2023年04月23日「父と子」

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聖句のアイコン聖書の言葉

19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 5章19節~40節

原稿のアイコンメッセージ

イエスの長い話。
「彼ら」に向かって話をした。
「彼ら」というのはユダヤ人たち。
それも、イエスを殺そうと考えているユダヤ人たち。
どうして、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしたのか。
イエスは神のことを「父」と呼んだ。
父が神なら、子であるイエスも神。
父は神だが子は神ではないということはない。
イエスは神。
そうイエスは宣言した。
しかし、ユダヤ教では、すべてのものを造られた神だけが神で、神以外はすべて造られたもの。
創造主と被造物の違いは一番はっきりした違い。
ユダヤ人たちはイエスのことを当然、人間だと思っていたので、人間が自分のことを神であると言うことは、全く受け入れられない。
これは、ユダヤ教の掟を何か一つ破るというようなこととは次元が違う問題。
死刑にするしかないこと。

そう考えているユダヤ人に対して、イエスは、まっすぐに答えていく。
今日のところにで、イエスは3回、「はっきり言っておく」と繰り返した。
この「はっきり言っておく」は、直訳すると、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」という言葉。
この言葉は、イエスが大切な話をする時に言う言葉。
「アーメン」は「真実に」という言葉だが、聖書が読まれた後に、聞いていた人たちは「アーメン」と言った。
神の言葉にまっすぐな心で向き合っている。
また、祈った後にも「アーメン」と言った。
私は神に対して真剣に祈ったということ。
ここでは、神であるイエスが、人に対して2回も「アーメン」と繰り返して、話をしてくださる。
それも、その「はっきり言っておく」という言葉を3回も繰り返している。
今日の話は非常に大事な話。

ただ、今日の話は、どうしてこういう話をしているのかとも思う。
ユダヤ人たちは、イエスが自分のことを神だと言ったことに腹を立てた。
だったら、自分が本当に神であることを示すのが良いのではないか。
しかしイエスはここで、自分が神であることを証明しようとしているのではない。
イエスが話をするのは、神とイエスの関係について。
そして、その話の中で、どのようにして人間が救われるのかということが語られる。
何ともすごいこと。
話を聞いている相手は、イエスを殺したいと思っている。
けれどもイエスの方では、どこまでも真剣に、目の前にいる人を救いたいと思っている。
イエスがどのような方であるのかがはっきり現れているような場面。

そして、今日の話は、ユダヤ人にとっては聞いたことのない話。
神と言うと創造主である方しかおられないというのがユダヤ教。
だから、ユダヤ人は、父なる神と子なる神の関係について考えたこともない。
そのユダヤ人に対して、父と子の関係が示されていく。
最初のところで、子は父のなさった通りにする、ということが言われる。
これは、父が子を完全に支配しているということではなく、20節に、「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示される」ということが言われていて、父が子を信頼していることが分かる。
その信頼があって、子は父のなさった通りにする。
子も父を信頼している。
父と子の関係は完全な信頼関係。

その中で、もっと大きな業が子に示されると言われている。
そうすると、ユダヤ人たちも驚く。
それは、21節「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」。
ユダヤ人たちはこの世の終わりの日には、死んでいた人たちも復活させられて、御心に適う人には永遠の命が与えられるということを聖書を通して信じていた。
もちろん、そんな業は人間にはできない。
しかし、イエスにはそうすることができる。
イエスは死者を生き返らせたことが一度ならずあった。

ただ、救い主は裁き主でもある。
イエスは神から裁きについて任されているというのが22節。
その裁きの権能は、27節によると、父から与えられたもの。
ただ、イエスと神は信頼関係にあり、自由に勝手なことをするわけではないので、最後の30節で、自分は自分の意思を行うのではなく、神の御心を行う、ということが言われる。

ではどうして、裁きについては任されているという言い方になるのか。
別に任されているという話はしないで、自分の意思ではなく神の御心だということだけでいいはず。
これは、裁きが何によって行われるのか、ということと関係がある。
23節からのところを見ると、裁きは、神を敬うか敬わないかということで起こってくる。
そして、神を敬うというのは、子を敬うということ。
結局のところ、裁きは、イエスを敬うかどうかで決まるので、イエスに任されているという言い方になる。
そして、それは神の側からすれば当然それで良い。
父が子を信頼して、人を救うため、人に永遠の命を与えるために子を地上に遣わした。
人間は限りある命しか生きることができていないという現実がある。
人には罪があるので、永遠の命にはふさわしくないから。
しかし、神は人に永遠の命を与えたい。
そのために、子は自ら苦しみを引き受けて十字架で死んで、その後に復活してくださった。
そのような現実を人に見させてくださった。
その上で、世の終わりまでいつも共にいると約束してくださった。
その後には神の国に入ることを約束してくださった。
そして、それはすべて、イエスが自由になさったことではなく、父が子に示されたこと。
だから、神の側からすると、当然、十字架と復活のイエスを敬わないということは、ご自分を敬わないこと。
だからここで、神を信じるという言い方ではなく、神を敬うという言い方になっている。
神を信じるということなら、神がいると思うだけでも信じたことになる。
花の一つを見ても、その素晴らしく完成された美しさに、神の存在を信じることはできるし、昔から多くの人がそうして神を信じてきた。
しかし、それは、人間の側での認識に過ぎない。
自分の気持ちだけのこと。
そうではなく、神が、具体的に、現実に、私たちをどれほど愛してくださっていて、私たちのために何をしてくださったか。
神は人に永遠の命を与えようとしてくださっている。
それは花を見ていても分からない。
私たちは、自分に永遠の命を与えようとしてくださっている神を知り、その神を敬うべき。

