毎週日曜は礼拝の日
羽生栄光教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる聖書と祈りの会がおすすめです。
- 日曜朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕方の礼拝
- 15時30分から16時30分
- こちらも必要なものは特にありません。お仕事などで日曜午前の出席が難しい方は、こちらの礼拝がおすすめです。
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主の2020年4月26日(日) 自宅での礼拝プログラム
賛美歌
聖書朗読 『フィリピの信徒への手紙』1章1~11節(新約 361ページ)
奨励 「善き業を始められた方」 (下記の奨励原稿をお読みください。「礼拝説教」の「夕方の礼拝」で音声を聞くこともできます。)
祈祷会 (一人で、あるいは家族でお祈りしてください)
主の祈り
奨励原稿(「礼拝説教」の「夕方の礼拝」で音声を聞くこともできます。)
羽生栄光教会の兄弟姉妹の皆さん、いかがお過ごしですか?牧師の村田です。自宅での礼拝では、『フィリピの信徒への手紙』からお奨めをしています。今日は、第1章3節から6節より、「善い業を始められた方」という題でお奨めをいたします。
3節と4節にこう記されています。
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
牧師の任務の一つは、「ゆだねられた群れのために、また群れと共に祈ること」です(『政治規準』第46条参照)。パウロはフィリピの教会を開拓伝道した牧師として、フィリピの信徒たちのことで神さまに感謝し、彼らのために喜びをもって祈っていました(使徒16章参照)。その事実を、パウロはフィリピの信徒たちに知らせるのです。わたしも牧師として、羽生栄光教会の皆さんのことで神さまに感謝し、いつも喜びをもって祈っていることをお知らせしたいと思います。
5節にこう記されています。
それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
ここには、パウロが神さまに感謝し、喜びをもって祈ることができる根拠が記されています。なぜ、パウロは、フィリピの信徒たちのことを思い起こす度に神さまに感謝し、彼らのためにいつも喜びをもって祈ることができたのでしょうか?それは、彼らが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。「最初の日」とは、フィリピの人たちがパウロから福音を聴いて信じた日のことでしょう。また、「今日」とは、パウロがこの手紙を書いている日のことでしょう。フィリピの信徒たちは、パウロから福音を聴いて信じた最初の日からパウロがこの手紙を書いている今日まで福音にあずかっている。それゆえ、パウロは彼らのことで神さまに感謝し、彼らのためにいつも喜びをもって祈っていたのです。
少し先の13節に「わたしが監禁されているのはキリストのためである」と記されています。パウロはこの手紙を牢獄の中で記しました。しかし、パウロは、フィリピの信徒たちが福音にあずかっているゆえに、神さまに感謝し、いつも喜びをもって祈ることができたのです。
では、彼らがあずかっている福音とはどのような良き知らせなのでしょうか?それは、イエス・キリストを信じることによって全ての罪が赦され、神さまとの平和が与えられ、神さまの子どもとして永遠に生きることができるという良き知らせです。その福音に、私たちも与っています。ですから、私たちも互いのことを思い起こして神さまに感謝し、互いのために喜びをもって祈ることができるのです。
6節にこう記されています。
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
「あなたがたの中で善い業を始められた方」とは神さまのことです。また、「善い業」とは、私たちがイエス・キリストを信じて福音にあずかる者とされたことを指しています。『ヨハネによる福音書』の第6章29節で、主イエスはこう言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。また、パウロ自身も、『コリントの信徒への手紙一』の第12章3節で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えないのです」と記しています。私たちがイエス・キリストを信じて、福音の恵みにあずかる者とされている。それは、私たち自身の力によることではありません。私たちの内で神さまがしてくださった、神さまの業であるのです。ですから、私たちの信仰が途中で無くなってしまうことはありません(ルカ22:32参照)。私たちの信仰は、私たちの内で神さまが始めてくださった善い業ですから、必ず、完成へと至るのです。
「キリスト・イエスの日」とは、イエス・キリストが栄光の主として再び来てくださる終わりの日のことです。私たちの信仰と信仰に基づく救いは、イエス・キリストが再び来てくださる日に完成されるのです。イエス・キリストの再臨の日に、私たちは聖霊の完全な御支配にあずかる栄光の体で復活させられ、新しい天と新しい地を受け継ぐ者となるのです(一コリント15章、黙示19~22章参照)。
信仰は神の業であるゆえに、私たちの信仰は終わりの日まで守られます(『ウェストミンスター信仰告白』第17章「聖徒の堅忍について」参照)。では、私たちは何もしなくていいのでしょうか?そうではありません。私たちは主の日ごとに、福音にあずかり続けねばならないのです。私たちは監禁されてはいませんが、コロナウイルス感染症のために、教会に集うことが難しい状況にあります。しかし、このような状況にあっても、私たちはそれぞれの自宅で礼拝をささげるべきです。それは、私たちが福音にあずかり続けるためです。牧師である私が、教会のホームページに、このような奨励を記しているのも、そのためです。私たちを福音にあずからせてくださったのは神さまであります。その神さまの恵みに感謝しつつ、私たちは神さまを礼拝し、福音にあずかり続けたいと願います。