2023年07月30日「わたしの時、あなたがたの時」

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わたしの時、あなたがたの時

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章1節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。2ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。3イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」5兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。6そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。7世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。8あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」9こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
10しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。11祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。12群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。13しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 7章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

イエスから多くの弟子たちが離れていった。
その後、イエスはガリラヤ地方を巡った。
ユダヤ人がイエスの命を狙っていたので、ユダヤ地方には行けない。
ユダヤ地方はイスラエルの国の中心地。
ユダヤ地方にエルサレムがあり、エルサレムに神殿がある。
ガリラヤ地方はイスラエルの国の一番北の地方。
ユダヤ地方は一番南の地方。
ガリラヤ地方を巡っていれば、すぐに命を取られることもないだろうという考えで、ユダヤ地方には行かなかった。
この時までに、イエスは、ご自分が神の子、救い主であることを宣言していた。
それはユダヤ人にとっては神を冒涜することで、死刑に当たること。
イエスは今までにエルサレムにいたことがあり、すでにエルサレムの権力者に目を付けられていた。
ユダヤ地方に行ってしまうと、いつ権力者に捕まって死刑にされてもおかしくない。

しかしここでイエスの兄弟たちがイエスに、エルサレムに行くことを勧めた。
「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
この言葉だけだったらイエスを応援しているようにも聞こえるが、そうではない。
「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」と5節にある。
イエスを神の子、救い主だと信じていなかったとしたら、イエスの活動をどう思うか。
兄弟たちとしては迷惑。
もし、皆さんの兄弟が、突然、自分は神の子、救い主だと言い始めたらどう思うか。
それだけで非常に迷惑。
それを外でも言い始めた。
これ以上に困ることはない。
外では、イエスを信じる人々がイエスの周りに群がっている。
しかし、弟たちには何も利益はない。
そして、イエスを信じる人々がいる一方で、イエスを信じない人もいる。
イエスを信じない人たちは、イエスの兄弟たちに文句を言うこともあっただろう。
イエスの兄弟たちを白い目で見るような人たちもたくさんいたはず。
兄弟たちとしては、イエスに出て行ってもらいたい。
イエスにはどこか遠くに行ってもらって、自分たちは静かに暮らしたい。

ただ、ここでイエスの兄弟たちが言った言葉には、引っかかる部分がある。
兄弟たちはイエスのことを「ひそかに行動している」と言っている。
イエスは別にひそかに行動していない。
ガリラヤとエルサレムを行ったり来たりして、公に行動している。
それを「ひそかに行動している」と言われてしまうのは、ガリラヤという地方がどういう位置づけだったかということを考えると分かる。
ガリラヤという言葉は、「周囲」という意味。
中心ではなくて、周囲。
東北地方のことを昔は「みちのく」、道の奥だと言ったわけだが、「みちのく」という言葉と「ガリラヤ」という言葉はよく似た言葉。
現代では新聞があってテレビがあってインターネットがあってアマゾンがあるので、どこに住んでいても大体同じような生活になるが、当時はそうはいかない。
まして、人々の指導者になるということなんだったら、ガリラヤにいても意味がない。
そういうことなので、イエスの兄弟たち、兄弟たちといっても、イエスは長男なのでイエスの弟たちになるわけだが、弟たちが長男に対して、ここまで強く言うことができた。

しかし、それに対してイエスは同意しなかった。
「わたしの時はまだ来ていない」。
弟たちは、仮庵祭というお祭りが近づいていたので、今がその時だということで、イエスにエルサレムに行くことを勧めた。
仮庵祭はエルサレムで祝うお祭り。
そして、エルサレムから32キロメートル以内に住んでいる大人の男性は、エルサレムに上ってこのお祭りに参加しなければならなかった。
ガリラヤはエルサレムからもっと遠く離れているが、熱心な人はガリラヤからでも外国からでもエルサレムに上ってこのお祭りに参加した。
とにかく、エルサレムに人が集まる。
人々に自分をアピールするチャンス。
ご自分が神の子、救い主であるとアピールして信者を集めるチャンス。
今こそその時だ、と弟たちはけしかけた。
それに対してイエスは、「わたしの時はまだ来ていない」。
ではいつが、「わたしの時」なのか。
このヨハネによる福音書では、時が来た、という言葉が表すのは、十字架と復活の時。
その時に、イエスが神の子、救い主であることが明らかになる。
しかし、「わたしの時はまだ来ていない」。
まだ死ぬわけにいかない。
神が備えておられるその時がある。

