今日の話は他の福音書にも出てくる話。
ただ、他の福音書の内容とは違っている点もある。
今日は、この福音書のこのお話が何を伝えているのかを見ていきたい。
今日の場面では、場所がいきなりガリラヤ湖になっている。
ティベリアス湖とも言われているが、もともとの名前はガリラヤ湖で、後から付けられたローマ風の名前がティベリアス湖。
異邦人にはこの方が分かりやすかった。
ヨハネによる福音書はイスラエルの外で書かれたので、異邦人に分かりやすいように、ティベリアス湖と書いたということ。
とにかく、イエスはガリラヤ湖の向こうに渡った。
向こうというのは湖の東側。
それでも、大勢の群衆がイエスを追いかけてきた。
それは、「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と2節に書かれている。
イエスはこの福音書の中でも、今までにそういうことをしたことがあった。
また、この福音書に書かれていない癒しの奇跡もあっただろう。
奇跡を見たからと言って、人は信じるようにはならないと聖書は言うが、とにかく、この時、たくさんの人がイエスを追いかけてきた。
本当に信じている人もいたかもしれないし、マジックショーを見たいというくらいの気持ちの人もいたかもしれないが、イエスが山に登っても、人々は追いかけてきた。
山に登ったイエスは弟子たちと一緒にそこに座った。
そして、イエスは弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。
このフィリポという人はベトサイダというところの出身で、今いる場所から一番近くの出身。
どこでパンを買えば良いかと聞くのなら、フィリポに聞くのが一番いい。
ただ、この5節に、「こう言ったのはフィリポを試みるため」だったと書かれている。
フィリポをテストしたいという考えがイエスにあった。
どうして特にフィリポをテストしたいのか、というと、これは、今日の場面よりもずっと後になってからのことだが、フィリポが登場してくる場面があって、それを読むと、フィリポが特徴のある人だったということが、分かる。
一つは、12章20節からのところで、ギリシャ人がやってきて、フィリポに、「イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
だったらイエスのところに連れて行ってあげればいいのに、フィリポは一人で弟子のアンデレのところに行って、アンデレとフィリポの二人でイエスのところに行った。
自分も弟子なのに、一人でイエスのところに行けない。
もう一つは14章7節で、イエスが、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と言った時、フィリポが自分から、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言った。
「そうすれば満足できます」ということは、満足していないということ。
それをイエスに直接言った。
イエスはそれに対して、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と言った。
イエスは、フィリポの理解が足りないと見ている。
フィリポの方でも、イエスを理解できていない。
ギリシャ人にイエスに会いたいと言われて、アンデレのところに行った時もそうだったのではないか。
イエスが理解できない、イエスが何と言うか分からないから、一人で行けない。
フィリポがこうだから、イエスはフィリポを試した。
フィリポは何と答えたか。
「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。
200デナリオンというのは200万円。
男性の数だけで5,000人ということは、女性や子どもも含めると、1万人以上だっただろう。
だから、一人200円でも200万円。
しかし、これは質問に対する答えになっていない。
イエスは、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と聞いた。
「どこで」と聞いている。
それに対して、金額を答えた。
これは結局、そんなお金ないですよ、無理ですよ、ということ。
フィリポの頭の中にはこの世の計算しかない。
それはアンデレも同じこと。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。
アンデレにも、この世の考えしかない。
