神殿での話の続き。
イエスは「また」言われた。
以前に言ったことと同じようなことをまた言った。
以前、7章33節、34節で、これと同じようなことを言っていた。
今日のところでは、こう言っている。
「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。
ご自分が十字架にかかることを見通して、こう言っている。
しかし、当然と言えば当然だが、話を聞いていた人たちはそんなことを知らないので、何のことか分からない。
人々は、イエスがこれから「自殺でもするのか」と考えた。
自殺は罪になる。
モーセの十戒に「殺してはならない」という言葉がある。
神がその人に与えた命を勝手に奪うことだから、殺人は神に対する罪になる。
そう考えるなら、自殺は、神が自分に与えた命を勝手に終わらせることなので、やはり神に対する罪になる。
そして、神に対する罪ということ自体は私たちにとっても珍しいものではないが、ユダヤ教では、自殺すると、地獄の奥深くに投げ込まれると教えていた。
つまり、この人たちは、「イエスが自殺して地獄に落ちるので、イエスの行くところに自分たちは行けないということなのか」と考えた。
この人たちはこの人たちで、イエスの言葉を何とか理解しようとしているけれども、話が全くかみ合っていない。
どうしてここまで話が通じないのか。
それは仕方のないことかもしれない。
イエスが言っている。
「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」。
属している世界が違う。
人々は地上に属している。
イエスは天に属している。
だから、話が通じないのは当然。
天に属することをこの世の感覚に引き付けて理解しようとしてもできない。
話をしているイエスはどんな気持ちだっただろうか。
イエスは今日のところで、同じセリフを三度も繰り返している。
それも、非常に厳しい言葉。
「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。
イエスはこれを嘆いて言ったのではないか。
罪とは神に対する罪。
神を理解できないのだから、神に対する罪は誰にでもあること。
例えば、神に命を与えていただいたのに、私たちは自分が自分の命の主人であると勘違いしてしまうことがある。
勘違いしてしまうことがあると言うか、自分が自分の命の主人だと思っていることの方が多いくらいかもしれない。
そうなると、永遠の命をいただくことができずに、地上の命が尽きた後には、死が私たちを永遠に支配するようになる。
「自分の罪の内に死ぬ」とはそういうこと。
この世に属していたら、そうなる。
この世に属しているということは神には属していないということ。
それは人間にとって当たり前のことかも知れないが、それではまことの命、永遠の命をいただくことはできない。
永遠の死の支配が待っているだけになる。
イエスが来てくださったのは、そのような私たちを神に属する者とし、地上の命が尽きた後には、神の元に引き上げて、永遠に神と共にいるようにしてくださるため。
そのために私たちはどうすれば良いのか。
イエスは言っている。
「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。
神に属するためには、「わたしはある」ということを信じること。
「わたしはある」という言葉は、この時代の誰でも知っていた言葉。
神がモーセに示した神の名前。
そのことは、誰もが知っていた。
それを信じなさいと言っているのはどういうことか。
まず、イエスは、ご自分が神であると言っている。
それも、神がモーセを立てて、奴隷として支配されていた神の民を救い出したように、ご自分が救いの神だと言っていることになる。
つまり、私があなたがたを永遠の死の支配から救い出す、ということ。
けれども、この世に属している人にはそれが分からない。
彼らは言った。
「あなたは、いったい、どなたですか」。
イエスは言われた。
「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」。
確かに、初めから話している。
そして確かに、この人たちには言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。
ただ、イエスは今、神の言葉を世に向かって話している。
今ここにいる無理解な人たちに限定して話しているのではない。
世に向かって宣言している。
この場限りの話をしているのではない。
世の人すべてに伝えるつもりで話している。
この話を聞いた人が他の人に伝えることも考えていただろう。
本に書かれて、時を超えて伝えられることも考えていただろうという感じ。