それに続けて、イエスは言う。
「しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」。
どうしてかと言うと、「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる」から。
弟たちはこの世の人として、この世にどっぷり浸かって生きている。
だから、世は弟たちを憎まない。
だから、したいことをいつでもできる。
しかし、世はイエスを憎んでいる。
どうしてかと言うと、その次、「わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ」。
イエスは世の罪を暴く。
罪を暴くこと自体が目的ではないが、イエスの働くところで、この世の罪が明らかになるということがある。
しかし、世の人々の方では、罪を指摘されても、自分に罪があるとは思わない。
世の人々はこの世にどっぷり浸かって生きているから、自分がおかしいとは思わない。
そして、イエスを憎む。
殺そうとする。

ユダヤ人がイエスを殺そうと狙うようになったことは、5章18節の時から言われていた。
その時は何があったか。
イエスが38年間も病気で苦しんでいた人をいやした。
その日は安息日だった。
安息日は仕事をしないで、神に心を向ける日。
治療をするというのは、仕事に当たる。
イエスは安息日の決まりを破った。
それだけでなく、イエスは、神を父と呼んで、ご自分を神に等しい者とされた。
その時イエスは、安息日に働いた理由として、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言った。
そこで、ユダヤ人たちはイエスを殺そうと狙うようになった。
しかし、そのユダヤ人たちは正しいのか。
この場面の一番の大きな出来事は、38年間も病気で苦しんでいた人がいやされたということ。
それについては全く目を向けずに、イエスが安息日に仕事をしたことを問題にしている。
しかも、病気の治療が仕事に当たるということは聖書に書かれていない。
それは後から人間が付け加えたルール。
病気の人がいやされたのに、それには目を向けず、聖書に書かれていないことの方を大事にする。
このようにして、イエスの働くところ、世の罪(罪という言葉は、もともとは、的外れという言葉)が明らかになり、しかし、この世の人々はこの世にどっぷり浸かっているので、自分がおかしいとは思わず、イエスを殺そうとする。
しかし、イエスはまだ死ぬわけにはいかない。
だからイエスは、あなたがたは行きなさい、わたしは行かないと答えた。

ただ、そう言っておきながら、イエスも後からひそかにエルサレムに上った。
今はまだ「わたしの時」ではない。
十字架と復活の時ではない。
ということは、イエスが神の子、救い主であることは、まだ隠されていなければならない。
弟たちはエルサレムで自分を示せとけしかけたが、それはできない。
時が来るまでは、本当の自分は隠して、行かないふりをして、こっそりエルサレムに上る。

私たちは聖書を読む時、聖書にはイエスのことが神の子、救い主だと書かれていると考えて、聖書を読む。
しかし、当時の現場では、そうではない。
イエスが神の子、救い主であるということは、まだ隠されている。
今までにイエスが奇跡を行ったことは何度もあった。
しかし、奇跡を見たからと言って、その人が神の子、救い主であると信じるようになるのか。
聖書はそう言っていない。
奇跡を見ても、おもしろいものを見た、というだけの人たちが大勢いた。
また、イエスの弟子としてずっとイエスの身近でイエスの言葉を聞いてきて、奇跡を見てきた十二人の弟子たちは、イエスが逮捕されるとどうなったか。
全員逃げ出した。
イエスが神の子、救い主だと信じていたのなら、逃げ出すことはない。
しかし、その弟子とも言えないような弟子たちが、十字架と復活の後には、世界中に出かけて行って伝道して、一人を除いてあとは全員殉教した。
殉教というのは命を落とすことなので必ずしも良いことではないが、弟子たちは180度変えられた。
逃げ出した弟子たちが、自分の命も惜しまない者に変えられた。
十字架と復活を見て、イエスが神の子、救い主だと知ったから。

私たちがイエスを神の子、救い主だと信じているのも同じこと。
イエスが奇跡を行ったから信じるのではない。
弟子たちが命をかけて証しした十字架と復活の証言を聞いたから。
ごく普通の人たちで、何も特別なことはなかった弟子たち。
自分の先生が逮捕されると逃げ出した弟子たち。
その人たちが、世界中に出かけて行って、命の限り、何を伝えたか。
十字架と復活。
使徒言行録に書かれている弟子たちの説教は十字架と復活のことばかり。
弟子たちは、十字架と復活を見て、本気でイエスを神の子、救い主だと信じた。
私たちは、十字架と復活のために命を投げだした弟子たちを見て、イエスを神の子、救い主だと信じた。

