2025年05月13日「腹を立ててはいけない理由」

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腹を立ててはいけない理由

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章21節~26節

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聖句のアイコン聖書の言葉

21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章21節~26節

原稿のアイコンメッセージ

「ばか」というだけでダメだ、と言われています。
しかし、そうなると困りますね。
私たちの中で、今まで一度もこの言葉をつかったことのない人はいるでしょうか。
まあ、ある程度大人になりますと、相手に対して、直接言う人は少ないかもしれません。
でも、ある程度大人になると、今度は他の人にグチとして言うということが始まりますね。
私の知人がこういうことを言ったことがありました。
「自分の部下はバカだ」。
うーん、という感じですね。
そこでこちらが「そんなことを言ったら地獄行きだぞ」と言うとそこで話が終わってしまいますので、では上司はどうかと聞いてみますと、「上司もバカだ」と言うんですね。
直接本人には言わずに、別に言っても構わない相手に言うんですね。
しかし、この人の言っていることはどうでしょうか。
私はある時、こういう話を聞いたことがあります。
「部下が自分よりバカなのは当たり前だ。もしその部下が、自分と同じくらいの知識があって、自分と同じように判断して行動できるんだったら、その人は自分の部下ではなく、自分と同列なんだ。自分の部下であるということは、まだその人が自分と同じようにはできないということだから、分かっていないことがあるというのは当然のことだ」。
なるほど、という感じですね。
確かにそうでしょう。
部下だということは自分よりまだ下にいるということなんですから、できないことがあっても仕方ありません。
そう考えますと、上司についても、考えを改めなければならないと思うんですね。
部下であるその人は、自分の知っている限りで考えているわけですよね。
これは人間誰でもそうですが、私たちは、自分が知っている限りでしか考えることができません。
そして、自分の知識に基づいて判断するんだったら、上司が自分と違っているということはあるだろうと思うんです。
自分は、より少ない知識で考えている。
でも、上司は、その人以上の知識で判断しているんです。
それが、上司であるということですよね。
でしたら、上司と自分で考えが違っていたら、それは自分の方がまだまだ考えが浅いということですね。
あるいは、もしかしたらその上司は、本当は別のやり方をしたいけれども、そうしたくてもできない理由がどこかにあるかもしれないですよね。
上司にも上司がいるし、部下は一人ではないんですから。
そうなってくるともう分かりません。
上司がどれくらいのことを考えているのかなんて、部下には分からない。
それが上司が上司であるということです。
とにかく、自分の知識にだけ基づいて判断するというのが間違っているんですね。
そして、人間の知識には、限界があります。
どんな人にも限界があります。
だからそこで、自分中心に考えていてはいけないんです。
要するに問題は、自分中心ということですね。
自分中心になればなるほど、周りの人がどんどんバカに見えていきます。
その自分中心ということが聖書で言うところの罪ということですね。
だいたい、今日の個所でこんなことが取り扱われていること自体、イエス様が、人間は自分中心で、だから、人に対して腹を立てるものだと思っておられる、と言うことですよね。
気を付けたいと思います。

ただ、今日のこの「ばか」と言ってはならないという話がどこから来たのかと言いますと、今日の最初の「殺すな」という言葉から来たんでした。
この「殺すな」という言葉は旧約聖書に書かれている言葉なんですね。
私たちは「殺すな」と言われますと、まあそれは大丈夫だと思うわけです。
実際、これに違反する人は割合からすると少ないですね。
大体の人はこの言葉を守っています。
けれどもここでイエス様は、「殺すな」という言葉にある神の御心は何かということを言っているんです。
今日の場面の直前の場面の17節で、イエス様は、ご自分は律法を完成するために来たと言っています。
律法というのは旧約聖書のことです。
イエス様は旧約聖書を完成するんです。
つまり、「殺すな」という旧約聖書の言葉は、その言葉を守れていればセーフ、守れなかったらアウト、というだけのことではないんですね。
私たちが普通に「何々するな」と聞きますとそれくらいにしか考えませんが、それだけでいいというものではないんですね。
イエス様はそこにある神様の御心を深く考えていくわけです。
それが完成への第一歩だということですね。