実際、イエスは、時を超えて、いつかご自分が十字架に上げられることも知っている。
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」。
ここでは、わたしを十字架に上げるのはあなたたちだ、と言っている。
しかし、その十字架によって、永遠の死の支配からの救いが実現する。
イエスは、「わたしはある」と言った。
イエスは罪と死に支配されている私たちを救い出す神。
罪には罰が与えられなければならないが、私たちの罪に対する死という罰をイエスが代わりに受けてくださったのが十字架。
そして、十字架は偶然そうなったというようなアクシデントではない。
イエスもこう言っている。
「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」。
神の子が人として十字架にかかる以外に、罪と死に支配されている私たちを救い出す方法がない。
人の罪だから、人が罰を受けなければならない。
しかし、ただの人が、時代も場所も隔てた他の人の罪を肩代わりできるはずはない。
神の子が人になって十字架にかかる以外にない。
理論上、それ以外にない。
その上で、イエスは神に属しておられるから、復活し、その後に天に上げられた。
ただ、イエスは、いずれあなたがたにもイエスのことが分かる、と言ったが、今ここにいる人たちで、イエスが救いの神であることを信じた人がどれだけいただろうか。
今ここにいて、イエスを十字架につけた人たち全員が信じるようになったわけではないだろう。
イエスが天に昇ってから、弟子たちに約束されていた聖霊が降ってきて、その弟子たちの話を聞いて信じた人がたくさんいたと聖書に書かれているが、今ここにいる人たち全員が信じたとは思えない。
いや、正確に言うと、イエスは24節では、「わたしはある」ということを信じるようにと言ったが、28節では、「わたしはある」ということが「分かる」と言っている。
「分かる」と「信じる」は別のこと。
分かっていても、信じるとなるとブレーキがかかることもある。
ある意味、私自身、洗礼を受ける前はそうだった。
逆に、信じているけれども、信じているつもりだけれども、分かっていないので、後から離れていくということもある。
それが、今日の最後でイエスを信じた人たち。
この人たちは今日の場面のすぐ後で、イエスと議論して、イエスの話を理解できなくて、結局、イエスに付いていくことはなかった。
理解したとしても信じるまでには至らないことがあり、その時は信じたつもりでも、理解できないことが出てくると離れることもある。
何が問題なのか。
理解して、そして信じるというのは、自分を譲り渡すこと。
理解したけれども信じない人は、それでも自分を譲り渡さないと言っている。
信じたつもりでも、理解できないことが出てくると離れるというのも、実は自分を譲り渡してはいなかったということ。
イエスは、そのような私たちのために、十字架にかかってくださった。
ご自分自身を譲り渡してくださった。
私たちは、その救い主イエスに自分を譲り渡したい。
では私たちは何をどう考えれば良いのか。
海水浴場のレスキュー隊員にこういう話を聞いたことがある。
レスキュー隊員はおぼれている人がいると、そこへ行って救助する。
しかし、それは簡単なことではない場合がある。
自分がおぼれかかっていると気づいた人はパニックになって、何にでも捕まってしがみつくようになる。
そういう状態の時に救助隊員が行くと、救助隊員も水の中に引きずり込まれてしまうようなことがある。
そういう状態の時、経験豊かな救助員は、おぼれかかっている人の少し後ろに留まって立ち泳ぎをする。
何のためか。
おぼれかかっている人が自力で自分を救おうとするのをあきらめるまで待つ。
おぼれかかった人が自分で自分を救おうとするのをあきらめると、力が抜ける。
力が抜けた状態だとその後のことは簡単にできる。
自力で自分を救おうとするのをあきらめた人は、レスキュー隊員を信頼して、力を抜いて自分を委ねるようになる。
それによって救助される。
私たちがもし、自分をイエスに譲り渡していない部分があるとしたら、それは、私たちが自力で自分を救おうとしている部分。
大事なのは、自分で自分を救うことはできないと知ること。
簡単なこと。
罪の内にある私たちは、そのままでは、永遠の死に支配されるしかない。
永遠の命を私たちが自分で作り出すことなんてできるはずがない。
力を抜いて、イエスを信頼して、委ねたい。
そして、心したい。
今与えられている命も、私たちが自分で作り出したものではない。
その命に生かされている。
そのことに感謝したい。
ただ、肉体の命は永遠のものではない。
時間が限定された仮のもの。
いずれ、まことの命を与えていただける。
私たちがまことの命を生きることこそ、神の本当の願い。