2023年09月18日「わたしは世の光である」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」13それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」14イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。15あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。16しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。17あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。18わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」19彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」20イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 8章12節~20節

原稿のアイコンメッセージ

今日の場面も神殿。
このところイエスはずっと神殿にいて、神殿での出来事が続いている。
今日の最後のところでは、場所は宝物殿の近くだったと書かれている。
この宝物殿の近くには献金箱が設置されていた。
なので、人通りがある。
ましてこの時は、仮庵祭というお祭りがあった時のことなので、普段よりも人が多かっただろう。
だから、今日の最後のところに、それでもイエスが捕まらなかった理由が書き加えられている。
イエスが堂々と話をしているのに、まだ捕まらないのは、神が定めた「イエスの時」が来ていないからだ、ということ。
その時が来ない内は、イエスをつけ狙っている人たちが何を考えてどう行動したとしても、イエスは捕らえられることはない。
人間の手の届かない所に神の定めた時がある。
だから、堂々としていても捕まらないんだということ。

そして、この宝物殿は、神殿の中の、婦人の庭と呼ばれる場所にある。
神殿の中は、壁で区切られている。
一番外側の庭が、異邦人の庭。
異邦人はそこまでしか入れない。
異邦人の庭の内側に、壁で区切られて、婦人の庭がある。
婦人はそこまで入れる。
婦人の庭の内側に、壁で区切られて、男性の庭がある。
男性はそこまで入れる。
男性の庭の向こうには、壁で区切られずに祭司の庭があって、祭司の庭の中心に神殿の建物が建っている。
そして、いくつかある庭の内、婦人の庭に、宝物殿があった。

また、仮庵祭の時には、この婦人の庭に大きな燭台(ろうそくを灯す台)が置かれた。
大きなというのがどれくらいかと言うと、高さ22メートル。
その燭台の上に4つのランプが置かれた。
夕方になるとこのランプに火が灯される。
その光の中で、婦人の庭では、夜通し祭司が楽器を演奏して、人々は松明をもって歌い踊った。
そして、そのランプの光はエルサレムの細い路地まで照らした。
仮庵祭は光の祭りでもあった。
仮庵というのはテントのこと。
その昔、エジプトで奴隷にされていた先祖たちが、神に救い出されてエジプトからイスラエルまで導かれていく際に、テント暮らしをしていた。
それを記念するので仮庵祭と言う。
そして、エジプトから導かれていく際に、神が昼間は雲の柱となって人々を導き、夜は火の柱をもって人々を照らしたので、昼も夜も行進することができた。
それを思い起こすのが、婦人の庭の大きな燭台とランプ。

今日のイエスの最初の言葉は、そのことを意識した言葉として読むことができる。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。
イエスはこの世を照らす光。
ということは、この世は暗闇。
そのような世の中で、イエスは、大きな燭台とランプ、人々を照らして導いた火の柱になってくださる。
この世は暗闇だが、イエスに従う人は、命の光を与えられる。
暗闇と死の支配から人を救い出す光が与えられる。

ただそこで、ファリサイ派の人々は反論した。
「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」。
証しというのはそもそも他の人のことを証言すること。
そう考えるなら、確かにイエスの話は自分についての話なので、証しにはならない。
しかし、イエスの話が真実かどうかというのは、話が別。
イエスは答えた。
「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」。
イエスはご自分が神の元から来られたこと、これから十字架にかかり、神の元に戻ることを知っている。
自分が何をするために生まれてきたのか、それは何のためなのか、神が定めたそのことを自分ですべて知っている。
普通の人はそんなことは知らない。
だから、普通の人が、自分はどのような者で、何をすると言ったとしても、それは正しいことかどうか分からない。
嘘をついているとかそういうことではなくて、自分について話す時、自分がそうありたいという思いが入っていることもあれば、自分でそう思っているだけで、周りは全然違うことを考えているという場合もある。
そして、年を取ると、若い時とは全然違うことを言っていたりする。
普通の人間というのはそういうものなので、証しする人が必要になる。
しかし、イエスは神が定めたことをすべて自分で知っている。
そして、神が定めたことを知っていて、イエスのために証ししてくれる人がいるのかと言うと、そんな人はいない。
普通の人とは生きている次元が違う。

また、話を聞いている側としても、人間は表面的なことしか分からない。
イエスは言っている。
「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」。
人は、イエスの本質を見抜くことはできない。
神の次元のことは、目に見えるところに従って、否定するしかない。
神の次元のことは人間には判断できない。
イエスはそうではない。
神の次元での事柄もすべて知っておられるので、裁かない。
続けて、こう言う。
「しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである」。
神が共におられる。
しかし、それは人には分からない。
続けて、イエスは神と共にいるのだから、律法に定められている通り、二人いるのだから、私の証しは真実だ、と言う。
ファリサイ派の人たちは、イエスの証しは自分についての証しだから無効だと言った。
しかし、イエスの話によると、イエスのことは神が定めたことだという話。
そのことを証しするということなら、イエスと神とで二人、と数えることはできる。

しかし、当然、ファリサイ派の人たちはまともに受け止めなかった。
彼らは言った。
「あなたの父はどこにいるのか」。
この質問はどういう意味になるだろうか。
ファリサイ派の人たちは、イエスが神を父と呼んでいることをすでに知っていた。
だからイエスを捕まえようとしている。
ファリサイ派の人たちは、今日の話を聞いて、やはりイエスは神を父と呼んでいることを理解したのではないか。
それなのに、あなたの父は誰なのか、ではなく、あなたの父はどこにいるのか、と聞いた。
現在でも、ユダヤ教では、イエスのことが婚外子(両親が結婚していないのに生まれた子ども)だとされている。
この時代から、そういう噂はあったかもしれない。
少なくとも、マリアが結婚前に身ごもったことは事実。
そう考えると、この質問は、イエスに対する嫌がらせのようにも聞こえる。
イエスは聖霊によって身ごもられたが、そのことを信じた人はヨセフ以外に誰もいなかっただろう。
しかし、そこで明らかになるのは、まさにファリサイ派の人たちが、肉に従って裁いているということ。
イエスが話していることとは、まったく別の次元のことを言っている。

