2023年09月11日「あなたを罪に定めない」

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あなたを罪に定めない

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

53 〔人々はおのおの家へ帰って行った。1 イエスはオリーブ山へ行かれた。2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

原稿のアイコンメッセージ

内容に入る前に、今日の個所ですが、全体がカッコの中に入れられています。
このカッコが付いている所というのは、おそらく、元々はこの個所はこの所に書かれていなかったらしいということです。
ヨハネによる福音書ですと、そもそも最初にそれが書かれたのは西暦100年頃のことのようですが、最初に書かれたオリジナルの本は残っていないわけです。
現代にまで残っているのは、何度も書き写されて、書き写されたものをさらに書き写してきた、手書きのコピーです。
この手書きのコピーのことを写本と言いますが、一口に手書きのコピーと言っても、古いものもあれば、比較的新しいものもあります。
そして、古い方が最初に書かれたオリジナルに近いと考えられます。
どうしてかと言いますと、人間が手で書き写すと、当然、間違えるということが起こってきます。
ですから、書き写される回数は少ない方が良いわけです。
それが古い写本ということになります。
また、間違えるということだけでなく、文章の意味を分かりやすくするために、書き写す人が勝手に分かりやすく書き変えてしまうということもあります。
時には、今日の個所のように、一つのお話を丸ごと書き加えてしまうこともあります。
そうなると、そこから後は、オリジナルと違うものが書き写されていくことになってしまいます。
そういうことなので、なるべくたくさんの人に書き写されていない写本の方が、オリジナルに近いと考えられるのです。
そういうことで、古い写本の方が信頼できるのです。
そして、今日の個所は、大体の古い写本には書かれていないお話です。
ただ、この話は、2世紀頃という古い時代の、聖書以外の記録に残されていて、5世紀からはこの所に入れられて、伝えられてきました。
そういうことですので、私たちとしては、このお話も、イエス様にさかのぼるお話として聞いていきたいと思います。

 さて、今日の出来事がどのような場所で起こったのかというと、神殿ですね。
 イエス様が座って、民衆がイエス様の前に立って、イエス様の話を聞いていました。
 この時代に、先生が人に教える場合には、先生は座って、人々は立って話を聞きました。
 そこへやってきたのが律法学者やファリサイ派の人々ですね。
 律法学者というのは聖書の先生です。
 ファリサイ派というのは、聖書に書かれている通りに生きていくことに熱心だった人たちです。
 信仰深い人たちがイエス様の前に現れたわけです。
 しかし、この人たちは、イエス様に教えてもらいたいわけではありません。
 この人たちはイエス様を嫌っていました。
 今、イエス様の周りには人がたくさん集まっているわけですが、もし、イエス様に人気がなければ、この人たちもイエス様を嫌うことはなかったかもしれません。
 律法学者やファリサイ派という人たちは、社会の中で確かな地位にあると認められていたような人たちですから、人気のない人をわざわざ相手にしたりはしません。
 しかし、イエス様の周りに人が集まっているわけです。
 それも、どのグループにも属さずに活動しているイエス様に、人気がある。
 そうなると律法学者やファリサイ派としては嫉妬しますし、自分たちこそ正統派だと思っているのに、それを否定された気持ちにもなったことでしょう。
 
その人たちが、イエス様の前に現れました。
その人たちだけではありません。
姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来られたんです。
ここに、「姦淫の現場で捕らえられた」と書かれていますが、これは文字通りのことです。
姦淫の罪は、現場を押さえなければ、訴えることができなかったのです。
現代では、例えば、有名人同士のそのようなニュースが写真付きで報道されるようなことがありますが、二人が一緒に歩いていたというだけでは、その罪は成立しませんでした。
二人が一緒に同じ部屋から出てきたとしても、その罪は成立しませんでした。
姦淫の罪で人を訴えるためには、文字通り、現場を押さえなければならなかったのです。

しかしそうなりますと、訴えるハードルがものすごく高くなってしまいます。
そもそも、文字通り現場を押さえるということが可能なんでしょうか。
しかも、現場を目撃して証人になる人は、2人以上いなければならなかったのです。
そういうことですので、この出来事については、律法学者やファリサイ派の仕組んだ罠であると考える人がたくさんいます。
例えば、ある夫婦の夫の方が妻を非常に嫌って、離婚したがっていたとします。
律法学者やファリサイ派が、その夫に近づき、その女と離婚できる計画を持ち掛けます。
別の男性を妻に近づけて、罪を犯させ、その場所に2人の証人が踏み込む。
男の方は共犯なので逃がして、女だけをその場で捕まえる。
例えば、そういうことがあったかもしれません。
そういう後ろ暗いことがあったからこそ、最後には律法学者やファリサイ派も、女を裁かずに、女を残して立ち去ったのではないかと考えられるのです。

