2023年06月05日「恐れることはない」

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聖句のアイコン聖書の言葉

16夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。18強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章16節~21節

原稿のアイコンメッセージ

イエスが湖の上を歩く。
印象深い場面。
この話は、他の福音書にも出てくる話。
ただ、この福音書を書いたヨハネは、他の福音書には書かれていることを省略していることがある。
また逆に、他の福音書が書いていないことを書いていたりもする。
今日は、この出来事を通してヨハネが何を伝えようとしているのかを分かち合いたい。

弟子たちが、舟に乗ってカファルナウムに行こうとした。
カファルナウムというのはイエスと弟子たちにとって、この地方、ガリラヤ地方における拠点。
どうして今、その場所とは違う場所にいるのかというと、6章1節で、湖を渡って、湖の東側にやってきていた。
もともといた場所はどこだったのか正確には分からないけれども、とにかくもともとは湖の西側にいた。
そこから、東側に渡ったけれども、今日の16節で夕方になったので、また湖を渡ってカファルナウムに行くことにした。
カファルナウムは湖の西側。
つまり、湖の東側に来たけれども、その日の内に、湖の西側に戻ることになったということ。

ところが、17節を見ると、「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」。
それなのに、弟子たちだけが舟に乗って出て行く。
どうしてイエスは別行動をするのか。
これは、今日の場面のすぐ前のところに理由があるように思う。
すぐ前の15節に、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とある。
人々はイエスを捕まえて、王にしたかった。
イエスはその人々から身を隠した。
その上で、弟子たちだけを向こう岸に行かせる。
今日の場面のすぐ後の22節を見ると、群衆は、弟子たちだけが向こう岸に渡ったことを知っていた。
おそらく、イエスを王にしようとする群衆は、イエスを逃がさないつもりで、イエスと弟子たちが乗ってきた舟を見張っていたのだろう。
そこへ、弟子たちだけがやってきて、向こう岸に行った。
もう舟はない。
そうなると、イエスだけがまだ湖のこちら側にいるはずだ。
けれども、実はイエスは、舟には乗らずに、湖の上を歩いて向こう岸に渡っていた、というのが群衆から見た今日の話。
人々はイエスを王にしようとしたが、それは御心ではなかった。
イエスはこの世の王ではない。
イエスは、この世のものではない神の力を現わして、人々の前から去った。
人々もこれで分からなければいけない。
イエスをこの世の王にするのは御心ではない。

ただ、それは群衆から見てのこと。
私たちはここから、何を聞き取るべきか。
この福音書を書いたヨハネは、何が言いたいのか。

弟子たちだけが舟に乗って出て行く。
そして、その舟が波風にもまれる。
これは教会の現実。
私たちの教会も、非常に長い期間、それを経験してきた。
一人で船旅をするのではない。
弟子たちがみんなで一つの舟に乗り込んで、こぎ出していく。
ただ、私たちは、いつもいつも、イエスが共にいてくださると感じることができるわけではない。
イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださった。
けれども、目に見える形で共にいてくださっているのではない。
時には、私たちは思う。
イエスは今どこにおられるのか。
私たちがこんな状況になっているのに、どこで何をしておられるのか。
ただ、今日の場面は私たちに教えている。
私たちがイエスの弟子になったからといって、いつでもどこでも穏やかな環境にいられるわけではない。
波風が立つということはある。
ただ、弟子たちは、それでも前に進みつづけた。
そもそも、弟子たちだけで舟を出したというのは、イエスがそうするように言ったからだろう。
そうでないなら、弟子たちはそんなことはしなかっただろう。
イエスが言ったから、弟子たちはイエスの言葉の通りにした。
それでも、波風が立つということはある。
けれども、前に進みつづける。
自分の判断で、勝手にイエスの言葉をなかったことにするようなことはしない。

この時、弟子たちは、25ないし30スタディオンという距離を進んでいた。
これは大体5キロメートル。
けれどもまだ、向こう岸には着かない。
そこに、イエスが歩いてやってきた。
弟子たちはそれを見て恐れた。
それはそうかもしれない。
今まで弟子たちはいくつもの奇跡を見てきたが、湖の上を歩いてくるというのは、新しい驚きだっただろう。
水をぶどう酒に変える奇跡にしても、病の癒しにしても、わずかな食べ物を増やして、大勢の人に与えることにしても、自分以外の何かに対する働きかけ。
何かに対して、神の力で働きかけて、素晴らしい出来事が起こる、というパターン。
しかし、今回は、イエス自身が水の上を歩いている。
水の上を歩ける人はいない。
水をぶどう酒に変えることは出来なくても、ぶどう酒は皆飲んだことがある。
病も癒されることがある。
食べ物を増やすことは出来なくても、たくさん食べてお腹いっぱいになった経験なら、誰にでもある。
けれども、水の上を歩くというのは、誰も一度もやったことがないこと。
考えたこともないようなこと。
これは驚くだろう。

