2023年10月21日「父とは誰か」

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聖句のアイコン聖書の言葉

39彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。40ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。41あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、42イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。43わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。44あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。45しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。46あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。47神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 8章39節~47節

原稿のアイコンメッセージ

ユダヤ人たちが言った。
「わたしたちの父はアブラハムです」。
この言葉は前にも出てきたが、ユダヤ人たちが自分たちのことを誇ってこう言っている。
アブラハムはユダヤ人の最初の先祖だが、このアブラハムという人は神に呼びかけられて、それに応えて生きた人。
祝福の約束が与えられていたけれども、それは子孫に対する祝福で、アブラハムは、自分が生きている間、自分がどうなるかは何も聞いていなかった。
それでも、神の約束を信頼して生きた人。
「信仰の父」と呼ばれるこの人をユダヤ人は誇りにしていた。
「自分たちの先祖はアブラハムだ。自分たちはアブラハムの子孫だ」。
しかし、これは誇ることなのだろうか。
アブラハムは確かに素晴らしい人。
しかし、それは、アブラハムが信仰を貫いたから素晴らしいということであって、アブラハムの子孫であったとしても、信仰が無いのならば意味がない。

イエスは言われた。
「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」。
アブラハムは神の約束を信じ通した。
ところが、ユダヤ人たちは神からの言葉を聞いても受け入れない。
それどころか、神から聞いた真理を語っているイエスを殺そうとしている。

ここで言う「真理」というのは、神が約束を守ってくださることを指す言葉。
約束というのは破られることもあるわけだが、神は約束を破らない。
だから、その約束は本当のこと、真理。
そしてこの、「真理」という言葉は、私たちが祈りの最後に言う「アーメン」という言葉と、もとは同じ言葉。
私たちが神に祈る時、神が実現してくださると信じて、「アーメン」と言う。
それと同じように、アブラハムは神が約束を必ず実現してくださることを信じて、神の真理に信頼して生きた。
けれども、そのアブラハムの子であると誇っていながら、ユダヤ人は神の真理を受け入れない。

神の約束が与えられたのはアブラハムに対してだけではない。
全ての人に与えられている。
神がいつか救い主を遣わしてくださり、この罪の世から私たちを救い出してくださる。
もちろん、ユダヤ人たちはその約束を知っている。
しかし、イエスの話を聞いても、神がその約束を守ってくださって、イエスを遣わしてくださったとは思わない。
それどころか、イエスが神を冒涜していると見て、イエスを殺そうとする。

31節を見ると、この人たちはイエスを信じた人たちだということだが、この人たちも最後にはイエスを殺そうとする。
この人たちとしてはイエスを信じたつもりだったが、イエスとしては、ご自分を殺そうと狙っている人たちと同じだと見抜いていた。
ユダヤ人たちはアブラハムを父として誇ってはいても、アブラハムとはまるで違う。
イエスは言っている。
「あなたたちは、自分の父と同じ業をしている」。
これは、あなたたちの父はアブラハムではなくて、他に父がいると言っている。

ここまで言われるとユダヤ人も黙ってはいられない。
「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」。
聖霊によって母マリアはイエスを身ごもったが、そのことを信じた人というのは、夢の中でお告げを聞いたヨセフ以外にいなかったはず。
そのため、すでにこの時代から、イエスはマリアが姦淫して生まれた子どもだと噂されることもあったらしい。
つまり、ユダヤ人としては、このように言うことで、イエスに嫌味を言っている。
私たちはあなたのように、父親が誰か分からないような人間ではない。
私たちはまことの神の民であり、神の子だ。

それに対しても、イエスはまた同じように答えた。
「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである」。
神を父としているのなら、イエスを愛するはずだ。
この場合の愛するという言葉はロマンチックな意味ではなくて、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとしているということなので、ここでの意味は、神を父としているのなら、イエスを受け入れるはずだ、ということ。
どうしてかと言うと、「なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである」。
神を父としているのなら、イエスが神の元から遣わされたと分かるはずだということ。

ただ、これは非常に厳しいことのように聞こえる。
私たちがこの時代にこの場所にいたとして、イエスが神の元から遣わされたと分かったかどうか。
イエスの話を聞いたら、この人は普通の人とは意識がまるで違うということは分かっただろう。
けれども、だからと言って、この方は神の元から来られた方だ、とまで判断できるかどうかと言われると、心許ない気もする。

ユダヤ人たちには分からなかった。
なぜ分からないのか。
イエスは言っている。
「それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ」。
耳で聞いてはいるが、受け入れてはいない。
そしてそれは、この人たちの個人的な能力や性格に問題があるわけではない。
イエスは続けて言っている。
「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」。
誰を父としているかが問題。
この人たちは、子どもは父に仕えるものというこの時代の感覚そのままに、悪魔に仕える者になってしまっている。
もちろん、本人にはそんなつもりはない。
自分の父は神だと思っている。
そう思っていても、実際には悪魔に仕えているということがあるのだということ。

