今お読みした場面は、預言者エゼキエルが見させられた幻です。
エゼキエルは、骨でいっぱいの谷の真ん中に立たされました。
見渡す限り骨だらけといった感じですね。
しかもその骨は「甚だしく枯れていた」ということですから、もう全く命を感じることもできないような、この骨がかつて生きた人であったということを想像することもできないような感じですね。
この骨は一体何なんでしょうか。
どうして、元は生きていた人であったはずなのに、今はこうなってしまったんでしょうか。
9節の後半を見ますと、この骨となってしまった人たちは、「殺された」ということなんですね。
11節を見ますと、「これらの骨はイスラエルの全家である」と言われています。
この骨は、殺された神の民の骨なんですね。
一体どうしてそんなことになってしまったんでしょうか。
この時代に、バビロンという大きな強い帝国に攻められて、国が滅ぼされてしまっていました。
そして、人々はバビロンに連行されて、帰ってくることもできなくなってしまっていたんです。
その今の状態を指して、イスラエルは今、このような状態だ、枯れた骨のようなものだ、と言われているんです。
それは、イスラエルの今の状態を見放してそう言っているのではありません。
イスラエルの人たち自身がそう言っているんですね。
11節の後半にイスラエルの人たちの言葉があります。
こんなことを言っていますね。
「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」。
もう全く絶望してしまっているんです。
それは仕方ないかもしれません。
何しろ、国まで滅ぼされてしまったんです。
人間の目にはもうどうしようもありません。
そういう状況だったらそう考えるのが普通ですし、私たちにだって、それくらいの絶望してしまう時というのはあります。
私たちの身の回りを取り巻く状況というのはいつもあるわけですけれども、私たちは、自分の身の回りの状況を自分一人の力で変えることは、まずできないからです。
そういう時、この言葉は私たちの言葉でもありますね。
「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」。
誰にでも、全く絶望してしまう時というのはありえます。
神はそこにおいて何を語るのでしょうか。
3節で、神はエゼキエルにこう言いました。
「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。
枯れ果てた骨が生き返ることができるか、と神はエゼキエルに問いました。
普通に考えれば全く不可能です。
そんなこと、エゼキエルは考えてもいなかったでしょう。
しかし、考えもしないようなことを神は問います。
その問いにおいて、神は私たちの常識を打ち壊します。
ここで、神はエゼキエルに「人の子よ」と呼びかけています。
人の子というのは人間一般をさす言葉です。
神はエゼキエルという個人に問いかけているのではないのです。
つまり、神はこの問いを、私たちにも問うておられるのです。
私たちだったら、どう答えるでしょうか。
この時、エゼキエルは答えました。
「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
常識で考えれば不可能です。
しかし、エゼキエルは、その答えを神にゆだねました。
「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。
この答えは、枯れた骨が生き返ると確信している答えではありません。
しかし、不可能だと断定しているのでもありません。
エゼキエルは、神の答えを待っています。
神の働きを待っています。
エゼキエルは、自分の常識に従って考えるのを止めたんです。
私たちは、同じようにすることができるでしょうか。
神の問いは、エゼキエルだけに向けられたものではありません。
人間皆に向けられたものです。
その問いに対して、私たちは、自分の常識は横に置いて、神の答えを待つということができるでしょうか。
そのエゼキエルに、またしても考えもしなかったであろうようなことが言われます。
それが4節から6節ですが、神はエゼキエルに、枯れた骨に向かって預言するように言うんですね。
預言というのは神の言葉を伝えることです。
私たちはいろいろな場面で神の言葉を伝えているということがあります。
ストレートに神の言葉を伝える、ということもあるでしょうし、自分でも気が付いていないけれども、神の側に立って、実は神の言葉を語っていた、ということもあるでしょう。