イエスは言った。
「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ」。
それはそうだと思う。
しかし、そうは言っても、私たちは、神の次元の事柄をそうそう簡単に知ることはできない。
それは、私たちも同じ。
私たちがこの時代に生きていたとしたらどうだろうか。
イエスは神の元から来られた世の光だ、とすぐに分かるだろうか。
イエスが何者であるかということは、簡単に見えてくるものではない。
私たちはイエスが世の光であると信じているかもしれない。
しかしそれは、言ってみれば、イエスがそう言ったから信じているだけで、私たちの方で何か検証して、実験でもするようにして確かめたわけではない。
そんなことは最初からできない。
肉の次元の事柄ではない。
神の次元のことだから。

ある人がこう言っている。
キリスト教というのは、キリストの自己意識に全面的に寄りかかっている。キリスト自身による、尋常でない証しに寄りかかることがキリスト教である。
寄りかかるか、寄りかからないか、どちらかしかない。
寄りかからないという人に対しては、思うことがある。
もし、キリストの証しが本当だったら、どうするのか。
私たちは寄りかかっているということかもしれない。
しかし、キリストは世の光であるということを、私たちはこの暗闇の世にあって、一点の曇りもなく信じることができているだろうか。
この世が暗闇だというのは、説明されなくても誰でも分かる。
しかし、キリストが世の光であるというのは、それと同じくらいの説得力をもって言えることだろうか。
私たちは、キリストが世の光であり、自分たち一人一人が命の光を持っているということを、本当の意味で知ることができるのだろうか。

このことについて、助けになる言葉がある。
今日の最初の12節。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。
「わたしに従う者は」と言われている。
イエスが世の光であり、私たちが命の光を持っていることは、イエスに従って生きる中で知らされていくこと。
イエスの言葉を聞いているだけではなく、イエスに従って生きる時、初めて分かってくること。

このことを描いている小説に、「聖なる炎」という作品がある。
この小説を書いたのは、1909年に女性として初めてノーベル文学賞を受賞した、セルマ・ラーゲルレーヴというスウェーデンの人。
ヨーロッパの中世、十字軍の時代のイタリアにラニエロという男がいた。
腕っぷしが強く、ケンカが大好きな荒くれ者。
彼にはフランチェスカという妻がいたが、無神経で乱暴な夫に愛想をつかして実家に帰ってしまった。
ラニエロは何とかしてフランチェスカに戻って来てほしい一心で、戦場で勇敢に戦い、手柄を立てて、戦利品を教会に寄付した。
けれども、フランチェスカは戻ってこない。
当然と言えば当然。
フランチェスカが望んでいるのはそんなことではない。
しかし、何も分からないラニエロは、もっと大きな手柄を立てようと、十字軍に加わって、エルサレムを攻め落とす戦いで一番乗りを果たし、キリストの墓の前の聖なる火を最初に自分のろうそくに灯すことを許された。
これが、今回の戦いでの戦利品。
これを持っていけば、フランチェスカも帰ってくるかもしれない。
しかし、そのためには、この火を消えないように、イタリアのフィレンツェまで運ばなければならない。
ろうそくの炎。
今にも消えてしまいそうな、弱々しい炎。
でも、ラニエロにとっては、そこに望みがかかっている、キリストの光。
ラニエロはろうそくを抱えて、風で火が消えないように後ろ向きに馬に乗って、マントでろうそくを隠して、ゆっくりゆっくり進んでいく。
そうなると、どうなるか。
強盗に襲われても抵抗できない。
普段ならやっつけてやるところだが、ろうそくの火が第一。
挙句、身ぐるみ剥がれてしまう。
立派な馬に乗っていたのに奪われて、強盗が残して行った痩せた馬に乗って旅を続ける。
そこらの人々は、惨めな姿で、痩せた馬に後ろ向きに乗って、ろうそくを守りながら道を行くラニエロをからかう。
普段なら怒りに任せて暴れるところだけれども、ろうそくの火が第一。
そのような旅を続けて、ラニエロはどうなったか。
フィレンツェに着くころには、人が変わったようになった。
忍耐を覚えた。
争いを避けることも覚えた。
穏やかになり、弱い者への優しさも身に付けた。
ラニエロは別人になった。
そのラニエロの元に、フランチェスカは戻ってきた。

イエスは世の光。
しかし、その光は、この暗闇の世で、今にも消えそうな、弱々しい光に見えるかもしれない。
しかし、私たちがその光を自分の内に収めて、その光が自分の中から消えてしまわないように、その光を大切に守りながら生きるなら、それが、私たちが暗闇に飲み込まれずに、キリストに従うということであり、その道で、私たちは、新しくされ、新たに生かされていくことになる。
かつてのラニエロは暗闇の中にいた。
しかし、小さなろうそくの炎が、ラニエロの人生を命の光で照らしていった。

私たちがキリストを外から眺めているだけでは、キリストのことは分からない。
キリストの光を自分の内に収めて、その光が消されてしまわないように、自分で消してしまわないように歩む時、自分が命の光を持っているということが初めて分かる。
キリストに従っていこう。
暗闇の世にあって、光に照らされ、まことの命にあふれる生き方をしていこう。

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