これだけでなく、律法学者やファリサイ派の人たちのしていることは不自然です。
この場所は神殿です。
神殿に、死刑に当たる罪を犯した人を連れて来たことになります。
それだけでも不自然ですが、わざわざイエス様のところに来て、あなただったらこの女をどうしますかと質問している。
そんな質問をする必要はありません。
聖書に死刑だと書いてあるなら、自分たちで勝手に死刑にすればいいんです。
それなのに、わざわざ質問するんですね。

そして、この質問が良く考えられた質問なんですね。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
もし、イエス様が、この質問に対して、赦してやれと言ったら、律法、つまり聖書と違うことを教えたということで、ユダヤ人の最高法院、つまり国会に訴えることができます。
もし、イエス様が、石で打ち殺せと言ったら、この時、ユダヤを支配していたローマ帝国の総督に、総督の許可なく死刑にしようとしたとして、訴えることができます。
ローマ帝国の支配地域では、宗教上の事件以外の事件では、勝手に人を死刑にすることは許されていなかったからです。
つまり、この質問は、赦せと言っても死刑だと言っても、どちらにしてもイエス様を訴えることができる質問なんです。
皆さんだったら、ここでどうお答えになるでしょうか。

ここで、イエス様は、すぐにはお答えになりませんでした。
珍しいことですね。
そして、もっと珍しいのは、指で地面に何か書き始められた。
このようなイエス様の姿が描かれているのはここだけです。
一体何を書いておられたのでしょうか。
ここにつかわれている「書く」という言葉は、「書き記す」とした方が良い言葉ですので、文字を書いていたということに間違いはありません。
では、どのようなことを書いていたのでしょうか。

昔からいろいろな人がこのことを考えてきまして、ある人は、イエス様がこれから身を起こして語る言葉を書いていたのだ、と言っています。
どうして話す前に同じことを書いたのかというと、この時代には、判決を言い渡す前に、それを文字で書いて、それを読み上げる形で判決が言い渡されたからなんですね。
しかし、その判決の形式というのは、ローマ帝国の形式です。
今、神殿の境内にいるイエス様が、わざわざローマ帝国の形式をまねるでしょうか。
また別の人は、この場にいた人たちが隠している罪を、その人その人の名前と一緒に書いた、と考えています。
そうすると、この後のイエス様の言葉と話がつながるわけです。
しかし、イエス様が文字を書いている間、律法学者やファリサイ派はしつこく問いつづけたとあります。
もし、自分の名前と隠していた罪を書かれてしまったら、もうその場にはいられないはずです。
その他にも、聖書の言葉を書いていたのではないかという人もいます。
例えば、悪意のある人の証人になるな、という言葉があります。
あるいは、神の御心は罪人が滅ぶことではなく、悔い改めることだ、という御言葉もあります。
そのような御言葉を書いたのでしょうか。
もしそうだとしたら、彼らは同じことをしつこく問いつづけるのではなく、あてつけだと感じて、「おい、どういうつもりでそんなことを書いているんだ」とでも言ってきそうです。
しかし、イエス様が文字を書いているのに、彼らはそれを無視しているんです。

ある人が、ここでイエス様が書いたのは十戒の言葉ではないかと言っているのですが、私もそうではないかと思います。
この時代の人は誰でも知っていたのが十戒の言葉です。
人が幸いに生きるために神様が与えてくださった十の言葉ですね。
十戒の言葉は旧約聖書の126ページ、出エジプト記の20章に記されていますが、大体の言葉は「何々してはならない」という禁止命令で、後にそれは法律のように運用されるようになり、命令に違反するのは罪だということになりました。
そもそも、もともとの聖書には「十戒」という言葉はありませんでして、「十の言葉」と書かれているのですが、これを破ったら罪になるということで、十の戒め、十戒と呼ばれるようになったわけです。
その、十戒の言葉を地面に書いた。
誰でも知っている言葉です。
まして、十戒の最初の四つは、信仰を整えるための言葉です。
今の状況とは関係のない言葉です。
それを地面に書いても誰もそれには反応しません。
彼らはしつこく問いつづけます。
そこで、身を起こして言われました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
聖書で定められているのは、最初に石を投げるのは現場を目撃した証人であるということです。
そして、目撃証人は、同じ罪を犯したことのない人でなければなりませんでした。
つまり、イエス様の言葉になぞらえて言うと、「あなたたちの中で『同じ』罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」ということなのです。
この場所にいたはずの目撃証人も、当然、同じ罪で裁かれて、死刑になったことはありません。
ただ、イエス様はここで、「罪を犯したことのない者が」と言いました。
このような言葉は聖書にはありません。
これはイエス様の言葉です。
ですから、律法学者やファリサイ派は、それをはねつけることもできたはずです。
しかし、ここでもし、地面に十戒の言葉が書かれていたとしたら、どうでしょうか。
自分は罪を犯したことがないと言える人がいるでしょうか。
十戒の中には、「姦淫してはならない」という言葉もあります。
しかし、例えば、「隣人のものを一切欲してはならない」という言葉もあります。
同じ十戒の中に、そういう言葉もあるのです。
ということは、姦淫することも、人のものを欲しがることも、神の目には等しい罪なのです。
しかも、今のこの状況は、この事件とは無関係のイエス様を、罪もないのに無理やり責め立てている状況です。
罪人が無関係の人に詰め寄っているのです。
イエス様はまた、身をかがめて地面に文字を書きつづけました。
そして、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス様と女だけが残されました。