では、悪魔とは何であるのか。
イエスは、「悪魔は最初から人殺し」だと言っている。
「人殺し」とはどういうことか。
旧約聖書の最初の創世記に、アダムとエバの話がある。
アダムとエバは神のみもと、エデンの園に置かれていたが、神に背いた。
罪を犯してしまった。
食べてはいけないと言われていた木の実を取って食べてしまった。
それによって人は神のみもとからこの世に落とされて、死に定められることになった。
そして、そうなったきっかけは、蛇が人に嘘をついて騙して、食べてはいけない木の実を食べるように仕向けたということ。
そして、この蛇は聖書の一番最後、ヨハネの黙示録に、「年老いたあの蛇」と書かれている。
年老いたあの蛇。
世の初めからいて、今はもう年取っている、あの蛇。
そしてこの、「年老いたあの蛇」というのは、ヨハネの黙示録では、悪魔のこと。
だから、「悪魔は最初から人殺し」だと言える。
人を神から離れさせて、人が死ぬのを良しとしている。
悪魔は人が救われないようにしようとする。

続けてイエスは、悪魔は「真理をよりどころとしていない」と言う。
もちろんそう。
悪魔のことがサタンと書かれることもあるが、サタンとは「逆らう者」という意味の言葉。
神の救いの約束をよりどころにしているのなら、サタンとは言わない。
そして、「彼の内には真理がないからだ」とイエスは言う。
当たり前のこと。
しかし、そんな当たり前のことをわざわざ言うのは、人が悪魔に騙されるから。
続けて、悪魔が偽りを言うこと、悪魔の本性は偽り者であると言われる。
アダムとエバは悪魔の嘘に騙されてしまった。
悪魔が人に嘘をついて、人を神から離れさせようとしていることを見抜くことは難しいということ。
そして今日のイエスの言葉では、悪魔のことが、偽り者の父だと言われている。
父ということは子がいる。
子とは誰か。
イエスが今話している人たち。
しかし、この人たちは、神を父としているつもり。
しかも、イエスを信じた人たちだと書かれている。
だけれども、悪魔の子だと言われてしまう。

だとすると、私たちはどうだろうか。
私たちに、神に逆らうようなところが無いとは言えない。
従っていたつもりで、実は自分の意思に従っていたと後から気付かされることだってある。
場合によっては、自分を神にしていたということもあるだろう。
それだけでなく、この世にあって生きていると、神ではない何か他のものが神に見えてしまう、絶対的なものに見えてしまうということがある。
神に従うよりも、神以外のものに従わせようという力がこの世に働いているということもある。
それはすべて当たり前と言えば当たり前のことで、私たちはそれに慣れきってしまっているところがあるかもしれないが、今日のイエスの言葉から考えると、それらはすべて、悪魔の働きということになる。
人を神から離れさせて、救われないようにする働きは、すべて悪魔の働き。

そうでない働きが、神の働き。
神の働きとは、人を救う働き。
大事なのは、そのどちらかしかない。
人を救う神の働きか、人が救われないように、神から引き離そうとする悪魔の働きか。
では、私たちは何に属しているだろうか。

ここで気づきたいのは、神と悪魔は対等な存在として語られていない。
悪魔は偽りを言う。
偽りとはどのようなものか。
偽りは、真理に逆らうこと。
つまり、まず真理があるからこそ、偽りが出てくる。
真理は真理だけで存在できる。
偽りは真理なしには存在できない。
ということは、私たちが生きる道は一つしかない。
私たちの前に、真理の道と偽りの道と、二通りの道があるのではない。
私たちの前には真理の道だけがあり、その道を外れると、もうそこは道ではない。
神の救いの約束に信頼して生きることを邪魔する力が私たちに色々に働くことはあるけれども、それはすべて偽り。
偽りを信じて受け入れてしまう場合もあるが、偽りは偽り。
真理ではない。
逆に、今日の人たちがイエスに言われてしまったように、真理を偽りだと思ってしまうこともある。
しかし、言ってみればそれも偽り。

私たちは知らず知らずに偽りに騙されてしまうことがある。
けれども、聖書に照らして考えると、私たちは、この教会で、キリストに結ばれていて、キリストにつながっていて、キリストの言葉を聞いている。
これは事実。
そして、キリストこそは、神に属する者。
私たちはそのキリストに属している。
「クリスチャン」という言葉があるが、それは、「キリストに属する者」という言葉。
そして、キリストに属しているということはどういうことだろうか。

テレビでこういうシーンを見たことがある。
小さい子どもがピアノを弾く。
ただ、その子はピアノを習ったことがない。
五本の指でピアノを弾くことはできない。
両手の人差し指で鍵盤を押さえて、まるででたらめに音を出していく。
曲にはなっていない。
その子どもの横にピアニストが座った。
そして、一緒にピアノを弾き始めた。
そうするとどうなったか。
ピアニストは子どもの指の動きを注意深く見ながら、そのでたらめな音に合わせて伴奏して、その子が出す音とピアニストの演奏が一つになって、完全な一つのメロディーを作り出した。

私たちがキリストに属しているというのも同じことではないか。
属しているということは、キリストが上で私たちは下ということになるが、私たちがどれだけでたらめだったとしても、キリストは私たちがピアノを弾こうとする限り、私たちに付き合ってくださり、私たちの音が美しいメロディーになるように伴奏してくださる。
キリストのなさってくださることとはそういうことではないかと思う。
そもそも、私たちが、放っておいても騙されて道を間違えたりせずにまっすぐ歩けるのなら、神の子がこの世に来る必要はなかった。
また別の言い方をすると、私たちを神から離れさせようという力が働いているこの世で、私たちがこのように、今もキリストにつながっていられるということは、やはり、キリストは私たちに合わせて伴奏してくださってきたということだろう。
いつまで経っても上達しないと思われているかもしれないが、それでも、キリストはいつまでも私たちに付き合ってくださる。
そのことに感謝したい。

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