では、「殺すな」という言葉で、神様は何を伝えようとしておられるのでしょうか。
イエス様は言うんですね。
人に対して腹を立てるだけでダメだと。
御心に適っていないんだと。
かなり厳しいですね。
どうしてここまで言うのかなあと思いますが、人に対して腹を立てて、その怒りが大きくなって、最後の最後には人を殺すことになるわけですね。
だとしたら、殺さなかったらセーフではない。
腹を立てるというのは、実は、殺すということの第一歩なんです。
だから、イエス様は腹を立てるだけでダメだと言うんですね。
殺さなかったらセーフではないんです。
腹を立てるだけで、それはもう神の御心に適わないことなんだということですね。

それにしても、続けて言われていることは厳しいことですね。
「ばか」と言うと、最高法院に引き渡されるんですね。
最高法院というのは最高裁判所です。
つまり、「ばか」と言うだけで、神の目には最大級の罪だということですね。
「愚か者」という言葉も出てきていますけれども、これは、神との関係において愚かだという意味の言葉でして、つまりこれは、神に背いているということです。
要するに、お前は罪深いぞ、と人に対して言うということ。
そう言うと、言った人自身が火の地獄に投げ込まれるんですね。
それだけの罪なんだ、ということです。
つまり、イエス様にとって、腹を立てることと人を殺すことは同じようなものなんですね。
私たちにとっては、人を殺してやりたいと思うことと、実際に人を殺すこととの間にはものすごい距離があるように思いますけれども、神の目には同じことなんです。
しかし、そう言われると困ってしまいますよね。
神の目には同じだと言われたら、それはそうかなとは思いますけれども、私たち自身が同じレベルにならなければならないとしたら、どうでしょう、なれるかなあという感じですね。

ただ、そういうふうに考える必要はないんですね。
最高法院に引き渡されるとか火の地獄に投げ込まれるとか聞いたら怖いですけれども、イエス様は、私たちの罪を背負って私たちの代わりに罰を受けてくださる方なんですね。
ですから、同じレベルにならなければと考える必要はないんです。
逆に言って、私たちが同じレベルになれないから、イエス様が私たちの罪を引き受けに来てくださったんです。

しかし、23節からのところは、どうでしょうか。
話がいきなり、もっと難しくなっていますね。
今までのところでは、腹を立てるなということでした。
自分が相手に腹を立てるなということですね。
でも、23節からは、相手に腹を立てられた場合のことなんです。
相手に腹を立てられた時、自分から仲直りしなさい、自分から和解しなさいと言われています。
イエス様は、とにかく、どんな理由であれ、人間が腹を立てているのは良くないとお考えなんですね。
だから、まずあなたは人に対して腹を立ててはならない、と言っておいて、それだけではなくて、誰かに腹を立てられたら、自分から、その人がもう怒らなくなるように働きかけなさいと言うんです。
自分が腹を立てなければそれでいいということではないんですね。
人との関係がいつも良いものであるように努めなさいと言われているんです。

そうなってくるとなおさら大変だということになりますけれども、考えてみると、イエス様が私たちにしてくださったこととは何だったでしょうか。
私たちの罪を代わりに背負って、私たちの代わりに罰を受けてくださった。
それによって、私たちと神様との関係が良いものになったんですね。
私たちは罪人です。
自分中心で、神に逆らう者です。
その私たちに、神の怒りが向けられることになります。
けれども、イエス様は、ご自分からこの世に降りてきてくださって、人の罪を背負って、神の怒りを私たちの代わりに受けてくださったんですね。
ですから、私たちはもう、神の怒りを受けることはないわけです。
そうなるように、神様は神の子を地上に送ってくださったんです。
だから、私たちも、私たちを愛して、救いの道を開いてくださった神様を愛するんです。
これが和解ということですよね。
私たちは、神様に和解していただいた者なのです。
神に逆らう私たちのために、神は、ご自分の方から、和解してくださったんですね。
だからこそ私たちも、和解ということを大事にしていくんですね。
和解に生かされている者として、和解を生きていくんです。
「殺すな」という言葉にある神の御心はそれだと、イエス様は言うんですね。
殺さない、悪口を言わないだけではなくて、もっと積極的に、良い関係を生きていくこと。
それが神様の願っておられることなんだということですね。
和解のために命を投げ出してくださった方が、そう言っておられるんです。