ただ、気を付けたいのは、このお話は、イエス様が罪を見過ごしたということではありません。
イエス様は言いました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
これはつまり、この女の罪が死刑に当たる重大な罪だと認めているということです。
また、もう一つ気を付けたいのは、イエス様は、罪を犯したことのない者でなければ、人を裁くべきでない、つまり、裁判などそもそもするべきではないと言ったのでもありません。
イエス様は人が人を裁くことを認めています。
石を投げることを認めています。
ただ、「まず最初に」石を投げるのは、罪を犯したことのない者にしなさいと言ったのです。
もしかすると、この言葉を聞いていた人たちの中には、誰かが石を投げたら二番目に投げてやろうと思っていた人もいたかもしれません。
イエス様の言葉では、二番目に投げるのなら、罪を犯したことがあっても構わないのです。
けれども、石を投げる人はいなかったのです。

知恵のある年長者たちが、最初に去って行きました。
若者たちも年長者に無言で教えられ、後に続いて去って行きました。
イエスは、身を起こして言われました。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
大変美しい言葉です。
しかし、この人を赦してもいいのでしょうか。
この人が罪を犯したのは事実です。
それをどうして赦すのでしょうか。

この女の人は、死刑に当たる罪で捕まえられました。
捕まった時点で、死刑になることは明らかでした。
そして、人々の前を連行され、神殿まで連れて来られました。
そこで、自分の罪が改めて、多くの人の前に明らかにされたのです。
この人は自分の罪を深く悔いていたことでしょう。
今すぐ死刑にしてもらいたいと思っていたとしても不思議ではないと思います。
イエス様と人々とのやり取りがあって、人々が去っていきます。
人々が去っていく中でも、この人はずっと、イエス様の前に立ち続けました。
逃げることもできたはずです。
どうして逃げなかったのでしょうか。
まだ、イエス様の判決は出ていません。
この人はイエス様の裁きを待っていたんです。
それは、悔い改めたからこそできることです。
二度とこの人が同じ罪を犯すことはないでしょう。
その悔い改めに対して、赦しが宣言されたのです。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
美しい言葉ですが、これはイエス様にとって命がけの言葉です。
罪は罪です。
罪には罰が科せられます。
その罰を、私たちに代わって受けてくださるのが十字架です。
「わたしもあなたを罪に定めない」。
そのために、十字架にかかってくださるのです。
この言葉の本当の意味は、あなたの代わりに私が死ぬ、ということです。
私があなたの代わりになる。
私の命が、あなたの命の代わりになっても構わない。
イエス様はそういうお気持ちです。
この言葉こそ、神様の人に対する憐れみのにじみ出た言葉です。
頼まれたわけでもないのに、その人の罪を背負う。
それでいいのだ。
悔い改めたその人が赦されるなら。
そして、ご自分のことは何もおっしゃらずに、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。

同じ御心が、私たちにも向けられています。
私たちも、この女の人と同じです。
死刑になることが明らかだった、この人と同じです。
私たちも、自分の力ではどうしたって死を免れることのできない者です。
しかし、イエス様はその力の無い私たちを憐れんでくださり、ご自分の命を投げうって、私たちを神のみもとで永遠に生きる者としてくださるのです。
その、主の御前に立ち続けましょう。
自分の罪を認め、悔い改めて、主の御言葉を待ちましょう。
今日、立ち去ることなく、留まりつづける者だけが、この御言葉を聞きました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

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