ただ、私たちが神の言葉を語るのは、普通は生きた人に対してです。
ここでは、枯れた骨に対して神の言葉を語れと言われているのです。
それは、私たちの常識に従って考えますならば、全く無意味なことです。
こんな空しいことはありません。
しかし、エゼキエルがその通りにした時、そこに、神の言葉の通りの出来事が起こっていったんですね。
無意味にしか思えない、空しいこと、常識的に考えたら、全く無駄なこと。
けれども、そこで、自分の考えを捨てて、自分を捨てて、神の御言葉に従った。
そこに、その神の御言葉が実現していく。
幻の中での出来事ではありますが、夢にも見ないような、考えられないような出来事。
そのような幻を神がエゼキエルに見せておられるんですね。
ただ、8節までのところでは、肉体は元通りになったんですが、まだ命はそこに宿っていませんでした。
そこで、神は再びエゼキエルに預言するように言います。
そうすると、霊が肉体の中に入って、それによって生き返ったんですね。
これは創世記の最初のところで人間が作られた時のことを記している記事が思い出されますね。
最初に作られた人も、神が命の息を吹き込んで、初めて生きるものとなったんでした。
創世記では命の息を吹き込んだ、となっていましたが、命の息という時の「息」という言葉は、「霊」という言葉と同じ言葉です。
とにかく、神によって命を吹き込まれて、人は生きるものになるんですね。
命は、私たちの中にもともとあるものではないということです。
もともと、私たちの中には命はなかったんです。
肉体ができて、そこに命が後から自然にわき上がってきたのでもありません。
創世記を見ると、命ということについて、人間は他の動物と違うんですね。
聖書を読んだことのある人もない人も、人間というのは他の動物とは違う、人間の命は格別に尊いと感じていますが、それに対する聖書の答えは、私たちの命は、神が直々に吹き入れてくださったものなんだということなんですね。
逆に言って、神がそうしてくださることなしには、私たちには命はないんです。
私たちの存在は、神が命を吹き入れてくれた限りでのものなんです。
私たちは、神によって生かされている。
他の動物とは違う、格別のものとして。
そう考えますなら、骨が生き返るかどうか、というのは何も最初から不可能な話ではないですね。
エゼキエルの答えは正しいです。
御心ならば、ということになりますね。
御心ならば全く可能なんです。
いやむしろ、当然のことなんです。
当然というか、当たり前のことなんです。
全く絶望していたイスラエルの人々が生き返りました。
すると、どうなるでしょうか。
10節ですが、「自分の足で立った」と言われていますね。
生き返ったんだとしたら当たり前のようなことですね。
わざわざ書かなくてもいいようなことが言われています。
それをわざわざ書いているのは、これは、自立して生きるようになったということでしょうか。
神によって生かされるものであるけれども、人は自立して生きるものであるということでしょうか。
とにかく、人は神の操り人形なんかではなく、力ある者なんだということでしょう。
そして、その人が「非常に大きな集団」になっていきます。
人は集団になるんですね。
自立した力ある者とは言っても、一人で生きていくのではないんですね。
人と良い関係を築いて、人とつながって、一緒に生きていく者なんですね。
逆に言って、それがない状態が枯れた骨の状態なんです。
自立できていないし、人とつながれない。
それが枯れた骨であると言われていたんです。
しかし、たとえ枯れた骨であったとしても、神は人を生かすんですね。
私たちが、人間の目に全く不可能な状況であったとしても、自分の常識を横に置いておいて、神の言葉の側に立つ時、それがどんなに愚かに見えても、そこに神の業、救いの業が起こっていくんですね。
神の言葉にはそれだけの力があるんです。
まったく無意味にしか見えなかったとしても、それは人間の常識に従った判断です。
もし私たちがエゼキエルのように神の側に立つなら、神の力は私たちの常識を超えていくんですね。
命が取り戻されていくんです。
死にすら打ち勝つ力なんです。
その希望に生きるようにと、神は私たちを招いています。
この希望によって、私たちも、私たちの中の枯れた骨を復活させていただきましょう。
私たちの中にも、枯れた骨があることでしょう。
しかし、今私たちは、神の言葉を聞いています。
ありえないような言葉を聞いています。
ただ、これが神の言葉なんです。
今一度命の息を吹き入れていただいて、神の前にしっかりと立ち、非常に大きな集団になるようにしていただきたいと願います。