2023年10月30日「わたしはある」

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聖句のアイコン聖書の言葉

48ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、49イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。50わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。51はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」52ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。53わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」54イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。55あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。56あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」57ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、58イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」59すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 8章49節~59節

原稿のアイコンメッセージ

ユダヤ人たちがイエスを激しく非難しはじめた。
この人たちはイエスを信じた人たちだったが、イエスに対して「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」とまで言い出した。
イエスもユダヤ人なのに、サマリア人だと言う。
どうしてこんなことを言うのかというと、ユダヤ人の方では自分のことをアブラハムの子孫で、神の子だと思っているのに、イエスに「あなたがたは悪魔の子だ」と言われてしまったから。
ユダヤ人は自分たちが神に選ばれた神の民で、正しい信仰を受け継いでいると思っている。
それを完全に否定されてしまったので、イエスに対して、あなたの方こそユダヤ人ではなくサマリア人だと言い返した。
サマリア人というのは元はユダヤ人だが、ユダヤ人と異邦人が結婚して生まれた民族。
ユダヤ人にとっては異邦人と結婚すること自体が大問題。
異邦人と結婚すると神の民ではなくなる。
しかも、サマリア人も聖書は持っているが、ユダヤ人の持っている聖書と同じではない。
サマリア人の聖書は旧約聖書の最初の五つの本だけ。
「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」だけ。
しかも、書かれている内容もところどころ違う。
だから、信仰も同じではない。
ユダヤ人からしたらサマリア人というのは偽物。
主流派であるユダヤ人に対して、反主流派。
イエスに対して、あなたの方こそ間違っていると言い切った。
それどころか、悪霊に取りつかれているとまで言った。

これに対して、イエスは、「わたしは悪霊に取りつかれてはいない」と答えた。
面白いことに、サマリア人だと言われたことについては何も言い返さない。
イエスはユダヤ人なのに。
イエスはサマリア人に伝道したこともあったが、イエスはサマリア人に対して偏見を持っていなかった。
イエスも、サマリア人というのはユダヤ人と異邦人が結婚して出来た民族だということ、聖書もずいぶん分量が少ないということを知っていただろう。
けれども、ユダヤ人で聖書をすべて持っていて、それをしっかり読んでいたとしても、神の御心を正しく理解できているかどうかというのは全く別の話。
実際、ここからのやり取りでも、ユダヤ人たちに理解が足りないことが明らかになっていく。

まず、イエスは、「わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない」。
神の子であるイエスが神を重んじているのだから、あなたたち人間は神の子である私を重んじるべきだと言った。
上の者を重んじなさいということ。
ただ、ユダヤ人たちはこんな言葉を聞いたら、それこそ、何様のつもりだと思うことだろう。
そこで次に、「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」と言った。
イエスは自分を高い所において、相手を見下そうとしているのではない。
イエス自身は自分の栄光を求めない。
イエスの栄光を求めるのは、裁きをなさる方、つまり、神である。
神がイエスの栄光を求める。
イエスの栄光とは何か。
この福音書で栄光、というと、イエスの十字架の栄光。
イエスが十字架にかけられて死刑にされることがどうして栄光なのか。
聖書は、十字架に罪からの救いがある、と言う。
イエスが、人間の代表として、人間の罪を背負って、死という裁きを人間の代わりに受ける。
だから、十字架を見上げる人には裁きが下ることはない。
それは、イエスだからこそできること。
イエスは人になられた神。
人間であり、神である方。
人間であるから、人間を代表して裁きを受けることができる。
しかし、現代に生きる私たちの罪まで背負うなどということは、人間にはできない。
神であるからできる。
十字架の救いは、イエスにしかできないこと。
だからこそ、そこにイエスの栄光がある。

しかし、ユダヤ人たちにはそれが理解できない。
それは、今のこの時点で言われても理解できないことかも知れない。
しかし、後になっても理解できない人には理解できなかっただろう。
ユダヤ人たちも、世の終わりに裁きがあることは聖書を読んで知っていた。
しかし、神の民である自分たちは裁かれないと思っていた。
自分たちは神が選んだ神の民だから、裁かれるはずがないと信じていた。

ただ、神が選んだ神の民だとしても、裁かれないということはない。
神がイエスを人として地上に遣わしたのは、人を救うため。
もし人間がそんなことをしなくても救われるなら、そんなことはしない。
神がイエスを遣わしたのは、人間がこのままでは滅ぶ運命だから。
続けてイエスは言っている
「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。
ということは、そうでないなら滅ぶということ。

そして、ここの、「死ぬことがない」という言葉は、「死を見ることがない」という言葉。
その「死を見ることがない」の「見る」という言葉は、「注意して観察する」という意味の言葉。
要するに、死に心が囚われてしまうことがない、ということ。
イエスの言葉を聞いて、その言葉を守るほどになっていれば、死を恐れることがなくなる、死の向こうに復活があり、神の元に取り戻されることを知っているから、ということ。