24節によると、その裁きは、裁判というより、自然に起こってくる。
イエスの言葉を聞いて、神がこの方を遣わしたと信じることができるかどうか。
それを信じるなら、実はその時、その人は、死から命に移されている。
私たちが限りある命を生きている、その命の残りが毎日減って行っている、結局のところ、死に支配されているところから、永遠の命に移される。
丸ごと、移される。
死か命かはあっちへ行ったりこっちに来たりのシーソーゲームではない。
丸ごと移される。
そして、25節では、そのことが今起こっていると言われる。
イエスはご自分を殺そうとする者に救いを語った。
そして、ここでは、その人たちのことが、「死んだ者」と言われている。
まだ生きている。
しかし、限りある命を生きていて、その命が一日一日減って行っている。
それが増えることはない。
そればかりか、永遠の命が差し出されているのに、それを受取ろうともしない。
まさに、死に向かっている。
永遠の命に比べると、それは何と貧しいものだろうか。
神の目にはそう映っている。

しかし、そのような人にも神の子の声が聞かされている。
そして、その声を聞いた者は生きる。
父が永遠の命を持っておられるように、子も、永遠の命を持っている。
それは、子が、永遠の命を人に与えるため。
そして、永遠の命は与えてもなくならない。
物を与えると、自分の手元には無くなってしまうし、もうそれ以上、他の誰かに与えることもできないが、永遠の命は、人が死に向かっているところから、永遠なる神の側に移されること。
だからなくならないし、そのために父は子を人のところに送ってくださった。

そして、それは今生きている者だけのことではない。
27節に「人の子」という言葉があるが、これは、世の終わりにやってきて、裁きを行う者のこと。
それがイエス。
その時には、死んでいた者も復活させられて、善を行ったか悪を行ったかで、裁きが決まる。
この場合、善というのは、人の子の声を聞いて、父と子を敬うということ。
悪というのは、父と子を敬わないということ。
人を救いたいという父の切なる願いがあって、そのために、子を遣わした、子が私たちのために十字架で苦しんで死ぬことまで良しとしてくださったわけなので、神の側からすると、そのご自分を敬うというのは良いこと、正しいことで、そのご自分を敬わないというのは間違ったこと、悪いことになる。

こういうことなので、今日の話は非常にシリアスな話だけれども、私たちには大丈夫だという話でもある。
ここで言う意味の御心に適わない悪人だというのなら、そもそも、教会には来ない。
礼拝のライブ中継を見たりもしない。
しかし、私たちの隣人たちはどうだろうか。
本屋さんに行くと、世界の偉人シリーズが並んでいて、その中に、イエス・キリストの伝記もある。
偉人とは何か。
自分の力で大きなことを成し遂げた人。
イエスは偉人なのか。
イエスはなにも成し遂げなかったとも言える。
人に教えても、受け入れられないことの方が多かった。
挙句の果てに処刑されてしまった。
処刑された時には、弟子たちは逃げ出していた。
これで偉人だと言えるだろうか。

それだけではなく、今日の話。
イエスはご自分を神と重ね合わせて、その上で、自分を敬うなら救われると教えていた。
一歩間違えると新興宗教の教祖のような話。
偉人というのはそのようなことは言わない。
偉人というのは、人間に分かることを人間に分かる仕方で、誰の目にも明らかに成し遂げた人のこと。
今日の話のような、誰も知らなかったような話で、理解に苦しむような話はしない。
その意味でも、イエスは偉人ではない。
現代では多くの人がイエスを信じているから、イエスは偉人だとするのは、今日の言葉で言うと、実はイエスも神も敬わないことではないか。

まして、イエスはご自分を殺そうとする者に対して、火に油を注ぐような話をした。
それでも、人を救いたいという思いが、イエスに今日の話をさせた。
そして、前もって知っておられた十字架という結末を受け入れて、自らそこに向かっていった。
偉人などというものではない。
人は誰も、このように語り、このように生きることはできない。
その意味で、今日の話は、イエスが神の子である証し。
この福音書の1章18節にこのような言葉がある。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。
私たちは、今その現場にいる。

もし、まだ信仰を与えられていない人が今日のイエスの言葉を聞いたとしたら、どう思うだろうか。
信じようと思うかもしれないし、もうこのような話を聞きたくないと思うかもしれない。
結局それが、今日のイエスの言葉で言うところの裁きということ。
裁きは自然に起こってくる。
ただ、私たちは、イエスから神を示された者として、神とイエスを敬って、命の中を喜んで生きていきたい。
それが御心。
今日の最後の30節に、「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」とある。
この「御心を行おう」というのは、「喜びを行おう」という言葉。
救われた私たちの喜びが、神の喜び。

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