理由を探していた。
そして、その理由を探し出した。
父は言った。
「自分が応援に行ったから負けたような気がする」。
そういうことがあるのか。
そう考えたところで、何かいいことがあるのか。
人は、無理にでも原因を見つけ出して、結果に結びつけようとする。
無理にでも、納得したい。
しかし、仮に納得したとしても、現実は何も変わらない。
そのような弟子たちに、イエスは言った。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
この人の目が見えないのは、罪の結果ではない。
もちろんそう。
しかし、現実に、この人の目は見えない。
それはどうしてか。
理由はあるとイエスは言っている。
「神の業がこの人に現れるためである」。
これから、この人に、神の業が現れる。
弟子たちは、過去に理由を探していた。
過去に誰かの罪があって、その結果がいまではないかと考えていた。
私たちも、何か大きな、予想しないような不都合なことがあると、どうしてこうなったのか、と過去に理由を探すことがある。
しかし、イエスは、それは間違っていると言う。
イエスは私たちの目を未来に向けさせる。
これから、そこに、神の業が現れる。
イエスはここで、原因の分からない苦しみに対する、ふさわしい心構えを教えてくださっている。
過去を向いて、後ろを向いて、苦しみの原因を探しても苦しみは変わらない。
苦しみの現実の中に、これから、神の業が現れる。
つまり、原因の分からない苦しみは、神の業を求めるべき時。
続けて、イエスは言った。
「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」。
イエスは世にいる間、世の光であるけれども、これから、誰も働くことのできない夜が来る。
これは、イエスが十字架につけられることを予告している。
その前に、神の業を行わなくてはならない。
ここでイエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。
イエスが癒しのために何かを用いたり、場所を指定するのは非常に珍しいこと。
ただ、この時に泥を目に塗ったということが、後から問題にされてしまう。
この日は安息日だった。
安息日は仕事をしない日。
仕事をせずに心をひたすら神に向ける日。
その日に、治療という仕事をしたということになる。
イエスが言葉だけでこの人を治したのなら、誰も文句は言えない。
しかし、泥を目に塗ることは治療と見なされる。
イエスの敵である人たちが、このことでイエスを攻撃するようになる。
別に泥を塗らなくては治せないわけではない。
それをわざわざこうしたというのは、イエスとしては、問題を起こすことで、このことを広く知らせて、人々の意識を変えたいという思いがあったのだろう。
そう考えると、シロアムの池で洗いなさいと言われたのも理由があることだろう。
別に洗わなくとも、泥を目に塗ったらその場で目が治ったということでもいいはず。
それをわざわざ、遣わされた者と呼ばれるその場所を指定したのは、イエスが神から遣わされた者であることをご自分から仄めかしたということになる。
土をこねて作った泥を目に塗ったということにも、意味があるかもしれない。
考えてみると、わざわざ泥を作る必要などない。
唾をそのまま塗るという方法でも、イエスの敵たちは、仕事をしたということでそれを問題にするはず。
わざわざ、唾で土をこねて、目に塗った。
そもそも、人はどのように造られたか。
神が土で人を形作ったと創世記は言う。
その、人がそこから取られた土を泥にして、目に塗る。
イエスが神であることが、仄めかされている。
目が見えない人は、言われた通りにした。
これは大変なことだと思う。
この人がシロアムの池に行くのも簡単なことではないだろうが、それだけでなく、目に泥を塗られている間も、この人はじっとしていた。
どうしてそんなことができるのか。
この人はイエスと弟子たちの話を聞いていた。
そして、イエスの言葉を聞いて、イエスを信じた。
そもそもこれが神の業。
神の業とは何か。
6章29節で、イエスは言っていた。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。
イエスが神から遣わされた方であると信じることが、神の業。
イエスが神から遣わされたと信じることは、人間の次元、この世の次元では出来ないこと。
それはそうだろう。
イエスは、どう考えても、人間の姿で生きている。
イエスを信じるのは人間だが、イエスを信じることは神の次元のこと。
そして、神の業はそれだけではない。
イエスが言っている神の業という言葉は、複数形。
いくつもの神の業がある。
目が見えなかった人は、イエスを信じて、目を癒された。
神の業が現れてイエスを信じた人に、癒しという神の業がまた現れた。
そうすると、この人は変わった。
新しくされた。