その弟子たちに、イエスは言った。
「わたしだ。恐れることはない。」
「わたしだ」と言っているということは、弟子たちはその人がイエスだと分かっていなかったということかもしれない。
ただ、この「わたしだ」という言葉は、とても深い意味のある言葉。
この言葉は、そのまま英語に翻訳すると、「アイ・アム」という言葉。
この言葉にどうして深い意味があるのかというと、旧約聖書の出エジプト記の3章で、モーセが神にお名前を尋ねた時に、神が答えた言葉。
モーセが神にお名前を尋ねたけれども、神には名前はない。
聖書では名前というのは上の者が下の者に付ける。
神より上はいないので、神に名前はない。
そこで、神は「アイ・アム」、わたしはある、と答えた。
これは、モーセが、これから自分が神に派遣されて行った先で人々に話しても、まともに取り合ってもらえなくて、「お前の神の名前は何か」と聞かれるかもしれない、そうしたらどう答えればいいんですか、と質問したので、疑われても、堂々と、神はおられる、神は「わたしはある」という方だ、と答えなさい、とモーセに諭すために、そう答えたこと。
だから、この、「わたしはある」というお名前には、わたしは神であり、わたしは確かにいる、という御心が込められている。
その意味で、これは大事な言葉。
今日の場面でも、考えもしなかったような奇跡を現わしたイエスに対して、弟子たちが恐れたところで、「アイ・アム」、わたしはある、私は神だ、だから、「恐れることはない」。

そして、実際にこの言葉は、この言葉自体が神の力を帯びている。
この福音書の18章4節からのところで、イエスが逮捕される場面で、この言葉をイエスが口にする。
イエスを逮捕しに来た人たちに、イエスが、「だれを捜しているのか」と言う。
人々が「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。
そして、イエスが「わたしである」と言われたとき、人々は後ずさりして、地に倒れた。
その言葉自体に、神の力がある。

その言葉が、今、弟子たちに投げかけられた。
弟子たちは勇気づけられたことだろう。
その言葉は、私たち教会にも投げかけられている。
私たちも、イエスの言葉に従って歩んでいる。
しかし、その中で、困難にぶち当たることはある。
その時に、今、イエスはどこにおられるのだろうかという思いになることはある。
しかし、それでもイエスの言葉に従って歩みつづけるなら、そこにイエスは来てくださる。
神が、神の力をもって来てくださる。
困難な時というのはある。
頑張りつづけても結果が見えてこない時というのはある。
しかし、私たちは、イエスに従っているのなら、安心していて良い。
イエスは神の力をもってそこに来てくださる。
そこに、結果が与えられる。
「舟は目指す地に着いた」ということ。

ある人が飛行機に乗っていた。
その時、機内の表示が点滅し、アナウンスによって、問題が近づいていることを知らされた。
「シートベルトを締めてください。ただいま、乱気流が予想されるため、飲み物のご提供を控えさせていただいております。シートベルトの着用をお願いします」。
機内を見渡すと、多くの乗客が不安になっていた。
その直後、飛行機は嵐の中に入った。
雷が鳴る。
暗くなりかけた空に稲妻が光る。
飛行機はまるで荒波に翻弄される木の葉のようになった。
上昇したかと思うと、墜落しそうな勢いで下降する。
機内を見回すと、ほとんどすべての乗客が動揺している。
祈っている人もいる。
その時、その飛行機に乗っていたある人は、すぐそばの座席に、小さな女の子を見つけた。
その子は足を伸ばして、本を読んでいた。
時々目を閉じてはまた本を読んだ。
何も恐れていないように見えた。
大人たちはみんな怯えていたのに、その子は完全に落ち着いていた。
飛行機がやっと目的地に着き、乗客が急いで降りようとした時、その人はその子に話しかけた。
「どうして怖くなかったの?」。
女の子は答えた。
「だって、パパがこの飛行機のパイロットで、私を家まで送ってくれるんだもの」。

弟子たちは舟に乗っていた時、何を考えていただろうか。
弟子たちの中にはもともと漁師であった者が何人もいた。
このような困難にあうことも初めてではなかったはず。
こういう状況だから、こうしよう。
こういうふうにしてみたらうまくいくんじゃないか。
自分の経験と能力でどうにかしよう。
当然というか、そういうことしか考えていなかっただろう。
もちろん、それでどうにかなるのなら、それでもいいだろう。
ただ、その時の心の内はどうか。
不安、焦り、いらだち。
大事なのは、私たちが何をしていても、安心していて良いのだということ。
安心していることが信仰だということ。
「だって、パパがこの飛行機のパイロットで、私を家まで送ってくれるんだもの」。

飛行機はあらゆる乗り物の中で最も事故が起こる確率が低いそうだが、恐ろしい思いをすることというのはある。
教会も、イエスの弟子たちが一緒になって、イエスに従って前に進もうとしているのだが、波風が立つということはある。
しかし、私たちは安心して良い。
私たちが波風に翻弄されながらも、それでも前に進もうとする時、神の子が神の力をもって私たちのところに来てくださる。
そして、行くべきところにたどり着かせてくださる。
イエスが私たちの教会という舟を目的地に到着させてくださる。

今日の最後のところでは、「彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とあって、これは実際にイエスを舟に乗せたのだろうか、乗せていなかったのだろうかということを問題にする人がいる。
イエスを舟に乗せたのか乗せなかったのかは問題ではない。
これは、そのようなことを言いたいのではない。
イエスの姿を見て恐れた弟子たちが、イエスを迎え入れようという気持ちになったということ。
その心の変化を言いたい。
「わたしだ」という言葉に恐れを取り除かれて、弟子たちは、これでもう大丈夫だと安心していただろうということ。
神を「迎え入れようとする」、その心だけで十分。
後のことは、イエスがなさってくださる。
「間もなく、舟は目指す地に着いた」というのはそういうこと。

私たちも、嵐の中でも安心していたい。
イエスは必ず、私たちを、行くべきところにたどり着かせてくださる。
この時、弟子たちは大変な苦労をした。
そのような、長らく解決しなかったような困難なことも、解決させてくださる。
イエスがいないと思っていたその場所に、イエスが来てくださることを求めてもいなかったその場所に、イエスは来てくださる。
そのイエスを、私たちが迎え入れようとするなら、そこにもう解決がある。

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