毎週日曜は礼拝の日
羽生栄光教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる聖書と祈りの会がおすすめです。
- 日曜朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕方の礼拝
- 15時30分から16時30分
- こちらも必要なものは特にありません。お仕事などで日曜午前の出席が難しい方は、こちらの礼拝がおすすめです。
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主の2020年4月12日(日)イースター 自宅での礼拝プログラム
賛美歌
聖書朗読 コリントの信徒への手紙一15章35~43節(新約321ページ)
奨励 「復活のからだ」(下記の奨励原稿をお読みください)
祈祷会 (一人で、あるいは家族でお祈りしてください)
主の祈り
奨励原稿
今日は、教会の暦によるとイエス・キリストの復活を記念するイースターの礼拝です。それで今日は、『コリントの信徒への手紙一』の第15章35節から43節より、お奨めをいたします。
使徒パウロは、「復活」について記していますが、それはコリントの信徒たちの中に、「死者の復活などない」と言う者たちがいたからです(15:12参照)。コリントの信徒たちの中には、キリストの復活を否定する者がいました。また、キリストの復活は認めても、キリストを信じる者たちの復活を否定する者たちがいました。そのような者たちのことを念頭において、今日の御言葉は記されています。
35節に、「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」と記されています。復活を否定する者は、このように言って復活を否定していたのです。このことは、私たちにも興味がありますよね。「イエス・キリストを信じる者は、復活すると言うけれども、どのような体で復活するのだろう?何歳ぐらいだろう?」と色々と考えてしまいます。けれども、パウロの答えは少し冷淡です。「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」(36節)。ここでの「蒔く」「死ぬ」「命を得る」という言葉使いは、植物の種を土の中に蒔いて、その種から芽が出て成長していくことを背景にしています。パウロは、植物にたとえて復活の体について語っているのです。どのような体で復活するのか、それは死んで、葬られて、復活するときに初めて分かることなのです。そのことをパウロは、麦や穀物によって説明しています。「あなたがたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与えて、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。誰もが小学生の時に、アサガオやヒマワリの種を植えて、観察日記を書いたことがあると思います。アサガオの種を土の中に植えると芽が出て、茎とつるを伸ばしてアサガオの花を咲かせます。アサガオの種を蒔いてヒマワリが咲くことはありません。それは神さまが一つの種にはアサガオという体を与え、もう一つの種にはヒマワリという体を与えになったからだとパウロは言うのです。紀元1世紀のユダヤ人であるパウロは、神さまがすべてのものを造られたという創造信仰をもって、このように記すのです(創世1:11,12参照)。「どうして、違う花が咲くのだろうか」。それは神さまが御心のままに、一つ一つの種にそれぞれ体を与えになるからです。
また、パウロは、肉の違いから、復活の体について説明します。「どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います」(39節)。私たちは、牛や豚や鳥や魚の肉を食べますから、肉が違うということはよく分かります。しかし、ここでパウロは食事のことを言っているわけではありません。肉体、存在そのものについて言っているのです。私たち人間は水の中にいつまでもいることはできません。もしそんなことをすればふやけて、最後には腐敗してしまいます。しかし、魚はいつまでも水の中にいることができます。それは神さまが魚を水の中に群がるようにふさわしく造られたからです(創世1:20,21参照)。そのように神さまは、存在する領域にふさわしい体を造ってくださったのです。ですから、神さまは、私たちが復活して、新しい天と新しい地に住むときには、それにふさわしい体を備えてくださるのです。
さらにパウロは、天上の体と地上の体の違いに訴えて説明しています。ここでの体は「存在のあり方」と考えてよいと思います。「天上の体」で考えられているのは、太陽や月や星といった天体のことです(創世1:14〜18参照)。また、地上の体で考えられているのは、植物や魚や鳥や獣や人間の体のことです。神さまは、天と地のそれぞれにふさわしい体を備えてくださっています。そして同じ天体であっても、その輝きは違うのです。ここでパウロは何を言いたいのでしょうか?それは、私たちそれぞれが復活する。復活によって私たちの個性が失われることはないということです。今、生きている、この私が復活をするということです。他の人に復活するのではなくて、この私が復活するのです。
42節と43節は、今日の御言葉の結論です。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです」。パウロは、「死者はどんなふうに復活するのか」と問う人に「愚かな人だ」と言いました。しかし、ここでちゃんと答えてくれています。イエス・キリストを信じて眠りについた私たちは、朽ちない、輝かしい、力づよいものに復活するのです。それは、イエス・キリストが私たちの初穂として朽ちない、輝かしい、力強い体で復活してくださったからです(15:20参照)。そして、そのことは、私たちの身の回りにある被造物、植物や魚や鳥や獣や人間(自分自身)、さらには空に輝く太陽や月や星が教えていることであるのです。
今日、皆さんに覚えていただきたいことは、復活信仰の前には創造信仰があるということです。今日のパウロの言葉は、『創世記』第1章に記されていること、神さまが六つの日にわたって天地万物を造られたことを前提にしています。神さまが、見えるものも見えないものも、すべてのものを造られた。このわたしの体、心、すべてのものが神さまによって造られ、与えられている。この創造信仰なくして、復活信仰はないということです。私たちは、自分の体が神さまによって造られ、与えられていることを信じる者として、新しい天と新しい地にふさわしい体、朽ちない、輝かしい、力強い体で復活することを信じたいと願います。