イエスとは誰か
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 7章40節~52節
40この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、41「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。42メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」43こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。44その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。
45さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。46下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。47すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。48議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。49だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」50彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。51「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」52彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 7章40節~52節
イエスとは誰か。
皆さんはどう答えになるだろうか。
人々はいろいろに答えた。
まず、「あの預言者だ」という人がいた。
旧約聖書には、わたしのような預言者がいずれ現れるので、その言葉に聞き従いなさい、というモーセの言葉が書かれている。
その、モーセのような預言者がイエスだと言う人がいたということ。
また、「メシアだ」と言う人もいた。
メシアというのは救い主。
旧約聖書には、神がこの世に救い主を遣わしてくださるという約束が記されている。
人々はその救い主を待ち望んでいた。
それがイエスだということ。
人々がどうしてそう反応したのかというと、イエスの言葉を聞いて、そう感じたということ。
イエスは何と言ったか。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。
この言葉を聞いて、イエスは本物かもしれないと思う人々が出てきた。
普通に聞いてもちょっと受け入れられないような言葉。
しかし、生で聞いている人には、これは本物だと思わせるような真に迫った言葉だった。
しかし、反対のことを言う人たちもいた。
「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」
イエスがガリラヤ地方の出身であることは良く知られていたらしい。
しかしそれは、旧約聖書にメシアの出身地として書かれている場所とは違う。
イエスがベツレヘムで生まれて、ガリラヤで育ったことがルカによる福音書に書かれているが、イエスがベツレヘムにいた期間は長くない。
イエスは今までの人生のほとんどをガリラヤで過ごしている。
ベツレヘムで生まれたことはイエス自身の記憶にも無かったかもしれない。
事実として、イエスは、ご自分から、私はベツレヘムで生まれたと言ったことはない。
そうすると、どうなるか。
対立が起こった。
イエスと人々の間で対立が起こるのではなく、群衆の間で対立が起こる。
信じる人々と信じない人々が対立する。
信じない人々がイエスに文句を言うのではなく、信じている人々に文句を言う。
信じている人々にとっては自分が信じているということが一番大事なことのはずなので、別に信じない人々を放っておいてもいいはずなのに、信じない人々に反論する、もしかすると、説得しようとする。
この時代の人たちは皆、救い主を待ち望んでいた。
だから、その人が救い主であるのかどうかは最も重大な問いだった。
今の日本ではそうではない。
しかし、この問いは私たちにとっても重大な問い。
その昔、日本では、天皇が神とされていた。
しかし、天皇を神として戦った戦争に負けて、戦後、天皇自身が、私は人間でしたと宣言した。
そのため、日本においては、神は力のないもの、信じるに足りない者ということになった。
こんなふうに考えているのは日本だけ。
私たちが信じていたとしても、私たちが周りの人から文句を言われて、その人と対立してしまうということには必ずしもならない。
信じるかどうかは個人の自由だとされている。
しかし、事実として、私たちは、神には力がない、信じるに足りないとされているこの国で生きている。
そして、一週間のほとんどを、教会以外の場所で過ごしている。
この世にどっぷり浸かって生きている。
そうなると、私たちが教会以外の場所にいる時、家にいる時、家事をしている時、この世の仕事をしている時、その他のことに取り組んでいる時、遊んでいる時、イエスとは誰なのか、そのことが現実的な問いになってくる。
イエスは日曜だけの存在ではない。
イエスの弟子たちは毎日、イエスと共に過ごした。
イエスが天に昇った後も、弟子たちに神の霊が降って、弟子たちは神の霊と共に生きていった。
それは、教会にいる時だけではない。