考えてみますと、旧約聖書の言葉には、「何々してはならない」という言葉が多いんですけれども、それは、それをしなければ大丈夫ということではないですね。
「何々してはならない」という言い方は、最初に神の言葉が人に与えられた時のもので、神様としては、最初だからそういう言い方をしたけれども、最初から、神様の御心は、それと反対のことを積極的にやっていって欲しいということだったんだよ、とイエス様は言っているんですね。
律法を完成する、旧約聖書を完成する、というのはそういうことなんですね。

続けて、23節、24節を見ますと、これは、自分に反感を持っている人と一緒に礼拝しようとする場面ですね。
そういう時にも、仲直りしなさいと言われています。
それも、礼拝に行く途中で仲直りしなさいと言われています。
つまり、礼拝よりも先に、仲直りしなさいということですね。
礼拝よりも仲直りの方が優先なんですね。
礼拝というのは神様と向かい合うことです。
私と和解してくださった神様と向かい合うことです。
神に逆らう私たちに対して、神様は、ご自分から和解してくださったんでした。
だからこそ、その前に、礼拝よりも先に、和解することが正しいんだ、とイエス様は言うんですね。
腹を立てている相手に、自分から和解しに行きなさい、と言うんです。
その後で、礼拝なんですね。
人間同士の間で和解できるかどうかが、神様との関係に関わっているんです。
神は和解の神ですから。
だから、先に和解しなければならないんです。

25節に行きますと、反感どころか、自分を訴える人と一緒に道を行かなくてはならない場面です。
しかし、やはり和解しなさいと言われています。
これも、途中でですね。
裁かれる前にです。
どちらの場合も、腹を立てているのは相手なんですよ。
でも、自分から和解しなさいと言われているんです。
そして、これは怖いことですね。
相手が腹を立てていて、自分が腹を立てているわけではないんですが、和解できなかった場合、裁かれるのは自分の方だという設定になっているんですね。
それくらい、イエス様は今もう本当に力を込めて、あなたは和解を生きなさいと言っているんです。
和解の中にだけ、生きていきなさい。
神様とあなたとの関係は、和解でしかない。
だから、あなたと人との関係も、和解しかないんだ。
そういうふうに言われているということは、逆に言って、私たちの間にあるものが、反感、訴え、それが普通、ということをイエス様は言っておられることにもなりますね。
考えてみると、そうですよね。
私たちの人生というのは、現実問題、自分に反感を持つ人、自分を訴えようとする人と、それでも一緒にやっていかなくてはならない、そういうものですよね。
それはそれで仕方ないかもしれません。
イエス様もそういう前提で話をしておられます。
人間の現実というか、世の中の現実というか。
でも、その中でも、あなたは和解を生きていきなさい。
あなたは現に、神の和解に生かされているんだから、あなたは和解を生きていきなさい、とイエス様は言うんですね。

大事なのは、私たちが、イエス様の命と引き換えにゆるされたこと、和解させていただいたということを心に刻むことです。
それは、私たちは、神の子の命をもってしかゆるされないほどに罪深いということです。
私たちは、神の目には、もうどうしようもないほど、罪深い者なんです。
しかし、その私たちを救うために、神が人になられ、命を投げ出してくださった。
ご自分から。
私たちは罪深くて、もう本当にどうしようもない。
それなのに、ご自分の方から、誰からもお願いされてもいないのに、和解のために命を投げ出してくださった。
自分が代わりに人の罪を背負って、命を落としたんです。
そのイエス様の苦しみを心に刻むことですね。
私が神に与えた苦しみです。
そして、感謝することです。
そこまでしても構わないというほど、神がこの私を愛しておられる。

私たちの人生というのは、自分に反感を持つ人と、それでも一緒にやっていかなくてはならないようなものです。
楽なことではありません。
しかし、神の子が私たちのために苦しんでくださったこと、そして、和解させていただいたことへの感謝が心にあるなら、どんなことでもそれに比べれば小さいことのはずです。
私たちは、大きな大きな御心の中に、ゆるされて、生かされているんです。
その神のゆるしの中を生きていきましょう。

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