人々はずっとパンを求めていた。
イエスが聖書に預言されている救い主かもしれない。
救い主は、モーセが言っているように、モーセのような人であるはずだ。
モーセというと、天からパンを降らせて、人々を養ってくれた人だ。
だとしたら、イエスも自分たちに毎日パンを与えて、これからずっと、私たちを養ってくれるかもしれない。
それが人々の頭の中にあったので、パンを求めた。
しかし、イエスがそれに答えて話をする中で、イエスはご自分のことを神の子であるとし、「パン」と「わたしの肉」と言い換えた。
わたしの肉を食べなさい。
人々は当然、イエスに反感を抱いた。
しかし、その人々に対して、イエスは反感を和らげようとはしない。
「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」、人々のその質問にもイエスは答えない。
一方的にイエスは言った。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」。
肉を食べるどころか、血を飲むということまで語られていく。
これは大変なこと。
旧約聖書には、血を口にしてはならないと書かれている。
血には命が宿っているという考えがあった。
命は神の与えるもの。
だから、血は口にしない。
地面に流して、神に返した。
それが、神を敬い、命を尊重するということだった。
にもかかわらず、わたしの肉を食べ、血を飲むようにと言う。
このイエスの肉と血は、十字架のイエスを指している。
イエスは十字架に釘づけにされた。
槍で刺された。
その肉。
そして、十字架で流された血。
イエスは人を救うために、肉を裂かれ、血を流した。
人の罪を背負って、私たち人間の身代わりとなって、神の子が死刑という罰を受けてくださった。
イエスには死刑に当たる罪はなかった。
人間には神の目に罪がある。
神に造られたのに神に心を向けず、神を無視して、自分が良いと思うことを勝手に行っている、その自分中心。
罪という言葉は的外れという言葉が元になっているが、神の目に人間は的外れ。
そして、それを私たちは自分でどうすることもできない。
旧約聖書の時代には、その罪を償うために、動物の犠牲がささげられてきた。
罪の償いのために、神殿で祭司が動物の血を人々に振りかけるという儀式もしていた。
罪の償いに血を用いた。
動物の命を犠牲にして、人間の罪を償う。
しかし、人間の罪に対して動物の命では、釣り合わない。
だから、完全な罪の償いとして、神の子が犠牲になってくださった。
血を流してくださった。
血には命がある。
命は神のもの。
しかし、神は、私たちのために神の子を遣わしてくださり、私たちを罪から神へと取り戻すために、神の子が血を流してくださった。
イエスの血を飲む、肉を食べるというのは、十字架という罪の償いにあずかること。
ここで大事なことは、イエスはたとえ話をしているのではないということ。
血を飲む、肉を食べるということを、本当にリアルなこととして話している。
十字架はイエスにとってリアルなこと。
その苦しみもリアルなこと。
これから実際に、イエスは十字架につけられ、肉を裂かれ、血を流す。
それは、人の罪の償いのため。
それによって人はまことに生きることになる。
まことの命を、私たちに、リアルに、与えてくださる。
朽ちる命のための朽ちる食べ物ではない。
まことの命のためのまことの食べ物。
それが十字架のキリストの肉と血。
キリストを信じて救いにあずかるというのは、単に頭の中で、キリストが神の子救い主だと信じることではない。
キリストの肉を食べ、血を飲むこと。
そこに、56節の、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」ということがリアルに実現していく。
キリストの肉を食べ、血を飲むと、私たちはキリストの中に入っていく。
その私たちの中に、キリストがいる。
私たちの内にも外にもキリストがいる。
私たちは私たち自身を生きながら、キリストも私たちを生きるようになる。
そのためにキリストが定めてくださったのが聖餐式。
聖餐式で私たちはパンと杯にあずかるが、これはキリストの肉と血。
そして、その聖餐式にあずかるのは洗礼を受けた人だけ。
どうして聖餐式がオープンでないのか。
日本語の洗礼という言葉には、どこか専門用語のような感じがするが、もともとのバプテスマという言葉は「どっぷり浸かる」という普通の言葉。
例えば、船が沈没する。
船が全部水に浸かる。
それがバプテスマ。
お酒を飲んで酔い潰れてしまうことも、バプテスマと言った。
では、洗礼式の場合、何にどっぷり浸けられるのか。
聖霊。
神の霊。
神が私たちの内に満ちる。
そこに、私たちがキリストの内にいて、キリストが私たちの内にいるということが実現していく。
それだけでなく、洗礼式というのは罪を洗い清めるという意味もある。
私たちの罪を私たちは自力で清めることはできない。
私たちは思いと言葉と行いで必ず罪を犯す。
しかし、キリストはその私たちの罪を背負って、十字架にかかり、肉を裂かれ、血を流してくださった。
その罪の償いにあずかる。
そのように、洗礼式と聖餐式は結びついている。
いずれにしても、信仰をもって臨む式。
続いて、57節では、「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」と言われている。
キリストが父なる神によって生きているのと同じように、私たちもキリストによって生きる。
父なる神と子なるキリストの関係。
それは神の次元での関係。
キリストと私たちの関係はそれと同じようなもの。
身に余る光栄。
現実に私たちがこの世で生きていく道のりは楽なものではない。
予想もしない苦しみ悲しみがある。
思い通りにならないことも多い。
自分の罪、人の罪に悩まされることもある。
そうでなくとも、そもそも、私たちには限界がある。
できることよりできないことの方が多い。
しかし、そのような現実の中にいながらも、私たちがキリストの内に生かされ、キリストが私たちの内に生きてくださり、私たちが神の次元に存在する道が開かれている。
どうしてそうまでしてくださるのか。
私たちの理解が及ばないような話。
ただ、神の側からすると、人間というのは、罪を犯して神のみもとにいられなくなった存在。
そこで人を見捨てることもできたかもしれないが、できなかった。
ある人が罪を犯して、刑務所に入った。
その親御さんが、飛行機に乗って、遠くの刑務所まで面会に行く。
面会は一日一回。
だから、行った日の午後に面会して、一泊して、次の午前にも面会して、帰ってくる。
見捨てるなどということは考えもしない。
喜んで行って、喜んで帰ってくる。
刑務所で聖書を伝えている牧師に、罪を犯した人が悔い改めるということは簡単なことではないと聞いたことがある。
そうかもしれない。
私自身、毎日罪を犯しながら、どこかで、こういうものだろうと思っている。
刑務所の中にいる人も私も、そんなに変わらない。
ではなぜ、その牧師は刑務所で聖書を伝える仕事をし続けているのか。
「罪人ってかわいいのよ」。
意味が良く分からない。
でも、その牧師が刑務所にいる人たちを愛していることは分かった。
どうして神が罪人のためにここまでしてくださるのか。
一つだけ分かることがある。
神は私たちを愛していて、だから、私たちを見捨てるかどうかなどということを、考えたこともないはず。
洗礼式や聖餐式は、その神の御心の現れ。
ドイツの宗教改革者マルティン・ルターは、苦しいことがあった時にはいつも、「わたしは洗礼を受けた。わたしは洗礼を受けた」と繰り返して、気持ちを落ち着かせた。
それは良い方法であり、正しいこと。
私たちもそうしたい。
「わたしは洗礼を受けた。わたしは洗礼を受けた」。
そう、それがすべて。