2025年02月16日「わたしが去るのはあなたがたのため」

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わたしが去るのはあなたがたのため

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 16章4節~15節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。5今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。6むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。7しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。8その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。9罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、11また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 16章4節~15節

原稿のアイコンメッセージ

今になって、イエスは大事な話をしているということですね。
初めから言わなかったことを、今になって話しています。
確かに、今までにも十字架と復活の予告はありましたが、それはイエスご自身のことであって、イエスがいなくなってからの、弟子たちについての話をここまで詳しく話したことはなかったわけです。
イエスがいなくなるという話を聞くと、弟子たちは悲しむに決まっていますから、今まではそういう話をしないようにしていたんですね。
でも今はもう最後の夜ですから、これからの弟子たちのために、話をした。

こういう話を聞いて、弟子たちは悲しんでいます。
弟子たちは誰も、「どこへ行くのか」と尋ねない、とイエスが言っておられますが、ごく簡単なことも聞けないくらい、悲しんでいるわけです。
イエスがどこへ行くにしても、弟子たちの前からはいなくなる訳です。
弟子たちはそのことで頭が一杯です。
だから、「どこへ行くのか」という質問は出てきません。

ただここで、イエスは、「あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない」と言いました。
そして、ここから、どこへ行くのかを説明してくださいます。
ということは、「どこへ行くのか」と聞くべきだったわけです。
イエスが身近におられる気がしない、ということは私たちにもあり得ます。
祈っても祈りが聞かれない、ということもあることです。
そのために悲しみに満たされるということも、私たちにもあることです。
けれどもその時、今どこにおられますか、これを聞いていいわけです。
イエスは、説明してくださるのです。
そして、その説明は、悲しまなくて良いということを弟子たちに教えてくださるお話なんだというのが今日の話です。

イエスが父なる神の元に行くのは、弟子たちにとって、実は喜ぶべきことだというんですね。
イエスは、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」と約束してくださいました。
イエスはいなくなりますが、代わりに、弁護者が来てくださる。
これは13節で、「真理の霊」と言われていますが、聖霊、神の霊のことですね。
そして、その聖霊のことが、「弁護者」と表現されています。
この弁護者という言葉は、直訳しますと「そばに呼ばれた者」という言葉です。
この言葉はそのまま、法律家としての弁護士を指す言葉でもありました。
この場合は、神の法を執行する者、ということになるでしょうか。
ものすごい権威がある訳です。
ですから、イエスが直接、父なる神の元に行って、お願いしなければならないんでしょうね。
聖霊がいらしてくださるというのは、それくらいのことであるわけです。
だからこそそれは、弟子たちにとって喜ぶべきことなんですね。

もし、イエスが地上にずっと留まっておられたら、私たちはイエスをこの目で見ることができたかもしれません。
しかし、その場合には、それこそ、イエスは今はどこにおられるのだろうか、ということになります。
今度日本に来てくださるのはいつだろうか、日本に来たとして、仙台には来てくださるのだろうか、ということになります。
ということは、一生に一度、イエスをその目で見ることができたら幸いだ、ということになるでしょう。
けれども、聖霊はずっと私たちと一緒にいてくださる訳です。
だからこそ、聖霊がいらしてくださることこそ、喜ぶべきことなのです。

ではその聖霊がどのような働きをしてくださるのかというと、それが8節ですね。
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。
まさに、法律家のような働きをするわけです。
聖霊を弁護者と表現するのは旧約聖書には無かったことですが、イエスは法律家としての働きをする聖霊を送ってくださるのです。

聖霊は、「世の誤りを明らかにする」という働きをします。
では、どのような誤りが世にあるのかと言いますと、まず、罪についてですが、9節ですね。
「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」、この誤りを明らかにする。
これは、イエスが神から遣わされた救い主であると信じない、ということですね。
確かに、世は信じませんでした。
だから、イエスを十字架に付けたわけです。
そして後に、弟子たちに降った聖霊が、その誤りを明らかにしました。
聖霊が降ったその時、弟子のペトロはその場にいた沢山の人たちに説教をしました。
その説教を聞いて、その場にいた人たちは、自分がイエスを十字架に付けたことを悔い改めて、洗礼を受けたんですね。
これは大変なことだと思います。
何しろ、そのことが起こったのは、イエスが十字架に付けられてから、まだ50日しかたっていなかった時です。
50日前にイエスを十字架に付けろと叫んでいた人たちが、たった一度、説教を聞いただけで考えを変えるでしょうか。
ペトロはイエスが復活したことを話しましたが、その人たちは復活のイエスを見たわけではないでしょう。
自分が見たわけでもないのに、死んだ人が復活したという話を信じることができるでしょうか。
それを、信じることができるようにしてくださる。
それが聖霊の働きなんですね。

