2023年08月14日「狭い門から入りなさい」

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聖句のアイコン聖書の言葉

13狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 7章13節~14節

原稿のアイコンメッセージ

「狭い門から入りなさい」と言われていますが、こういうふうに言われますと、どんな気分になりますでしょうか。
できることなら楽をしたいと誰でも考えますから、これは厳しいことを言われてしまったという思いになりますね。
このイエス様の言葉を、今では誰でも口にしますね。「狭き門」という言葉です。
この言葉はもう、ひとつの日本語になっています。
私が使っているパソコンでは、「狭い門」と入力しても正しく漢字に変換されないんですが、「狭き門」と入力したら正しく変換されるんですね。
誰でも知っている言葉であるということです。

「狭き門」というのは、いわゆる難関のことですね。募集されている人数の何倍もの人が押し寄せてくるものだから、誰もがそこに入れるわけではない。
と言うより、入りたい人の何分の一の人しか入れない。
世の中の例で言いますと、アナウンサーになるのが一番の狭き門だと言われたりしますね。
千人が押し寄せても、一人しか入ることができないと言われています。
文字通り、狭き門です。

では、今日の話もそういう話なんでしょうか。
人を押しのけて、入りにくいところに入りなさいという話なんでしょうか。
違いますね。
今日の話は、広い門には人がたくさん入るけれども、狭い門は見出す人が少ないという話です。
入りにくいということではなくて、見つけにくいということです。
ですから、一般に言われている「狭き門」という言葉は、もともとの意味とは違った意味でつかわれてしまっているわけです。
イエス様がおっしゃっているのは、みんなが入る門からではなく、狭い門を見つけ出して、そこから入りなさいということです。

でも、私たちは、「狭い門から入りなさい」と言われると勘違いしてしまうんですね。
周りの人と競争して、勝ち抜いたら入れるというふうに考えてしまうわけです。
神さまは一度だってそんなことをおっしゃったことはないのに、そう考えてしまうんですね。
私たちの心が神さまに向かっていないからです。
それが罪だというのが聖書です。
罪という言葉はもともとは的外れという言葉ですが、心が神さまに向かっていないから、今日のこの、とても短い御言葉であっても的外れな考え方をしてしまうんですね。

日本語の国語辞典を見てみますと、「狭き門」という言葉は、「キリスト教で、救いに至る道のりが困難であることをたとえた言葉」であると書かれていました。
これはどうなんでしょうか。
狭い門というのは、困難かどうかではないですね。
見つけるのが簡単か難しいか、という話です。
でも、見つけるのが難しいのなら、結局、救われるのも難しいということにならないか、と思ってしまいます。
実際のところイエス様はどういうおつもりでおっしゃったんでしょうか。

今日の御言葉では、2種類の門と道について言われていますね。
広い門と狭い門、広い道と狭い道です。
これは普通に聞いたら、どちらかを選べということでしょうね。
もちろん選ぶべきなのは、狭い門と狭い道です。
広い門と広い道は滅びに通じている。
狭い門と狭い道は命に通じている。
どちらを選ぶのか、迷う必要はありません。

ここで、命に通じる門と言われていますが、旧約聖書では、神の言葉に従うなら命が与えられ、従わないなら滅びに至ると繰り返し言われていました。
けれども、そう考えると不思議ですね。
狭い門と狭い道は見出す者が少ないとイエス様はおっしゃっておられます。
ですが、この門を見出す者が少ないなんていうことはありません。
神の言葉に従うなら命が与えられるということは、旧約聖書にはっきり書かれていることで、今、イエス様の話を聞いていた人たちも、みんな知っていたことです。

それに、「門」という言葉も不思議です。
「門」というのは誰でも通れるわけではありません。
誰でも入っていいのは教会の門くらいで、普通は門と言ったら、その人が中に入っていいのかいけないのかをチェックするところです。
ですが、入っていいのかいけないのかをチェックされますよという話なんだったら、門と道が2種類あるという話をする必要はありません。
一つの門があって、門のところでチェックされますよと言えばいいわけです。
そもそも、旧約聖書で、命を得るという話をするときに、門という言葉はまず出てきません。
命を得る道も当然1種類しかないというのが旧約聖書です。

ではこの門は一体何なのかと言いますと、これはイエス様ご自身のことです。
新約聖書の186ページ、ヨハネによる福音書の10章9節で、イエス様はご自分のことをこういうふうにおっしゃいました。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」。
イエス様が門で、イエス様を通って命に至るわけです。

そして、今お読みしたイエス様の言葉の直前のところでは、イエス様はご自分を羊飼いにたとえておられます。
ヨハネによる福音書10章3節ですが、「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。
羊が羊飼いの声を聞き分けることができるかどうかでチェックされるんですね。
羊飼いは、自分の羊の名前をいちいち呼んで、自分の羊だけを連れて行くわけです。
イエス様は私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛してくださっているから、私たちをひとくくりにせずに、一人ひとりの名前を呼んでくださるんですね。