しかしイエスはここから、このパン五つと魚二匹を取り、感謝の祈りを唱えてから、人々に分け与えられた。
そうすると、全員がお腹いっぱいになった。
この世の考えを超える神の出来事が起こった。
人間の考えは浅い考えだった。
イエスはここで、パンや魚に対して、増えろ、と命令したわけではない。
神の言葉は実現するというのが聖書なので、イエスが増えろと言っても増える。
しかしこの時は、「感謝の祈り」を唱えた。
4節を見ると、この時は過越祭が近づいていた時だった。
過越祭では、過越の食事と言われる、普段は食べないような特別な食事をする。
そして、実際に食べるに当たって、感謝の祈りをささげる。
つまり、イエスは、この時の食事を、過越の食事として行っている。
そもそも、過越祭というのは何だったかと言うと、その昔、イスラエルの人々がエジプトで奴隷にされていたところから救い出されたことを記念する祭り。
エジプトの王ファラオは、イスラエルの人々をなかなか解放してくれなかったが、神の怒りがエジプト人の家に入って行って、エジプト人の家の中で、最初に生まれた子どもが皆、命を落とした。
イスラエルの人々の家には神の怒りが入って行かなかった。
イスラエルの人々の家の門には、小羊の血が塗りつけられていた。
小羊の血が塗られた家には神の怒りが過ぎ越した。
そして、エジプトの王はついに、イスラエルの人々を解放した。
それを記念するのが過越祭。
その過越祭の中心になるのが、その時のことを思い起こす食べ物をいただく、過越の食事。
とにかく、過越の食事は、神の救いに感謝することが中心。
つまり、この時の食事では、1万人以上の人が満腹したが、これはどういう出来事であるか。
お腹がいっぱいになって良かったというだけのことではない。
ここで起こっているのは、実は救いの出来事だということを、イエスは示している。
そして、この過越の食事は、私たちの教会でも毎月行っている、聖餐式につながってくる。
過越の出来事では、小羊の血によって救われた。
聖餐式では、ぶどうジュースをキリストの血としていただく。
私たちがキリストの血によって救われたから。
そして、その聖餐式をキリストが定めてくださったのは、過越の食事において。
最後の晩餐は過越の食事。
だから、聖餐式でも、感謝の祈りがなされるし、ギリシャ語の「感謝する」という言葉から、「聖餐式」という言葉ができてきた。
過越祭も聖餐式も、救いへの感謝。
イエスはここで、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
これは、食べ物を無駄にしないようにということではない。
「無駄に」という言葉は、「滅びる」という言葉。
「少しも滅びないように」とイエスは言った。
パンがもったいないのではない。
感謝の祈りを唱えて人々に与えたパンは、もう、最初に子どもが持っていた五つのパンではない。
人々に与えられたパンは、人を救おうという神の御心。
そして、集められたパンはどうするのか。
このまま捨ててしまうのなら、結局集めても集めなくても同じ。
実は、パンの余りを集めるのは、この時代には宴会で普通に行われていたことでもあった。
そして、集めたパンのあまりを、「隅」と言った。
これは、「畑の隅」を意味する言葉。
「畑の隅」は刈り取りをしない。
そこは貧しい人に与える。
つまり、集められたパン切れは、後から、ここにいなかった人に下げ渡されたのかもしれない。
そうすると、そこにも人を滅びから救う神の御心が広がっていくことになる。
食べる人がいれば、御心が無駄にならない。
そのために、12人の弟子たちが12の籠を持って、パン切れを集めた。
弟子たちは、神の救いを余すところなく広めるために用いられた。
私たちも、同じ目的のために用いられる。
私たちも、神の救いを広めるために、他の人々よりも先に、神の元に招かれた。
私たちには人を救うことはできないし、信仰を与えることもできない。
それは神がなさってくださること。
私たちにできることは、パン屑を集めるくらいのこと。
それは、一枚のチラシでも無駄にならないようにチラシを配るということくらいのことかもしれない。
果たしてそれがどれほどのことかと思うかもしれないが、今日、弟子たちが集めた12の籠にいっぱいのパン切れが、他の人々にも分け与えられていったとしたら、どうだろうか。
何人の人に神の救いの御心が届いたことになるだろうか。
そして、その働きの中でこそ、私たちは信仰を鍛えられていく。
