イエスを追いかけてきた人々はイエスにパンを求めた。
その昔、モーセがそうしてくれたじゃないか、と。
あなたがモーセが預言していた、モーセのような預言者なら、同じようにしてくれということ。
しかし、モーセがパンを与えたのではない。
神が与えてくださった。
人々はその認識が間違っていた。
そして、本当の救いというものは、神が与えてくださる、天からのまことのパンにある。
そのパンは、天から降ってきて、世に命を与えるようなもの。
モーセの時代に与えられたパンも命を養ったとは言える。
しかし、それによって養われたのは、朽ちる命。
朽ちる命ではなく、まことの命、永遠の命そのものを与えるのがまことのパン。
朽ちる命はどのように養われても、いずれ朽ちる。
人はいずれみな死ぬ。
しかし、朽ちるべきものが朽ちたとしても、私たちを神の前に引き上げてくださり、永遠に神と共にいることができるようにしてくださるのがまことのパン。
しかし、それに対して人々は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言った。
「いつもください」。
モーセが人々に毎日パンを与えてくれたように、いつもパンをください。
人々は、朽ちる命を養ってほしいという思いに縛られている。
イエスは言われた。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。
イエスが奇跡を起こしてパンを与えてくださるのではなく、神は神の子そのものを永遠の命を与えるパンとして遣わしてくださる。
大変なこと。
パンとして与えるとはどういうことか。
パンは食べると無くなる。
パンも含めてどんな食べ物も元は命だが、食べられるとその命は無くなる。
それでも、与えてくださる。
私たちに永遠の命を生きさせるために。
ただ、この場合、命のパンを食べるというのは、どういうことか。
35節でイエスはこう言った。
「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。
イエスのもとに来ること。
イエスを信じること。
それが、命のパンを食べること。
ここでイエスは、「渇くことがない」とも言われている。
これはパンの話ではなく水の話になる。
イエスは4章14節で、ご自分を命の水にたとえてもいた。
「わたしが与える水を飲む者は決して乾かない」と言っておられた。
とにかく、イエスは人に永遠の命を与えてくださる。
そしてそれは、食べることであり、飲むことであり、つまりは体の中に取り込むこと。
それが、イエスのもとに来て、イエスを信じること。
沖縄に行った時、毒蛇のハブについての展示を見たことがある。
ハブの毒は強力。
しかし、血清を使うと、蛇の毒を中和することができる。
血清はどのように作るか。
蛇の毒をごく少量だけ馬に注入して、約半年間をかけて体内で毒の抗体を作らせ、この馬の血から血清を精製する。
まさに、血によるあがない。
ただ、どんなに効き目のある血清であったとしても、それをただ眺めているだけでは役に立たない。
効能の説明を聞いているだけでは意味がない。
それを体内に受け入れなければ救われない。
イエスが命のパンであるということも同じ。
それをそのまま額面どおり、自分自身にとってのリアルなことだと受け入れること。
それこそ注射されて体内に取り込んでもいいというくらいの気持ちで、信じること。
自分の全存在がかかっていることだからこそ、全存在をかけて受け入れること。
では、イエスを信じるとは、何をどう信じることなのか。
29節に書かれていた。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。
ここでの神の業というのは、人が神の前にするべき務め。
イエスが、神から遣わされたと信じることが、私たちの務めであり、そこに、まことの命が与えられる。
しかし、人々はそれを信じない。
ただそれは仕方のないことでもある。
イエスのところに来ることができるのは、実は、神がイエスに与えた人だけだという話がこの後に続いている。
神が人を選んで、イエスのところに人を行かせる。
私たちは、イエスのところに行く、イエスが神から遣わされたと信じると聞くと、自分の意思でそうしていると考えるが、実はそれは、神が人に働きかけてそうしてくださっているということ。
それはそうだろう。
この地上に人として生きたイエスのことを、神の元から来られた方だと信じる。
現実的に考えて、そんなことはない。
それなのにどうして、私たちは信じているのか。
