神からのほまれ、人からのほまれ
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 5章41節~47節
41わたしは、人からの誉れは受けない。42しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。43わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。44互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。45わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。46あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。47しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 5章41節~47節
イエスの話の続き。
分かるような分からないような。
謎めいた話し方。
先週の話では、イエスについて証ししている存在がいろいろと挙げられていた。
洗礼者ヨハネ。
イエスの行う奇跡。
父なる神。
聖書。
けれども、話を聞いていた人たちはイエスを受け入れない。
証しを信じない。
しかし、そのような信じない人々のことが、今日の43節では、「もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる」と言われている。
「自分の名によって来る」とはどういうことか。
私はこれこれこういう者です、と自分から明らかにすること。
つまり、ここでイエスが言っているのは、「あなたがたは神が証しする言葉を聞いても受け入れないのに、人間が自分で証しする言葉は受け入れるんですね」ということ。
「神の言葉は信じないけれど、人の言葉は信じるんですね」ということ。
次の44節では、あなたたちは「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない」と言われている。
人からほめられたい。
ほめられると嬉しい。
人間誰でもそう。
互いにほめ合う関係であるならば、それがベストの人間関係。
それの何が問題なのかと言うと、人にほめてもらうことが目的で、神にほめてもらおうとは思っていない。
神が意識されていない。
人にほめてもらうことにだけ、意識が向かっている。
しかし、今日の最初に、イエスは言った。
「わたしは、人からの誉れは受けない」。
これは、神からのほまれだけを求めているということ。
だから、人にほめられたいという気持ちにもならない。
なかなか難しい話。
全体を通して読むと、人にほめられたいという気持ちと、神にほめられたいという気持ちは両立しないと言っているようにも聞こえる。
確かに、人を意識すると人のことしか考えない。
そして、神を意識すると神のことしか考えないということもあるだろう。
神と人というのは全く別物なので、両方同時に意識するというわけにはいかないということはあるだろう。
42節で、イエスは厳しいことも言っている。
「あなたたちの内には神への愛がない」。
イエスにとっては、人からのほまれを求めることは、神を愛さないことなのか。
それもそうかもしれない。
人からのほまれを求める時には、神を意識することはない。
意識していないのなら、当然、愛していることにはならない。
しかし、神からのほまれを求めて生きることは楽なことではない。
神からのほまれを求めると、人間同士の間では苦しむことになる。
預言者と言われる人たちが大体そうだった。
神から言葉を預かって、それを人に伝える。
そうすると、大体の人には嫌がられる。
預言者たちは皆苦しんだことが聖書に記録されている。
やはり、神からのほまれを求めることと、人からのほまれを求めることは両立しない。
神からのほまれだけを求めたイエスご自身、人から苦しめられた。
たくさんの弟子たちや支持者を集めることもできたけれども、最後には弟子たちにも見捨てられた。
私たちも、神からほめられるか、人からほめられるか、どちらかしかないと考えるべき。
ただ、ここで深刻なのが、今、イエスが話している相手であるユダヤ人たちが、それを分かっていなかったということ。
ユダヤ人は聖書をよく読む。
それはもう、私たちの誰よりも熱心に聖書を読む。
そして、大事なところは全部暗記している。
有名な先生になってくると、聖書を開いて、どれか一文字を針で突いて、その裏側のページに書かれている文字は何か、ということまで分かる。
全部頭に入っている。
それくらい聖書を読んでいるのに、何も分かっていない。
聖書を読んでいても、正しく理解できていないということはある。
45節でそのことをイエスは厳しく批判している。
「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」。
モーセは旧約聖書の最初の五つの本を書いた人。
その五つの本は旧約聖書の一番大切な部分とされ、「律法」と呼ばれた。
ユダヤ人は、そのモーセを頼りにしている。
モーセの律法を守って生きていくことがすべてだと考えていた。
そして、律法を守るなら、神に愛される、神に受け入れられる、神にほめられて、救われる、神の元に取り戻されると考えていた。
それの何が間違っているのかというと、ユダヤ人は、律法を守ることで、自分で自分を救うことができると考えていた。
律法を守ることで、神に愛され、救われる。
律法を守るのは自分だから、自分で自分を救うことになる。
つまり、結局のところ、ユダヤ人は、自分で自分を救うことができると考えていた。
しかしモーセは、律法の中で、モーセのような預言者がいずれ現れることを予告していた。
モーセのような預言者とは何か。
モーセは、奴隷だった人々を脱出させて、新しい土地に導き入れた。
そのような方が再び現れる。
しかし、もし人が自分で自分を救えるのなら、そのような人は必要ない。
自分の力で何とかすればいい。
