イエスが人々を逃れて湖の向こう側に渡った後の話。
翌日になって、群衆は、そこにはもともと小舟が一そうしかなかったことに気付いた。
そして、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気付いた。
もちろんこのことは、最初から知っている人たちもいただろうが、翌日になって、群衆みんなが知ったということ。
そして、今はもう、弟子たちが小舟に乗って行ってしまったので、舟はない。
そこに、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
そうすると群衆はどうしたかというと、イエスも弟子たちももういないと知って、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
これは一体どういうことか、まさか人が乗ってきた舟を無理やり奪ったのかと思うところだが、この時、ティベリアスから舟に乗ってきた人たちもイエスに会いたくてやってきた人たちだったのだろう。
だから、イエスはいないということを群衆から聞いて、イエスはどこにいるのか、自分たちはティベリアスから来た、ティベリアスにはイエスはいなかった、では、カファルナウムに行ってみよう、あそこにいるかもしれないということで、群衆の何人かも舟に乗せてあげて、一緒にカファルナウムに行ったということだろう。
そうして、人々はイエスを見つけた。
湖の向こう側の、イエスが群衆と一緒にいた場所から、カファルナウムまでは歩けない距離ではない。
今のようなアスファルトの歩きやすい道ではなかっただろうが、当時の人なら、3時間もあれば十分歩けただろう。
ただ、群衆は手漕ぎのボートでカファルナウムにやってきた。
湖の周りに沿って歩いてやって来るのではなく、湖を横切って、一直線にやってきた。
それも、手漕ぎのボートというものは、人が歩くスピードより倍ほど速い。
だから、群衆はイエスが先にそこに来ていたのが不思議だった。
先についていたということは、いつ出発して、いつ着いたのか。
それでイエスに、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と質問した。
イエスはそれには答えなかった。
イエスは言った。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。
これは厳しい言葉。
でもイエスはこのことを、大事なこととして言っている。
「はっきり言っておく」という言葉は、原文では、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」という言葉。
この言葉は、イエスが大事なことを言う時に言う言葉。
それにしても、ここまで頑張ってイエスを探し出した人たちに、この言葉は何か。
あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではない。
しるしというのは奇跡のことだが、それがしるしと言われるのは、そこに、神の力が現れた、というしるしなんだということ。
すごい偶然で奇跡的な出来事が起こることもあるが、そうではなく、これは神の力だ、間違いない、神が働いたしるしだ、ということ。
だから、しるしを見たというのなら、心を神に向けなければいけない。
けれども、群衆は、お腹がいっぱいになったということで喜んで、イエスを探しに来た。
自分の満足のためにイエスを追いかけてきた。
その群衆に、イエスは教える。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。
この働きなさいという言葉は、追い求めなさいという言葉。
群衆はイエスを追い求めてここに来た。
それは、朽ちる食べ物のためだった。
そうではなく、永遠の命に至る食べ物を追い求めなさい。
続けて、イエスは言う。
「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」。
追い求めるなら、与えられる。
神に確かに認められたイエスが与えてくださる。
ここでイエスはご自分のことを人の子と言っている。
人の子という言葉は、普通の言葉で、私という意味にも、あなたという意味にもなる言葉だが、この言葉を聞くと、当時の人たちは旧約聖書のダニエル書7章13節を思い出す。
ダニエル書7章13節に預言されていた、天から降ってくる神のような存在。
天から降ってくるということなので、本当のところは人ではないので、ダニエル書7章13節には「人の子のような者」と書かれている。
そしてその、「人の子のような者」は神の権威を授かると書かれている。
それが今日の、「父である神が、人の子を認証された」という話につながる。
だからこそ、イエスに永遠の命を求めるべき。
求めるなら与えられる。
イエスは、朽ちる食べ物を求める相手ではない。
永遠の命を求める相手が目の前にいると知らせている。
しかしここで群衆は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と質問した。
永遠の命をいただくためには、神の言葉を守り行わなくてはならないというのが、当時、普通に教えられていたことだった。
そして、神の言葉を守り行うことが、一般的に、「神の業を行う」ということだった。
つまり、ここでの神の業というのは、人が行うべきこと。
それなしには、永遠の命は与えられない。
それが当時の常識だった。
それだったら教えられてきた通りに神の言葉を守ったらいいが、それはこの時代のどの人も、多かれ少なかれ行ってきたこと。
ただ、彼らは、自分が神の言葉を守れていないという気持ちがしていたのだろうか、あるいは、群衆は、自分としてはしっかりやっているつもりだったけれども、イエスが予想していなかった話をしたので、あなたはまだまだだと言われたような気になったのだろうか。
群衆はイエスに、神の言葉を確実に守り行うために何をしたらよいか、と聞いた。
イエスは永遠の命をわたしがあなたに与えるという話をしているのに、人々は、今までの感覚の延長線上で話をしている。
イエスの答えは、さらに予想していなかったような話だった。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。
神の業というのは、立派なことをすることではない。
あなたがたがなすべきことは、神がお遣わしになった者を信じること。
考えてみると、神は立派な業に興味はない。
人が立派なことをしたからと言って、そのための能力もチャンスも、神が与えたもの。
神にとっては人の立派な業はどうということもないようなこと。