神が働きかけてくださったとしか言いようがない。
そもそもここは神の家。
家に入ることができるのはどのような人か。
その家の人が招いてくれた。
私たちは皆、招かれてここにいて、今はこの家の一員になっている。
37節から38節にかけては、もう一つの事が言われている。
「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」。
イエスはご自分の意思で人を受け入れたり排除したりしない。
すべて神の御心の通りに行う。
そしてその神の御心とは何か。
39節から40節。
「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」。
突然終わりの日の復活の話が出てきたが、永遠の命というのは今の私たちが生きている、この朽ちる命をずっと生きていくことではない。
朽ちるものはいずれ朽ちる。
ただ、世の終わりの日には私たちは復活させられ、永遠の命を生きる者とされる、という段取り。
そして、その復活の先駆けとして、イエスが復活してくださった。
十字架につけられて死んで、3日後に復活し、今は永遠に父なる神と共におられる。
そのイエスを永遠の命を与えるパンであると信じるなら、その人に永遠の命が与えられる。
イエスの命は永遠の命。
だから、それを信じて、パンを食べるように丸ごと受け入れるなら、その人に永遠の命が与えられる。
ただ、これを本当に現実の事として信じることは簡単なことではないかもしれない。
ある教会で、ゲストの牧師が説教をすることになった。
その教会の牧師が説教前に、ゲストの牧師を紹介した。
ゲスト牧師はその教会の牧師に信仰を伝えてくれた人。
その教会の牧師の話が終わって、年老いたゲストの牧師が説教壇に上がり、語り始めた。
ある父親とその息子、そして息子の友人がヨットで海に出た。
しかし、波が非常に高くなり、父親は経験豊富な船乗りだったが、船をまっすぐに保つことができず、ヨットが転覆して海に流された。
父親はヨットにしがみついて、命綱を掴んだ。
そして、人生で最も耐え難い決断を迫られた。
自分の息子を助けるべきか、息子の友人を助けるべきか。
その決断を下すのに与えられている時間は、わずか数秒だった。
父親は、息子がクリスチャンであることも、息子の友人がクリスチャンでないことも知っていた。
父親は「息子よ、愛している」と叫びながら、息子の友人に命綱を投げた。
そして、その友人をヨットに引き戻した時には、自分の息子は荒れ狂う波の下に消えていた。
遺体は発見されなかった。
父親は、自分の息子がイエスと一緒に永遠の世界に足を踏み入れることを知っていた。
そして、息子の友人がイエスのいない永遠の世界に足を踏み入れることを考えると耐えられなかった。
だから、息子の友人を救うために、息子を犠牲にした。
年老いたゲストの牧師は話を続けた。
私たちのために同じことをしてくださるとは、神の愛はどれほど偉大なのか。
私たちの天の父は、私たちが救われるために、そのひとり子を犠牲にされた。
ぜひ、その救いの申し出を受け入れて、今、イエスがあなたに投げかけておられる命綱を手にしてください。
ここで説教が終わった。
その教会の牧師が再び説教壇に立った。
そして、会衆に招きの言葉を語った。
「今、主からの救いの申し出を受け入れる決心をした人は前にいらしてください」。
しかし、その呼びかけに応じる者はいなかった。
しかし、礼拝が終わってしばらくすると、説教を聞いていた若者が年老いた牧師に話しかけた。
「いい説教でした。
でも、このままでは息子の友人は救われないからと言って、父親が一人息子の命よりも息子の友人の命を優先するというお話は、あまり現実的ではないと思います」。
年老いた牧師は、その若者を見つめて言った。
「そう、現実的ではないですね。
でも、聖書を読むと、神様がこの私のためにひとり子をささげてくださったことが、どんなことだったのかがわかるんです。
今日の私の話ですが、私が息子の友人に命綱を投げた父親です。
そして、この教会の牧師、あなたの牧師は、私の息子の友人なのです」。
聖書というのは不思議な本。
信じられないような話、というか、考えもしなかったようなことばかりが書かれている。
まさに、現実的ではない。
でも、現実。
そして、現実に、私たちに働きかけている力。
私たちが神の業を行うようにならせてくださる力。
安心してください。
私たちは、事実、神に招かれている。
私たちを招いてくださった方が、私たちが神の業を行うこと、つまり、イエスを観念的にではなく現実的に信じることができるようにならせてくださる。