世の誤りはまだあります。
聖霊はそれも正します。
二つ目は義について、です。
10節にこうあります。
「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」、これを、世は認めないわけです。
イエスが父のもとに行くことを認めない。
義というのは神の前での正しさを意味する言葉ですが、この世はイエスを殺すことが義だと考えていました。
ですから、イエスが天の父のもとに引き上げられるなんていうことは認めないんですね。
この世にとっては、イエスは神にふさわしくないわけです。
けれども、それが誤りであることが、聖霊が弟子たちに降ることによって明らかになるということですね。
これも、ペトロの説教の場面で実現したことと言えます。

最後に、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」とあります。
「この世の支配者」という言葉は人間の政治家のことではなく、サタンのことを指しています。
十字架との関連で言いますと、ユダがイエスを裏切るつもりになったのは、サタンが裏にいたからだ、ということが13章に書かれていました。
裏で糸を引いて、悪いことを行わせる者がいる、そのような者が、そのような仕方で、この世を支配しているということですね。
ただここでは、「この世の支配者が断罪される」と言われています。
この世の支配者は目に見えませんから、罪に定められたかどうかは分かりません。
しかし、聖霊を受けた弟子たちの話を聞いて、イエスが救い主であり、父なる神の元に上ったということを理解できるようになった人なら、ではなぜ、ずっとイエスに従っていた弟子にイエスは裏切られたのか、そうなるには、裏で糸を引いていた者がいるはずだ、と考えることができるでしょう。
言ってみればそれが、「この世の支配者を断罪する」、サタンを罪に定めることである訳です。

聖霊が弟子たちに降ることによって、弟子たちの周りにこのようなことが起こってきます。
逆に言って、聖霊が降るのは弟子に対してですから、弟子の周りでしかこのようなことは起こりません。
結局のところ、ここでの話は、弟子たちの周りで、悔い改めてイエスを信じる者が増えるということなのですが、それは、弟子たちがイエスを証しする限りでのことです。
弟子たちが語る限りで、世の誤りが明らかにされるのです。

これは、私たちよりもこの時代の弟子たちの方が機会が多かったことではないかと思います。
弟子たちの時代には、自分がイエスを信じていると言うと、大変なことになりました。
それこそ、聖霊が弁護してくれない限りどうにもならないような状況があったわけです。
だからこそ、聖霊のことが「弁護者」と呼ばれています。
しかし、私たちは、信仰を言い表したとしても、誰かに弁護してもらわなければならないようなことにはならないでしょう。
ただそれは、今の時代に、罪について、義について、裁きについて、世の誤りが無くなったわけではありません。
この世はイエスを救い主とは信じませんし、イエスが神の元に行ったということについては反対されないかもしれませんが、「この世の支配者」については考えもしない、というのが普通でしょう。
そのような人たちの考えを変えさせるのは不可能です。
しかし、だからこそ、イエスは、聖霊を送ると言ってくださったのです。
もし、私たちの力でできるのなら、聖霊を送る必要はありません。
私たちには最初からできないのです。
だからこそ、イエスは、父の元に行ってまで、聖霊を送ってくださるのです。

イエスは続けて言います。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」。
弟子たちは、これからイエスが逮捕されることも知りません。
けれども、聖霊が理解させてくださる日が来ます。
続けてこう言われています。
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。
真理というのは神について使われる言葉ですから、本来、人には理解し尽くすことのできないものですが、聖霊が導いて悟らせてくださる。

それはどのようにしてかというと、「その方は、自分から語るのではなく、神から聞いたことを語る」ということですね。
そして、「これから起こること」、つまり十字架の意味を弟子たちに教えるということです。
十字架は人の罪を背負ってイエスが代わりに罰を受けることだったというのは、聖霊によらなければ理解できることではありません。
それを聖霊が理解させてくださるんですね。
ということは、聖霊が語るということは、私たちの理解に働きかけてくださることでもあると言えるでしょうか。
聖霊はイエスに栄光を与えるとも言われています。
イエスの御心の通りに語るからです。
聖霊とイエスはその意味で一つです。
そして、イエスと神とは一つであることが最後に言われています。
ということは、結局、イエスと神と聖霊は一つであるわけです。
だから、聖霊が共にいる私たちには、本来あり得ないようなことが起こってくる、ということですね。
世の誤りが明らかにされ、悔い改める人が起こされていくということも、だからこそ起こってくるんです。