では、私たちにとって、イエスとは誰なのか。
神を信じない国に生きている者として、私たちもこの問いにしっかりと答えたい。
そのことに、私たちの生き方がかかってくる。
聖書に戻るが、「イエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった」。
権力者たちはイエスを捕まえて殺してしまおうと考えていた。
しかし、そうはならなかった。
権力者たちは下役たちを遣わして、イエスを捕まえようとしたが、下役たちは手ぶらで帰ってきた。
権力者たちが問い詰めると、下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。
これは驚くべきこと。
逮捕しに行った下役たちが考えを変えられてしまったということ。
もっと言うと、これは職務放棄に当たる。
罰を受けるべきこと。
それでも、包み隠さずに、「今まで、あの人のように話した人はいません」と言った。
では、あの人のように話した人はいない、とはどういうことか。
イエスは何と言ったか。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。
これはイエスが救い主であるという宣言でもある。
もちろん、今までにこんなことを言った人はいない。
こんなふうに言える人は今までいなかった。
そして、他の福音書には、イエスが話して人々が驚いた時、どうして人々が驚いたのかというと、イエスの言葉には権威があったからだと書かれている。
今日のところではファリサイ派の人々がいるが、聖書の専門家であるこの人たちに権威がなかったということではない。
この人たちは権威があると見なされていた。
ただ、この人たちはどのように話をするのか。
聖書を読んで、書かれていることを理解して、それを皆に説明する。
その理解の深さと説明の上手さから、権威が生まれてくる。
しかし、イエスの権威はそのような、この世の権威、人の権威ではない。
神の権威。
ご自分が救い主だと宣言できる、まことの神としての権威。
イエスの話を聞いた人たちは、それを感じたからこそ、驚いた。
一歩間違うと神を冒涜することにもなってしまうけれども、そうではない、この人は本物だ。
人々はそう感じたから驚いたし、イエスを捕まえることができなかった。
しかし、その驚きを妨げる力が、この世には働いている。
権威主義。
人の権威を振りかざす人々がいる。
ファリサイ派の人々は下役たちに言った。
「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」
「議員やファリサイ派」というのが、権威ある人たち。
それに対して、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」。
群衆を見下している。
私たちは、自分が権威主義者ではないと思うかもしれない。
しかし、私たちにも、この人たちと似たところはないだろうか。
この人たちは、平たく言うと、自分は分かっているが、あの人たちは分かっていない、と思っている。
そして、そのように思うことは、誰にでもある。
そして、そのような思いになると、どのようになっていくか。
ここでニコデモという人が登場してくる。
この人はこの福音書の3章で、人目を避けて夜、イエスに会いに来た人。
この人がここで意見する。
「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」
聖書に基づいた正しい手続きを取るべきだということ。
しかし、それに答えて、ファリサイ派の人々は何と言ったか。
「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
これは、正しい意見を握りつぶしている。
それも、聖書を良く学んだ人たちであるはずなのに、堂々とそれに反することを言っている。
人間の恐ろしい現実がここに現れている。
自分には権威がある、自分は正しい、自分は分かっているが、あの人たちは分かっていないと思うようになると、正しい手続きも踏まずに、人の意見を握りつぶし、聖書に反することも堂々と行うようになる。
自分は正しい、あの人たちは間違っている、となると、人は、自分を神にしてしまう。
だから、聖書を踏みにじっても平気。
悪いとも思っていない。
そして、そこで明らかになるのは、この人たちが実は最初から正しくなかったということ。
ガリラヤからは預言者は出ないと言っているが、旧約聖書にはガリラヤ出身の預言者が書いた預言書が収められている。
ホセアとヨナとエリシャはガリラヤ出身。
この人たちがそれを知らなかったわけではないだろうと思う。
ということは、この人たちは、自分の価値観で、地方のガリラヤを見下して、こんなことを言っている。
聖書よりも自分の価値観。
まさに、自分を神にしている。
この人たちは、自分には権威がある、自分は正しいと思っていた。
人からもそう思われていたから、高い地位に就くことができたのかもしれない。
しかし、実は、最初から間違っていた。
しかもそのことに、自分で気づいていない。
ただこれは私たちも気を付けなければならないこと。
大きな事故にあって1年間入院して、その間、教会に行くことができなかった人に話を聞いたことがある。
1年間、病院のベッドで聖書を読んでいた。
自分としては、それでも信仰を養われているつもりだった。
けれども、1年後、久しぶりに礼拝に出席して、説教を聞いた時、この1年で自分の信仰がねじ曲がってしまっていたことを感じた。
そういうことというのは誰にでも起こりうる。
聖書を読んでいればそれでいいということではない。