実際、私たちは死に囚われている。
ドイツの哲学者ハイデガーは、「人間の意識の最も奥深くにあるのは、死の意識である」と言った。
人間だけが、自分がいつか死ぬことを知っていて生きている。
人間の次に賢いとされるチンパンジーでも、自分がいつか死ぬことは知らない。
チンパンジーは2時間先のことまでしか考えることができない。
人間だけが自分の命の終わりまで見通すことができる。
そこで、何とかして死を遠ざけようとして、先々のことまで考えて自分の人生を設計したり、世の中の在り方を設計したりして生きている。
それは知恵深いことではあるけれども、死に囚われていると言うならその通り。
神の目に、人間は死に囚われて生きている。
しかし、肉体の死の向こう側に、復活と永遠の命があるとしたら、その人はもう、死に心が囚われてしまうことはない。
死が人生における一番大きな事柄ではなくなる。
そうなるために、イエスの言葉を良く聞いて、生きている内からイエスの言葉を守って生きるくらいになりなさいと言われている。

しかし、そうでない人たちには裁きがある。
それでは、肉体の命が尽きたら、滅ぼされてしまう。
これはひどいことのように聞こえるかもしれないが、当たり前のこと。
私たちも、たとえば電池を使っていて、電池が無くなると電池を捨てる。
電池は人間が作ったもの。
電池と人間は対等ではない。
だから、使えなくなったら捨てることに心が痛んだりはしない。
けれども、神は人間にそうしたくない。
人間は神が造ったもの。
だけれども、神は人を愛している。
だから、何とかして救いたい。
そのために、神の子を遣わしてくださった。
神の子を人にならせて地上に送って、その上、十字架につけてでも人を救おうとしてくださる。

けれども、ユダヤ人たちには話が分からない。
「死を見ることがない」と言われても、肉体の死についてしか考えられない。
ユダヤ人の話は全部この調子。
イエスの言葉を自分に引き付けて、表面的に理解しようする。
これは、人間が死に囚われているということと関係しているのかもしれない。
死に囚われているなら、自分中心になるしかない。
神の御心というような深いことにはなかなか考えが及ばない。
ユダヤ人は聖書を読む時もこの調子で読むのだから、読んでいてもどこまで読んだことになるだろうか。
それも、理解しようとしないばかりか、あなたは悪霊に取りつかれているとまで言う。
ユダヤ人がこうなので、イエスがサマリア人に偏見を持たなかったのは良く分かること。
そして、最後にはユダヤ人は、何様のつもりだ、とイエスに言った。

イエスはこれに対して、自分の栄光を求めていないということを繰り返す。
そして、栄光を与えてくださるのは神であり、あなたがたもその方を神としているけれども、その方を知らない、と言う。
それに対して、イエスはその方を知っており、その言葉を守っている。
ということは、ユダヤ人たちは神の言葉を守っていないということになる。
どんな言葉でも、自分に引き付けて、表面的に理解するのでは、その言葉を守ることにはならない。

そしてイエスは最後に、謎めいたことを言う。
「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」。
ユダヤ人たちがアブラハムよりもあなたは偉大なのかと言ってきたので、それを取り上げて、アブラハムの話をした。
しかしこれでは意味が良く分からない。
「わたしの日」とは何なのか。
アブラハムがそれを見たとはどういうことか。
ただ、ここの所から、アブラハムが救い主を待ち望んでいて、その希望に生きていたということを言いたいのだなということは分かる。
そもそも、アブラハムとはどういう人だったか。
神に呼びかけられ、行く先も知らされていなかったのに、神の言葉に従って旅立った。
神から与えられた祝福の約束を信じて、歩みつづけた。
それも、いつになったら約束が実現するのかとじれったい思いをしながら生きたわけではない。
今はまだ実現していない約束が、いつか必ず実現することを信じて、希望の中を生きていた、というのがイエスの話。
そもそも、アブラハムに与えられていた祝福の約束は、このようなものだった。
創世記12章2節、3節。
「わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る」。
これは基本的に、アブラハムの時代よりずっと後に実現すること。
アブラハムが生きていたその時代に、地上の全ての人が神の祝福を受ける道が開かれたわけではない。
それが実現するのはイエス・キリストにおいて。
つまり、ここでイエスが言っているのは、アブラハムは、イエスによって救いが実現する日をはるかに望み見ながら希望の内に生きた、ということ。