そういう意味で、今日の御言葉では、門は狭いんですね。
通りにくい門ということではありません。
私たちは、自分の名前が呼ばれてから通るわけです。
名前を呼ばれた人だけが通ることができるんです。
ですから、名前を呼ばれた人にとっては狭くはありません。
ただ、ほかの人が勝手に通ることはできないということです。

けれども、そうなりますと、狭いか広いか、私たちが門を見つけ出すとか見つけ出せないとかいう話でもなくなってしまいます。
イエス様が私たちを見つけ出してくださるんであって、イエス様に見つけ出してもらえれば、呼ばれて入ることができるわけです。
ではどうしてイエス様は今ここで、門を見つけ出しなさい、私を見つけ出しなさいとおっしゃっておられるんでしょうか。

知識として知っているということと、心から信じてしているということは違います。
イエス様こそ命に通じる門です。
ですが私たちは、それを知識としては理解できても、本当に心から信じることができているでしょうか。

イエス様のなさったたとえ話に、種まく人のたとえというたとえ話があります。
御言葉を伝えるということを、種をまくことにたとえた話ですね。
イエス様は御言葉を伝えてくださるわけですが、御言葉を聞くと喜んで受け入れるけれども、途中で試練に遭うと身を引いてしまう人がいる。
思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、結局は実が熟するまでに至らない人がいる。
知識として知っているということと、心から信じているということとは違うんですね。
イエス様を命に通じる門として見出すということは、知識として受け入れるというだけのことではありません。
心からそれを信じて、呼ばれたときに、実際にイエス様の方に向かうこと。
そうでないなら、わたしたちは広い門の方に向かってしまうということですね。
イエス様が私たちを見つけ出してくださって、私たちの名前を呼んでくださっても、私たちがそれに応えて歩き出さなかったら、命を得ることはできないんですね。

私たちは今、イエス様を、命に通じる門として、リアルに見出したいんですね。
イエス様を通らなくては、命を得ることはできません。
旧約聖書では、神の言葉に聞き従うなら命を得ると約束されていましたが、神の言葉に聞き従うことができないのが人間です。
滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多いと言われていますけれども、人間は罪人で的外れですから、間違えてしまうんですね。
滅びに通じる門なのに、広いから、通りやすそうだから、ここから通ればいいと考えてしまう。
一口に言うと旧約聖書は、神の民が滅びに通じる門に向かっていったという記録ですね。
判断を間違って、行くべきでない方向に行ってしまったわけです。
しかも、そのようなことを何度も繰り返したということが、旧約聖書に記されているわけです。
そして、彼らにはその自覚がないわけです。
自覚なく、歩きやすい道を歩いて行ってしまう。
正しいと思って間違った方向に行ってしまうのが人間なんだと聖書は言っているんです。

私たちはイエス様を通して旧約聖書を読んでいますから、イエス様だけが命に通じる門であるということを理解できます。
神の言葉に聞き従うなら命を得るというのは、イエス様以外に誰も通ることができなかった道であり、門です。
逆に言って、私たちにはできないからこそ、イエス様が来てくださって、道を通してくださって、門になってくださったわけです。
大事なのはそこに本当に自分の心を向けることです。
そのようなイエス様、私たちの唯一の道であり門であるイエス様をリアルに見出すこと。
そのとき、イエス様は、私たち一人ひとりをその名前で呼んでくださるんでしょうね。
イエス様は今、そのように、私たちを招いてくださっているんです。

「狭い門から入りなさい」という言葉は、「わたしのもとに来なさい」という招きです。
私たちは命へと招かれています。
今ここで、私たちはその呼びかけを聞いているんです。
イエス様は十字架で命をかけてまで、私たちを招いてくださったんです。
その招きに気づくことです。
私たちひとりひとりをその名前で呼んでくださるイエス様に、応えたいと思います。

聖書は、神様、イエス様を羊飼いに、私たち人間を羊にたとえることがしばしばありますが、羊というのはあのくらいのサイズの動物の中では、一番脳が小さいのだそうです。
それでも、羊は羊飼いの声を聞き間違えることはありません。
たまたまやってきた旅人が羊飼いの声をまねして呼びかけても、羊は間違いません。
たとえ、旅人が、羊飼いと、来ている服を交換して、その上で声まねをしても、羊は間違わないのだそうです。
羊は羊飼い無しでは生きていけませんから、羊たちだけで群れを作って生きていくことはできませんから、自分たちの命が羊飼いにかかっているので、小さい脳でも羊飼いの声を一生懸命に覚えて、その声に従っていくんでしょう。
これは私たちには逆に難しいことかもしれません。
人間は自分の賢さを誇ります。
ホモ・サピエンスという言葉は、「知恵のある人」という意味なのだそうです。
しかし、その私たちは、神の言葉をその通り行うことができないわけです。
自分の力で正しい道を選び、正しい門を通ることはできないんです。
そのことがいくつもいくつも記録されているのが旧約聖書です。
その私たちのために、イエス様は来てくださいました。
そして、私たちのために、道を通して、門になってくださった。
イエス様こそが、命に通じる道、命に通じる門です。
このイエス様をしっかりと見据えたいと思います。
イエス様の招きに応えて、新しい一歩を、しっかりと踏み出したいと思います。

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