この人のことを「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
要するに、別人かもしれないと思われるほど変えられた。
神の業が現れると、人は変えられる。
この世にあって、肉にあって生きていたところから、神の次元に新しく生かされるようになる。
神の恵みの中に、生かされるようになる。
神の業というのは、複数形であるとおり、様々。
今日の場合のように、癒しの奇跡ということもあるだろうし、パウロの場合のように、癒しは起こらないということもあるだろう。
パウロも、体にハンデがあった。
それも、目のことではないかとも考えられている。
どうしてかと言うと、パウロが自分を歓迎してくれた教会の人たちに後から手紙を書く中で、「そちらを訪ねた時、自分はひどい状態だったが、あなたがたは自分の目をえぐり出してでもわたしに与えてくれようとした」と書いているから。
パウロは自分の体に与えられたハンデを、「肉体のとげ」と言っている。
そして、それを、「サタンから送られた使い」とまで言っている。
当然パウロは神に祈った。
しかし、祈りは聞かれなかった。
神から与えられた答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というもの。
しかし、それによってパウロは、「わたしは弱い時にこそ強い」と言うようになっていく。
弱い時にこそ強いのだから、弱い時はない。
その力で、世界中に伝道して、教会を建てていった。
神の業がどのようにして現れるのかは私たちには分からない。
ただ、どのような神の業であったとしても、神の業は、私たちを、新しく力強く、神の恵みの中に生かす。
スペインに、ルイス・デ・モヤというクリスチャンがいる。
この人は37歳のとき、交通事故に遭い、首から下が動かなくなってしまう。
以来、車椅子での生活となったが、神に仕える彼の働きはますます熱心になった。
首を動かしてカーソルを移動させ、息の力でクリックできる、特殊なパソコンを使って、本を出版している。
また、大学の教壇に立って、若者たちに講義をする。
テレビに出演し、多くの人々に、生きていく勇気と励ましを与えている。
そんなルイスさんに、ある人が尋ねた。
「事故で体が不自由なのに、どうしてそんなに明るく生き生きとしていられるんですか」。
ルイスさんは答えた。
「怪我をして失ったものは、確かにあります。でもね、それは、億万長者が千円落としたようなものです」。
以前と比べ物にならないほど体が不自由になったことも、彼にとっては千円程度の損失にすぎなかった。
そう思わせる彼の資産とは、いったい何か。
イエス・キリストにある、永遠の命。
キリストを信じる者は、やがてキリストが再び来られる時には、病むことも、老いることも、死ぬこともない、完全な体に変えられ、神のもとに迎え入れられることの価値を、彼は知っている。
これこそまさに神の恵み。
そして、神の業を行うのは、イエスだけではない。
イエスは言っていた。
「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」。
神の業を行うのは、「わたしたち」。
それも、「まだ日のあるうちに」行わなければならない。
いつか、夜が来る。
夜というのは、イエスが十字架にかけられること。
しかし、イエスは復活して、今も生きて働いておられる。
私たちは今、夜の闇の中にいるのではなく、イエスの光の中にいる。
私たちはイエスを信じて、救いの光を伝えていく。
そこに、神の業が、苦しみの内にある人にも現れていく。
しかし、いずれ、私たちにも、働くことのできない夜が来る。
私たちは、肉の命のある限りでしか、この働きをすることができない。
夜になる前に、日のある内に、光の中で、神の業を行っていきたい。
私たち自身、苦しみを抱えて生きているということはある。
しかし、今日イエスは、そのような人に目を留めてくださった。
私たちは信じて良い。
イエスは、私たちの苦しみにも目を留めてくださっている。
神の業をそこにも現そうとしてくださっている。
私たちはそれを信じたい。
またイエスは、私たちが通り過ぎてしまう人々にも目を向けておられる。
今日、弟子たちは、その人の前で立ち止まるつもりはなかっただろう。
しかし、イエスは目を留め、足を止めた。
私たちにも、通り過ぎてしまう人々がいる。
しかし、イエスはその人々にも神の業を行おうとしておられる。
私たちも、そこで立ち止まりたい。
おそらく、人間の力で出来ることは限られている。
しかし、イエスは約束してくださっている。
そこに、神の業が現れる。
私たち自身、神の業が現れて、今、ここにいる。
その私たちが、これから、神の業を行っていくことができる、とイエスは約束してくださっている。
この御言葉を信じて、ますます、私たち自身に神の業が現れ、私たちが神の業を行っていくことができるように、求めたい。