けれども、この言葉もユダヤ人には分からない。
「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
イエスはこの時まだ30代前半なので、50歳に間違われたということはないだろう。
50歳というのは、この時代に、神に仕える働きをする人が引退する年齢だった。
つまり、あなたはまだ現役世代じゃないか、まだ若い、ということ。
それはそれとして、こんなことを言うユダヤ人たちは、イエスの話が全く分かっていない。
イエスがアブラハムの話をすると、いや、あなたは会ったことがないでしょう、という反応しか出てこない。
アブラハムの楽しみ、喜びは何だったかという話なのに、それ以前のことしか言えない。

ここで、イエスがとうとう最後の言葉を口にした。
「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
イエスは、ご自分が神であることを宣言した。
この「わたしはある」という言葉は、神がモーセに名前を聞かれた時に神が答えた神の名前。
本来、神には名前はない。
聖書では名前というのは、上の者が下の者に付けるものだから。
モーセが神の言葉に従わなくて良くなるようにということで、食い下がるようにして名前を聞いてくるので、神が答えた名前。

ある意味で、その時のモーセもユダヤ人たちも同じ。
自分の考えだけで、神を理解しようとはしていない。
ここまでにユダヤ人がイエスに対して言ったことは、すべてそういうこと。
あなたはサマリア人だ、反主流派だ。
あなたはアブラハムより偉いのか。
あなたはまだ若い。
この世ではどれも良く聞かれる言葉。
あの人は主流派ではない。
あの人は他の人と比べてどうだ。
あの人はまだ経験が浅い。
これが人間の考え方。
人間同士を比較しての考え方。
人間の次元での考え方。

大事なのは、どうして、信仰の話をしているのに、信仰の話にはならずに、人間の次元の話になってしまうのか。
ユダヤ人たちが、イエスの言葉を聞いても、その深い意味を考えようとしないで、自分中心に考えて、表面的にしか受け取らないから。
そうなると、神の次元での話も人間の次元に引き下げられてしまう。
そして、そのような人は最後には、イエスを殺そうとすることになる。

人間には、自分中心に考えて、結局、自分の殻の中で生きるか、神に信頼するか、どちらかしかないと言える。
そして、自分の中で生きていると、神を認めることができなくなる。
ユダヤ人たちは石を投げようとした。
イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
イエスにはそれ以外に他にも対処する方法があったかもしれない。
しかし、イエスは人の怒りには付き合わない。
イエスは、人に、救いを与えたい。
救いの喜びを生きてもらいたい。
アブラハムが、先の見えない旅の中でも、希望の内に生きたように、私たちにも、救いの希望の中を生きてもらいたいと願っておられる。

私たちは、今日のイエスの言葉に従って生きていきたい。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。
「死ぬことがない」という言葉は、「死を見ることがない」という言葉。
死に心が囚われてしまうことがない、ということ。
永遠の命を見すえて、希望の内に生きるということ。
死の向こうに復活があり、神の元に取り戻されることを知っているということ。
そのために、イエスの言葉に沿って生きていきたい。

そして、この希望は、漠然とした概念ではない。
アメリカに、信仰熱心な家族がいたそうです。
その家族に、ジミー君という7歳の子どもがいました。
その子が、親から「永遠の命とはどんなものだと思うか」と聞かれた時、ジミーは答えた。
「天国の門に行くと、大きな天使が出てきて、天国に入る人の名前を呼ぶの。
『お父さんはいますか』って聞かれたら、『はい、ここにいます』って答えるの。
次に天使が、お母さんは、って呼んだら、お母さんも『ハイ』と返事するの。
それから、兄さんと姉さんの名前も呼ばれて、二人とも、『ハイ、ここです』と言うの。
最後に、『ジミー・ロジャーはいますか』って呼ばれるんだけど、ぼくが小さすぎて天使に見えないといけないから、ぼくはジャンプして、すごく大きな声で、天使に分かるように『ハーイ』って言うんだ」。
大事故が起こったのはその数日後だった。
スクールバスに乗り遅れそうになって急いで道を渡ろうとしたジミーは、車にひかれてしまった。
病院に運び込まれて、家族全員が駆けつけた時には、ジミーは重体だった。
意識も戻らず、医者にもどうすることもできなかった。
家族はベッドの脇で祈ったが、ジミーの命の火は今にも消えそうだった。
真夜中になって、ジミーの体がかすかに動いた。
家族全員が、ジミーに顔を寄せた。
その時、ジミーの口が動いた。
ジミーは、全員がそれと聞き取れるほどはっきりした声で、こう言った。
「ハーイ」。
それは、後に残された家族にとって、どれほど大きな希望になっただろうか。

イエスは、子どものように信じなさい、と言ったことがある。
大人になってしまうと、子どものようになることは難しいかもしれない。
ただ、神の元に帰るということについては、私たちの誰も経験したことのないこと。
経験したことのないことなのだから、子どもというのと同じこと。
私たちは皆、神の前に子ども。
神の子ども。
だから私たちは、いつか神に顔と顔を合わせて会うその日を望み見て、生きていきたい。

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