今日、フィリポは、テストされたが、フィリポの答えは不合格だった。
人間の考えを超える神の御業に思いが至らなかった。
しかし、1万人以上の人が満腹するのを見て、自分が籠を持って集めたパン切れだけでも、最初の五つのパンよりもはるかに多かったのを見た時、フィリポはどう思っただろうか。
私たちも、神の救いを広めるためにほんの小さな働きをする時、自分の考えを超える神の御業を見ることになる。
しかし、今日の場面では、多くの人々はイエスを理解していなかった。
人々はイエスを王にしようとした。
王にしようということはどういうことか。人々はイエスに、満腹にさせてほしい、生活を安定させてほしいということを願った。
ここでイエスは身を隠す。
救いというのは生活の安定ではない。
生活が安定していても、そのままでは人はいつか滅ぶ。
神から離れている人を神の前に永遠に取り戻すことが救い。
救いはこの世のスケールの出来事ではない。
ただ、その救いは、ほんの小さなところから始まっていく。
今日の場合は、子どもが持っていた、五つのパンと二匹の魚。
でも、それが、想像を超えて大きく用いられた。
実際、神はそのように人を用いる。
今から100年以上前、アメリカの、ある小さな教会のそばで、4才の少女が泣きじゃくっていた。
この少女は、「教会が混んでいるから」という理由で、教会を追い出された。
そこにその教会の牧師が通りかかった。
牧師は、その子が着ている貧しい服を見て、その子が追い出された本当の理由に気付いた。
牧師はその子の手を取って教会の中に入れ、日曜学校のクラスに居場所を作ってあげた。
その子は感激した
そして、すべての子供たちに礼拝する場所が与えられることを願うようになった。
それから2年後、この子は貧しいアパートの一室で亡くなった。
両親は、娘と親しくしていた心優しい牧師に、最後の手続きを依頼した。
娘の遺体が運び出されるとき、どこかのゴミ捨て場から拾ってきたらしい、擦り切れてくしゃくしゃになった財布が出てきた。
中には57セントと、子供っぽい字で書き込まれたメモが入っていた。
「これは小さな教会を大きくして、もっと多くの子供たちが日曜学校に行けるようにするためのお金です」。
その子は2年間、そのために貯金をしていた。
そして、100年以上前と今とでは、お金の値打ちが違う。
当時の57セントは今の1万円。
幼い貧しい少女が、どれくらい苦労してそれを貯めたのか。
そのメモを読んだ牧師は、自分が何をすべきかを悟った。
そのメモと、ひび割れた赤い財布を持って説教壇に立ち、その子の愛と献身を語った。
そして、もっと大きな建物を建てるために必要な資金を集めるよう呼びかけた。
ある新聞社がこの話を知り、新聞に掲載した。
それを読んだ不動産業者が、数千ドルの価値のある土地を提供することを申し出た。
牧師はその土地を買うだけの資金がないことを伝えたが、不動産屋が要求した金額は57セントだった。
うわさは広がり、遠くから小切手が届くこともあった。
教会員も多額の献金をした。
5年もしない内に、57セントから始まった献金は25万ドルに増えた。
何倍になっただろうか。
五つのパンと二匹の魚で1万人の人がお腹いっぱいになった以上の増え方。
当時の25万ドルは現代の50億円。
一つの小さな教会に、それだけの資金。
その教会は今、立派な会堂を備え、日曜学校の建物だけでも大きな建物が立ち、それ以外にも総合病院を経営し、大学も持っている。
大学の名前はテンプル大学。
教会の大学。
私たちの教会に50億円があったら、何をしたいか。
いや、それ以前に、57セントをささげることを考えたい。
イエスも、何もない所からパンを出してくるようなことはなさらなかった。
そうしようと思えばそうすることができる。
でも、そうしなかった。
五つのパンと二匹の魚を持っていた少年も立派。
それを差し出さなくても良かった。
仮に差し出さなかったとしても、イエスは怒ったりはしなかっただろう。
でも差し出した。
では、私たちにとっての五つのパンと二匹の魚とは何だろうか。
私たちにとっての57セントとは何だろうか。
パンと魚にしても、57セントにしても、私たちにとって不可能なほど大きな価値のあるものではない。
しかし、その少年にとってはどうだったか。
その少女にとってはどうだったか。
それしかない、なけなしのパン。
それがすべての、なけなしの57セント。
なけなしの、なにか。
それが用いられる。
イエスは、私たちがそれを差し出すのを待っておられる。
そして、そうする時、そこに奇跡が起こる。