そして、そもそも、律法とは何か。
律法を守ったから、神が奴隷だった人々を自由にしてくださったのではない。
律法は、奴隷だったところから脱出して、新しい土地に向かう旅の中で与えられた。
つまり、律法が与えられたのは、救い出されてから。
神に救われた人たちに、これからこの言葉を守って幸せになりなさいというのが律法。
律法は救われるための基準ではない。
救われた人が幸せに生きるためのガイドライン。
それが分かっていれば、イエスが、モーセのような預言者である、神の元から来られた救い主であるということが分かったはず。
しかし、ユダヤ人たちには分からなかった。
考え方が最初から間違っていたから。
私たちは、イエスが救い主だと信じている。
しかし、私たちの中にも、ユダヤ人と似たところはないだろうか。
ガイドラインをそれ自体、目的にしてしまう。
手段を目的にしてしまうようなこと。
気がつかない所で、私たちの意識がそうなってしまっていることはいくらでもある。
牧師も気を付けなければならない。
聞いた話だが、ある牧師が、自分の教会が経済的に困難だったため、ラーメン屋を始めた。
ラーメン屋の売り上げでなんとかしよう。
しかし、やっている内にのめり込んでしまって、牧師をやめて、ラーメン屋一本になった。
手段が目的になってしまった。
そういうことはいくらでもある。
お金というのは手段。
学歴というのも手段。
また、仕事というのも本来は手段だろう。
しかし、それが目的になってしまうことがある。
私たちにとっても、本来手段であるはずのものが、自分でも手段だと分かっているのに、実はある時には目的になっているということがあると思う。
どうしてか。
そこに人からのほまれがある。
スゴイですねと言われる。
自分が立派になった気がする。
そうなると、それ自体が目的になってしまうことがある。
人からのほまれに私たちは弱い。
ユダヤ人たちも、今日の44節で、「互いに相手からの誉れは受ける」ということだった。
律法を守って生活していれば、あなたの信仰は立派だとほめられる。
律法を守っているのか守っていないのかは自分のことなので、できていれば自分がほめられる。
人からのほまれを求めるということと、手段を目的にしてしまうということはつながっている話。
人間は人にほめられることに弱い。
ただ、ほめられることばかりでもない。
律法を守っていないと、ほめられないどころか、批判される。
お金でも学歴でも仕事でも同じ。
見下されるということがある。
イエスの弟子たちにしてもそう。
弟子たちは、弟子たちの中で誰が一番偉いかと議論したことがあった。
一番偉い人はほめられるのだろう。
では、偉くないとされた人はどうなるのか。
見下される。
そうなると、せいぜいマシな生き方が、互いに相手からのほまれを受けながら、お互いのことをほめ合って生きていくということになる。
しかし、内心では、いつ批判されるだろうかと恐れいてなくてはならない。
その私たちに、神からのほまれを求めるように言われている。
神からのほまれを求めるとはどういうことか。
神は私たちのところにご自分の子を救い主として遣わしてくださった。
だとしたら、私たちがどういう心で生きれば、神がお喜びになるだろうか。
神が救い主をこのわたしのところに送ってくださったことに感謝すること。
そのために、自分には罪があり、自分は神に救っていただかなくてはならない者であることを認めること。
その自分の罪は、神の子の命と引き換えになるほど、重いものであることを認めること。
にもかかわらず神が私を神のみ前に取り戻してくださるほど、私を愛してくださっていることを喜ぶこと。
それが、救い主を遣わした神様が私たちに求めておられること。
そして、そうする時には、私たちは、人からの評価を気にする必要がなくなる。
人をほめたり見下したりする必要もなくなる。
神を愛し、隣人を愛して生きる道が開かれる。
それこそ、神にほめられる生き方であり、それ以外に道はない。
これは私たちにとっても困難なこと。
しかし、安心して良い。
神がそれでも私たちを愛してくださり、私たちを救ってくださった。
これは間違いのない事実。
私たちは神に言われている。
あなたにはできる。
神にほめられる生き方と人にほめられる生き方が必ずしも両立しないものであるのなら、楽なことではないかもしれない。
しかし、新しくされるということは、いつも必ず苦難が伴うもの。
聖書は、人が新しくされる必要があることを語りながら、そこには苦難もあることを語っている。
むしろ、私たちは、苦難を通してこそ、本当に新しくされる。
ある人が蝶の蛹を見つけた。
その蛹に、ある日、小さな穴が開いた。
彼は、蝶がその小さな穴から外に出ようとしてもがくのを、何時間も座って見ていた。
すると、ある時、蝶は前に進まなくなった。
もうこれ以上進めないという感じ。
そこで、彼は蝶を助けることにした。
ハサミで蛹の一部を切り落とした。
すると、蝶は簡単に出てきた。
しかし、体はむくみ、羽は小さく縮こまっている。
彼は、今にも羽が大きくなって体を支え、やがて飛ぶだろうと思い、蝶を見続けた。
しかし、そうはならなかった。
蝶はいつまでも、胴体を膨らませ、羽を縮ませたまま這いずり回るしかできなかった。
この人は理解していなかった。
蝶が蛹の小さな穴から出てくるのに苦労するのは、蛹から出たときに飛べるように、蝶の体から羽に向けて体液を押し出すための神の方法だった。
今日、私たちは、この世の生き方ではなく、御心に適う生き方をするようにとイエスに促された。
それはこの世の生き方とは全く違う生き方。
蛹と蝶くらい違う。
しかし、あなたには蝶がふさわしいとイエスは言った。
おそらく、そこに至るまでには苦難がある。
しかし、苦難無くして、蝶にはなれない。
必要な苦難というものはある。
イエスは私たちに、蝶になるように言う。
恐れることはない。
その苦難は、私たちをダメにするためのものではない。
苦難によってこそ、私たちは確かにされる。
安心して苦難を受け入れたい。
その苦難は苦難では終わらない。
その苦難は、私たちが蝶になろうとしているという証し。