ただ、神は人とのつながりを求める。
神は人だけをご自分の似姿にお造りになられた。
神にとって人は特別な存在。
まして、神が神の子を人のところに遣わした。
これこそしっかりと受け止めてほしいところ。
しかし、群衆は言う。
「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。
群衆は証拠を見せろと言いだした。
そして、そこで求めているのは、パンを食べること。
ただ、ここで群衆は、モーセを引き合いに出している。
モーセはその昔、エジプトで奴隷にされていた人々を救い出して導いたリーダー。
モーセがリードして、エジプトからイスラエルに向かう。
けれども、途中は荒れ野で、食べ物が無い。
人々はモーセに文句を言った。
そうすると、神が天からパンを降らせてくださった。
それはまさにしるし。
その、モーセのようなしるしを、イエスに求めた。
そして、このモーセが言い残していたことが、いずれ、モーセのような預言者が現れる、ということ。
人々を導き出してくださる、救い出してくださる方が現れる、と言うこと。
この福音書の6章14節で、奇跡を見た人々が「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったが、それは、イエスこそ、モーセのような預言者だ、ということ。
人々は、モーセのような預言者を待っていた。
だからこの群衆は、あなたがそれである証拠を見せろ、モーセはこうだったぞ、と言う。
まして、モーセを通して与えられたマンナというパンは、荒れ野での旅の中で毎日与えられた。
イエスはたくさんの人をお腹いっぱいにしたからと言って、それはまだ一度だけじゃないか、というのが群衆の気持ち。
この群衆は、モーセのような預言者に、毎日お腹いっぱいにさせてほしい。
それは聖書の話に基づいてのことではあるので、この群衆も、救いを求めているとは言える。
救い主が現れて、毎日お腹いっぱいで、安心して暮らしていけるようになると、どんなに良いことか。
パンのためにあくせく働く必要がなくなったら、どんなに幸せか。
そういう救いを求めている。
そして、もしかすると私たちも、同じような救いを求めていることがあるかもしれない。
神が私たちの必要を満たして、毎日の生活を安定させてくださることを、私たちも求めないではない。
しかし、イエスは言う。
「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」。
群衆はイエスにパンを求めた。
モーセがそうしてくれたじゃないか、と。
しかし、モーセが与えたのではない。
神が与えてくださった。
群衆はその認識が間違っていた。
そして、本当の救いというものは、神が与えてくださる、天からのまことのパンにある。
そのパンは、天から降ってきて、世に命を与えるようなもの。
マンナも命を養ったとは言える。
しかし、マンナによって養われたのは、朽ちる命。
朽ちる命ではなく、まことの命、永遠の命そのものを与えるのがまことのパン。
朽ちる命はどのように養われても、いずれ朽ちる。
人はいずれみな死ぬ。
しかし、朽ちるべきものが朽ちたとしても、私たちを神の前に引き上げてくださり、永遠に神と共にいることができるようにしてくださるのがまことのパン。
そうしてくださるのがイエス。
たくさんの人をお腹いっぱいにした奇跡は、イエスが朽ちる命を養ってくださる方であるというしるしではなくて、イエスこそがまことのパンであるというしるしだった。
考えてみると、私たちが求めているものには、朽ちるものが本当に多い。
それは私たちをお腹いっぱいにしてくれるかもしれない。
生活を安定させてくれるかもしれない。
でも、いずれは朽ちるもの。
つまり、死を乗り越えて私たちを生かすものではない。
その意味で、本当の希望を与えてくれるものではない。
私たちは、まことの命に心を向け、まことの命を与えてくださるイエスに心を向けたい。
そうするなら、イエスが与えてくださる。
朽ちるものもこの世に生きている限り、現実に必要はあるけれども、そこに希望を置いていても、いずれその希望ごと、すべて朽ちてしまう。
私たちは、朽ちるものに希望を置くことから卒業したい。
タイタニック号が沈没した話は皆さんご存じだと思う。
映画にもなった話。
これは映画には出てこなかった話だが、その船にジョン・ハーパーという名前のイギリス人の牧師が乗っていた。
彼は39歳で、6歳の娘と自分自身の妹とともにタイタニック号に乗っていた。
この牧師はアメリカの教会で説教するために招かれていた。
ところが、氷山がタイタニック号に突き刺さった。
救命ボートは20艘しかない。
まず、女性や子供たちが救命ボートに乗ることになった。
ジョン・ハーパーは娘と妹をボートに乗せると、「また会えるからね」と娘に言い残し立ち去った。
そして、使徒言行録16章31節の福音を、周りの人たちに熱心に伝え始めた。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。
船が沈み続ける最後の数時間、ハーパー牧師はイエスにある希望を人々に伝え、人々と共に祈った。
やがて船が大きく傾き、いよいよ海に飛び込んだ。
多くの人が海に投げ出された。
人々は海の上に浮かんでいる舟の残骸に何とかしてしがみついている。
その海の中で、ハーパー牧師は、救命胴衣を付けていない人に出会った。
彼はその人に尋ねた。
「君は、イエス様を信じているか?」。
その人が、信じていないと言うと、自分の救命胴衣を彼に渡して言った。
「私の心配はいらない、私は海に沈むのではない。天に昇るんだ」。
そして、声を張り上げ、滅びゆく人々のところに泳いで行ってはイエスを伝え、海の中に消えていった。
私たちは、極寒の海に投げ込まれたり、沈没船のデッキに立ったりすることはないかもしれない。
しかし、私たちは、ジョン・ハーパーが、「まだ救われていない人を今死なせるわけにはいかない」と思っていた、同じ救いをいただいている。
そして、私たちは、それを伝えるために、極寒の海に投げ込まれたり、沈没船のデッキに立ったりする必要はない。
私たちの周りには、希望と救いを求めていながら、実際のところ、船の残骸にしがみついている人々がいる。
今日の話で言うところの朽ちるもの。
それにしがみついている人々がいる。
それが本当にはその人の救いにはならないのに、それでもなお、知ってか知らずか、朽ちるものにしがみついて、朽ちるものと一緒に朽ちていく人たちがいる。
私たちも声を上げなければならない。
それが、救われた者の務め。
今こそ、朽ちるものを捨てて、まことの命に心を向け、まことの命を与えてくださるイエスに心を向けたい。