ファリサイ派の人たちも、聖書を読んでいた。
どのような読み方をしているかに、すべてがかかってくる。
今日のところで言うと、イエスを逮捕しなかった下役たちには、イエスの言葉に、人の言葉ではない、神の言葉を聞いた。
だから、捕まえることができなかった。
聖書を、神の言葉を、神の言葉として読んでいるか。
それが出来ていないなら、聖書を読まない方がましということだってある。
下役たちは言った。
「今まで、あの人のように話した人はいません」。
ある意味で、聖書はすべてそう。
他の本に書かれていないこと、聖書にしか書かれていないことが、聖書の中心。
この世の教えというのは、結局のところ、頑張って大きくなりなさい、もっと高い所に上りなさいということ。
この世の学校でも会社でも、この世の宗教でも、その点では同じ。
聖書は何と言っているか。
神が人になられた。
聖書はこの世とは方向性が逆。
人が頑張っても、自力で滅びを免れることはできないから、人を救うために、神が人になられた。
上向きの方向を否定して、下向きの方向。
そんなことを言っているのは聖書だけ。
そもそも、神がお一人であるというのは聖書だけ。
世の中いくらでも本があるのに、神は一人だと言っているのは聖書だけ。
そこに驚くこと。
人の言葉ではない、神の言葉を聞き取ること。
それがなければ、聖書を読んでも意味がない。
ある先生が、教室に入ってきて、授業が始まると、大きな壺を取り出して教壇に置いた。
その壺に、先生は一つ一つ岩を詰めた。
壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、先生は生徒に聞いた。
「この壺は満杯になったか?」
生徒たちは「はい」と答えた。
「本当に?」、そう言いながら先生は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そして砂利を壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」
生徒は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
先生は「そうだ」と言って、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
生徒は声を揃えて、「違う」と答えた。
先生は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。
先生は生徒に最後の質問を投げかけた。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の生徒が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」。
「それは違う」と先生は言った。
「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私たちに示してくれる真実は、大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」。
君たちの人生にとって「大きな岩」とは何だろう、と先生は話しはじめた。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり、将来の夢であったり……。
ここで言う「大きな岩」とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。
さもないと、君たちはそれを永遠に失う事になる。
もし君たちが小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要でないものから自分の壺を満たしていけば、君たちの人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体を失うだろう。
聖書を読む場合、この、大きな岩に当たるのが、聖書を神の言葉として聞くということ。
それがないのなら、それ自体を失ってしまう。
信仰自体がなかったことになってしまう。
ファリサイ派の人たちの壺には、岩は入っていなかった。
権威主義、自分は正しくて人は間違っている、自分の勝手な価値観、そういう、砂利や砂や水でいっぱいになっていた。
岩を入れる余地はなかった。
そうすると、どうなったか。
彼らは、自分を神にしてしまった。
私たちも、彼らと同じようにするなら、彼らと同じようになってしまう。
おそらく、人間にはどちらかしかない。
神を神とするか、自分を神とするか。
私たちも人間だから、最初に岩を入れたとしても、後から砂利や砂や水や、どうでもいいものが入ってきてしまうことはある。
それはイエスの弟子たちもそうだった。
弟子たちは最後まで、自分たち弟子たちの中で誰が一番偉いかと議論していた。
本当に小さなコミュニティーの中でも、権威主義で競い合っていた。
それが人間だと聖書は言っている。
しかし、たとえそうだとしても、大きな岩が先に入っていたかどうか。
弟子たちには入っていた。
弟子たちはどうして弟子になったか。
イエスが弟子たちに言った。
「わたしに従いなさい」。
弟子たちは、その言葉の通りに、イエスの弟子になった。
大きな岩が最初に入っていた。
神の言葉を神の言葉として聞いていた。
私たちもそれを心掛けたい。
そうする時、私たちがいつ、どこにいて、何をしていても、神の力が働くことを、聖書は証ししている。
これからも、神の言葉を神の言葉として聞いていきたい。
私たちのために降ってきてくださった主が、私たちと共にいてくださる。