ただ、そこで大事なことは、世の誤りが明らかにされる時、私たちは、正義を振りかざして、世の罪を裁くということでもないということですね。
イエスは、その人たちを断罪しろとは言わなかったんです。
むしろ、イエスは、人の罪が赦されるために、自ら十字架にかかってくださったんです。
世の誤りが明らかになる時、私たちは何をするべきか。
赦すことです。
まさに今日の話の実例が、使徒言行録にいくつも出てきます。
聖霊が働いて、その人の罪が明らかになり、その人がそれを認めた時、どうするのか。
裁くのではないんです。
仕返しをするのでもないんです。
賠償を求めるのでもないんです。
赦すんです。
弟子たちはそうしました。
しかし、それは簡単なことではありません。
この世は、敵を憎むことが正義であると教えているからです。
そして、私たちもこの世に置かれているからです。
けれども、イエスは私たちに聖霊を送ってくださいました。
聖霊は世の誤りを明らかにしてくださいますが、私たちが赦せないというのも、神の目には、世の誤りです。
私たちにも、世の誤りはあります。
しかし、聖霊は、その私たちの誤りを正してくださいます。

コーリー・テン・ブームという人がいます。
この人はオランダ人ですが、第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスから助ける働きをしました。
けれども、そういうことをしていると通報されてしまい、コーリーとその家族はナチスの収容所に入れられます。
コーリーは生きて終戦を迎えることができましたが、他の家族は生き残ることができませんでした。
戦後2年経ったある日、ドイツのミュンヘンで、コーリーは神の赦しをテーマに講演をしました。
礼拝後、一人の人が自分の方にやってくるのをコーリーは見ました。
その男は、コーリーがいた収容所の兵士でした。
収容所での出来事が頭の中で次々に再生されました。
すぐそばにまで近づいた男は、コーリーの話をほめました。
そして、コーリーが話をした収容所に、自分は兵士として勤めていたと言うんです。
その男はコーリーのことを覚えていませんでした。
けれども、コーリーは覚えていました。
男のベルトに下げられた鞭まで覚えていました。
裸にされてその男の前を歩かされたことも覚えていました。
男は言いました。
「神が私を赦してくださったと信じています。でも、コーリーさん、私はあなた自身の口からもそれを聞きたいのです。私を赦してくれますか」。
そう言って男は手を差し出しました。
赦さなければいけない。
コーリーはそう思いました。
それはイエスの教えでもありますが、それだけではありません。
コーリーは戦争が終わってから、ナチスの残虐行為の被害者のための施設を運営していましたが、昔の敵を赦した人は体の傷は残っていても社会復帰できましたが、恨みを持ち続けた人はいつまでも社会に復帰できませんでした。
この両者の対比は、すさまじいほどに明らかでした。
コーリーは祈りました。
「イエスさま、助けてください。手を持ち上げるなら、私にもできるでしょう。でも気持ちの方は、あなたが補ってください」。
コーリーは男に向かって手を突き出しました。
その時、信じられないことが起こりました。
電流が肩から腕に走って、つながれた二人の手に流れました。
いやしの火が全身を駆け巡り、目に涙があふれました。
長い間、二人はお互いの手をしっかりと握り合いました。
その時のことを、コーリーはこう言っています。
それまで、それほどまで強烈に神の愛を体験したことはありませんでした。
ローマの信徒への手紙5章5節にあるように、それは聖霊の御力だったのです。
「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。

聖霊は、そこまでの働きをしてくださるんです。
世の誤りを明らかにして、後は丸投げということはないんです。
イエスの代わりに送られる聖霊です。
イエスが隣にいてくださることの代わりになる聖霊なんです。
そのような聖霊を、私たちは送っていただいているんです。
いや、それどころではないですね。
「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる」と言われているんです。
この方がいいということなんです。
だから、わたしたちにはできる。
聖霊が助けてくださるからです。

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