しかし、今日の場面ではまだ、それは隠されている。
イエスのことを「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
それはある意味で、私たちも同じ状況にあるのではないか。
本屋に行くと、子どもが読む偉人伝のシリーズの一冊に、例えば「野口英世」と並んで、「イエス・キリスト」がある。
イエスを神の子、救い主だと思っていたら、イエスを偉人の一人にはしない。
けれども、この世の大方の人は、イエスのことを偉人の一人だと考えている。
どうして、そのような扱いになってしまうのか。
イエスの教えの部分に目を向けていて、十字架と復活については真面目に考えていないからだろう。
確かに、キリストの教えはキリスト固有のもの。
神の目に人間とはどのような者で、だからこそ、このような心掛けで生きるべきだ、というようなことはキリストでなければ語れない。
しかし、その教えをずっと聞いていた弟子たちは、イエスが逮捕されるとどうなったのか。
教えではない。
奇跡でもない。
私たちは、十字架と復活を見つめなくてはならない。
奇跡を見ても、教えを聞いても、イエスが何者かは分からない。
十字架と復活を見つめる時、イエスが何者かが明かされる。
十字架と復活の時こと、イエスの時、「わたしの時」だから。

しかし、十字架と復活を見つめることは私たちにとっても難しいことかもしれない。
私たちにしても、この世にどっぷり浸かって生きている。
そして、私たちも罪人であることに変わりはない。
的外れ。
私たちの心は、十字架からそれている。

ヘンリ・ナウエンという牧師が、こういうことを書いている。
ある日、一人の若い脱走兵が、小さな村に逃げ込んだ。
その村人たちは彼に親切で、彼に寝泊まりする場所を提供した。
しかし、脱走兵を探して兵士たちがやって来た時、村人たちは恐れた。
兵士たちは、夜明けまでに脱走兵を引き渡さないなら、村に火を放って村人を一人残らず殺すと脅した。
そこで村人たちはどうすればよいかと司祭の所へ相談に行った。
少年を敵の手に引き渡すか村人たちが殺されるかの間に挟まれて、その司祭は自室に引き篭り、夜明けまでに答えを見出そうとして聖書を読んだ。
長い時間の後、夜明け前になって、次のような箇所が彼の目にとまった。
「多くの民が失われるよりも一人の人が死ぬ方が良い」。
司祭は聖書を閉じて兵士たちを呼び寄せ、少年がどこに隠れているかを告げた。
脱走兵が引き渡されて殺された後、村では、司祭が村人たちの命を救ったということで、宴会が催された。
しかし司祭はその席には現れなかった。
深い悲しみに襲われて、彼は自室に引き篭っていた。
その夜、天使が現れて彼に問うた。
「あなたは何をしたのか?」
彼は、「私は脱走兵を敵の手に引き渡しました」と答えた。
すると天使は言った。
「あなたは自分が救い主を引き渡したということが分からないのか?」
司祭は不安になって問い返した。
「どうして私にそれが解りましょうか?」
すると天使は言った。
「聖書を読むかわりに、ただ一度でもこの少年を訪ねていたら、あなたにそれが分かっただろうに」。

脱走兵を引き渡した後、司祭は悲しみに襲われて、自室に引き篭もった。
司祭が悲しんだのは、聖書の言葉でもってしても、自分を納得させることができなかったから。
司祭であるのに、神の言葉に納得できないのはどうしてか。
兵士たちと村人たちの板ばさみになって、この司祭は、出来るだけ大きな問題にならないようにという気持ちで、それにふさわしい言葉を聖書に探したことだろうと思う。
しかし、そのように、聖書を自分の都合のいいように扱ったことは、神の言葉を神の言葉として扱わなかった、ということ。
彼は、神の言葉に従ったのではなく、自分のために聖書を利用した。
司祭ではあったが、司祭である前に人間だった。
人間の心は、十字架の救い主を見つめるよりも、自分自身を見つめるようにできている。
聖書を読んでいても、それは変わらない。

そして、この話を聞いた時、私は、自分自身に問いかけた。
「私は、いつか、救い主を十字架につけなかっただろうか?」
皆さんはどうか。
救い主を十字架につけたことがないだろうか。

だとしても、致し方ないことなのだと思う。
人間はそのような者。
だからこそ、神の子が私たちのために十字架にかかってくださったし、十字架にかかってくださるしかなかった。
私たちのようなものを救うためには、他に方法はない。
十字架を見つめよう。
そして、十字架の向こうに復活がある。
たとえ私たちがキリストを十字架につけたとしても、キリストは復活して、ご自分が私たちのための救い主であることを明らかにしてくださる。
それが、十二人の弟子たちに起こったことであり、私たちに起こること。
それが聖書の約束。

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