イエスは二日間、サマリア人の町に留まっていた。
そして、もともとの目的地であるガリラヤに行った。
ガリラヤに着くと、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。
この人たちは、エルサレムでの祭りに行っていたので、イエスがその時になさったことをすべて見ていた。
その内容は、この福音書の2章13節からのところに書かれている。
イエスは神殿で商売をしていた人たちを追い払った。
ただ、イエスのしたことはそれだけではない。
2章23節には、イエスがしるしをなさったと書かれている。
聖書でしるしと言うと、神のしるしということ。
つまり、奇跡。
イエスはエルサレムで奇跡を行っていた。
それを知っていたから、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。
自分たちにも奇跡を現わしてほしい。
それを見たい。
まして、その後、イエスはガリラヤのカナに行かれた。
そこはイエスが前に奇跡を行ったところだとわざわざここに書かれている。
そうなるともう、人々としては奇跡を見られるという期待が高まる。
もう、奇跡を見る前から大喜びだっただろう。
ただ、その中で、水を差すように、今日の44節ではこう言われている。
イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。
いえいえ、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎している。
今にも奇跡が見られるかもしれないと期待している。
それなのに、どうしてこんなことを書くのか。
その後で、ガリラヤのカナにいるイエスのところに、カファルナウムから王の役人がやってきた。
そうすると、イエスはこの人にも言った。
「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。
この人の息子は死にかかっているのに、どうしてこんな冷たいことを言うのか。
ただ、このイエスの言葉は、ガリラヤの人々がイエスを歓迎した理由。
しるしを見たから信じた。
しるしを見たから、歓迎した。
王の役人もその一人。
逆に言うと、しるしを見なかったら信じない。
ということは、この人たちは、しるしを見なかったら、期待外れだったということでいなくなってしまう。
イエスはただ、奇跡を行う人として期待されているだけ。
預言者として、神の言葉を伝える人としては何も期待されていない。
それが、「預言者は自分の故郷では敬われない」ということ。
この時、王の役人は、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われてしまった。
でも、この人としてはあきらめるわけにはいかない。
息子が死にかかっている。
この人は、カファルナウムからカナまで、30キロの道をやってきた。
簡単には引き下がれない。
役人は食い下がる。
「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」。
イエスは、その思いに応えてくださった。
この役人も、しるしを見たいだけだという点では他の人と同じ。
しかし、この人は本気でそれを求めた。
しるしを見れたらラッキーというくらいの気持ちではない。
「子供が死なないうちに」と言っている。
もう命が危ないんです。
助けてください。
本気で求めた。
イエスはそれに答えてくださる。
ただここで、イエスはこの父親の言う通りにしたわけではない。
父親は、「おいでください」と言った。
イエスは行かなかった。
イエスは言った。
「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。
父親はどうしたか。
イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
そうすると、帰り道で、息子が助かったことを知った。
息子が助かったのは、ちょうど、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われた時刻だった。
イエスはしるしを現わしてくださった。
イエスは、しるしを見たら信じるけれども、見なければ信じないという人たちを批判していた。
しかし、しるしを見させてくださった。
これは、父親の熱意に負けて妥協したということではない。
この父親は、しるしを見たから信じたのではない。
イエスの言葉を信じて、イエスの言葉に従った。
そこに、イエスの言葉が実現した。
これは、単に病気が治った、奇跡が起こったということではない。
この父親は、まだ何も見ていないのに、イエスの言葉を信じて従うように促されて、イエスの言葉を信じて従った。
この人は、しるしを見たら信じる、見なければ信じないという、信仰のようでいて信仰とは言えない、自分を喜ばせてくれるものを求めるという自分中心のところから導き出されて、イエスの言葉を神の言葉として信じて従うところに移された。
更に言うと、しるしを見たら信じる、見なければ信じないという他の人たちは、今日の奇跡を見ていない。
イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言った。
でも、他の人たちは、その結果どうなったかは知らない。
信じて従う、本当の信仰を与えられた人だけが、しるしを見た。
信じて従う時に、しるしが与えられる。
だから、「彼もその家族もこぞって信じた」ということになっていく。
病気が治ったのでそれで良かったね、というだけではない。
本当の信仰が与えられ、この父親が証しして、信仰が家族にも広がっていく。
私たちも皆、イエスからチャレンジを受けている。
見ないで信じることができるか。
出来るような気もする。
出来ないような気もする。
考えてみると、それが出来なくて、じたばたしていることも多いような気がする。
この、見ないで信じるということは、人間だけができることだそう。
何年か前に日本語でも出版されて、ベストセラーになった本に、『サピエンス全史』という本がある。
ユヴァク・ノア・ハラリというユダヤ人の歴史学者が書いた本。
その本の中で、現在、人間というのは一種類しかいないということが指摘される。
しかし、実は、今に至るまでに、20種類くらいの人類がいた。
でも、私たち以外の人類は、すべて滅んでしまった。
どうして私たちだけが勝ち残り、生き残ったのか。
頭がいいからではない。
脳の大きさだったら、私たちよりもネアンデルタール人の方が大きい。
力も、ネアンデルタール人の方が強い。
というより、私たちは力が弱い。
筋肉を弱くする遺伝子が私たちには働いている。
それなのに、どうして私たちだけが生き残ったのか。
そのカギが、見ないで信じるということ。
私たち以外の人類は、見たものしか信じることができなかった。
そうするとどうなるか。
共同体の大きさが、最大でも150人くらいに限られてしまう。
見たことがない人の存在を信じることができないから。
私たちの共同体はどうか。
日本の国の人口が1億人を超えている。
それくらいの数で、一つの国を作っていると信じることができる。
会ったことのない人の方が多いのに。
世界の人口は80億人に近い。
80億人で、一つの世界を作っている。
行ったことのない国の方が多いのに。
それだけではない。
私たちは、お金を使って生きている。
お金については、これは、私たちは自分が持っているから、見たことがないとは言えない。
しかし、お金は紙。
紙切れに紙切れ以上の値打ちがある。
一万円札は25.5円で作れる。
しかし、25.5円の価値ではない。
一万円の価値がある。
それを信じることができる。
見た限りでは、ただの紙切れなのに。
目に見えないものを信じることこそ、私たち人間の特権であり、力。
他の誰にもできない、神様が与えてくださった力。
私たちは、見ないで信じることができる。
私たちは、誰も生きておられた時のイエスを見たことがない。
でも、イエスがかつてこの地上に生きた方であると信じている。
その私たちに言われている。
見ないで信じなさい。
私の言葉を信じなさい。
そこに、奇跡が現れる。
無理なことが言われているのではない。
私たちにはできる。
私たちは、見ないで信じる生き方をしているから。
イエスの言葉を信じたい。
そこに、神の力が現れる。
そのような約束の中を、私たちは生きている。
目に見えない神様からの約束。
その約束を信じて、生きていこう。