神の約束に基づく幼児洗礼 2019年11月03日(日曜 朝の礼拝)
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神の約束に基づく幼児洗礼
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 2章36節~42節
聖書の言葉
2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。使徒言行録 2章36節~42節
メッセージ
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序
先程は、Yくんの幼児洗礼式を行いました。それで、今朝は、幼児洗礼についてお話したいと思います。
1 神の約束に基づく幼児洗礼
私たち日本キリスト改革派教会の憲法であるウェストミンスター小教理問答は、問94と問95で次のように問答しています。
問94 洗礼とは、何ですか。
答 洗礼とは、ひとつの礼典です。そのとき、父と子と聖霊の御名によって水で洗うことが、私たちがキリストにつぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものになると約束することを、表し証印するのです。
問95 洗礼は、だれに執行されるのですか。
答 洗礼は、可見的教会の外にいる人には、キリストへの信仰と服従とを告白するまでは、だれにも執行してはなりません。しかし、可見的教会の会員の幼児は、洗礼を受けなければなりません。
問94は、洗礼とは何かを告白しています。洗礼には、成人洗礼と幼児洗礼とがあります。成人洗礼とは、可見的教会の外にいる人がキリストの信仰と服従とを告白して受ける洗礼です。また、幼児洗礼とは、可見的教会の会員の幼児が受ける洗礼であります。洗礼には、成人洗礼と幼児洗礼があるのですが、その意味するところは同じです。つまり、成人洗礼であっても、幼児洗礼であっても、父と子と聖霊の御名によって水で洗うことにより、その人がキリストにつぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものになると約束することを表し証印する礼典であるのです。ただ、成人洗礼は、洗礼を受けるその人が、主のものになると約束するのですが、幼児洗礼は、洗礼を受ける幼児の親が、誓約いたします。幼児洗礼を受けた子供には、分別年齢に達した時に、自分の口で、成人洗礼の誓約と同じ六つの誓約をすることが求められます。そのことを信仰告白と言います。幼児洗礼を受けた人は信仰告白をすることによって、聖徒の交わりにおけるすべての特権にあずかることができるのです。特に、聖餐式にあずかることができるようになるのです。
私たち改革派教会は、教会員である親の願いに基づいて、幼児に洗礼を授けておりますが、幼児洗礼に反対する教会もあります。自分の口で誓約することのできない幼児に洗礼を授けるのはおかしいと考える人たちもいるのです。そのような人たちは、成人洗礼だけを有効であると考えます。しかし、私たち改革派教会は、幼児洗礼を授けています。それは、洗礼が人間の約束にではなくて、何よりも神さまの約束に基づいていると考えるからです。また、神さまの救いは個人に留まらず、その家族にも及ぶと信じているからです。
2 幼児洗礼についての聖書の教え
幼児洗礼についての聖書の教えは、式文の「式辞」の文書によく言い表されています。
「
二、式辞
日本キリスト改革派( )教会小会〔伝道所宣教教師〕は、信者である( )と( )との願いに基づき、契約の子( )に幼児洗礼を授けようとしています。
そもそも洗礼は、主イエス・キリストが制定された新しい契約の礼典です。わたしたちは、生まれながらに罪と咎と汚れのある者ですから、キリストの血と御霊によるきよめが必要です。洗礼は、この生まれながらの罪人がイエス・キリストにあって、新しい契約の民とされたことを示し証印する礼典です。
この礼典は、信仰を告白する信者と同様に、信者の子らにも授けられます。神は昔、アブラハムに対して、「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創世記17章7節)と約束し、その印として割礼をお命じになり、新しい契約のもとでは、洗礼を割礼に代わるものとされたからです。すなわち、主イエスは、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」よ(マタイによる福音書28章19節)とお命じになり、幼子を祝福して、「神の国はこのような者たちのものである」(マルコによる福音書10章14節)と言われました。使徒ペトロも、「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者にならだれにでも、与えられているものなのです」(使徒言行録2章39節)と言って、信じた者とその家族に洗礼を施しました。
このように、新しい恵みの契約も、父と子と聖霊なる神を信じる者とその子らとに結ばれており、そのしるしとして洗礼が幼児にも施されます。
」
この最後の文書が大切ですね。幼児洗礼は、神さまが、イエス・キリストにあって結んでくださった新しい恵みの契約に基づいているのです。そして、新しい恵みの契約の祝福は、イエス・キリストを信じる私たち(親)と、その子供にも及ぶのです。ですから、使徒パウロは、自害しようとしたフィリピの看守に対して、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と言ったのです(使徒16:31)。そして、パウロは看守とその家族に主イエスの言葉を語り、洗礼を授けたのです。その家族の中には、子供もいたと思います。このパウロの言動の根拠は、イエス・キリストにおいて結ばれた新しい恵みの契約にあるのです。イエス・キリストにあって結ばれた新しい恵みの契約の祝福は、私たち(親)だけではなく、その子供にも及びます。その神さまの恵みと憐れみが、幼児洗礼の土台であるのです。その神さまの恵みと憐れみを土台として、「親への勧め」がなされ、「親の誓約」がなされるのです。
「親への勧め」の一行目に、「愛する兄弟姉妹。神はこの礼典をとおして、恵みと憐れみを約束し保証してくださいますから、あなた〔がた〕も神への服従と献身を誓わなければなりません」とありますように、神さまは幼児洗礼をとおして、恵みと憐れみを約束してくださっています。その恵みと憐れみに応えて、親としての服従と献身を誓うわけですね。ここでも、先行するのは、神さまの恵みと憐れみであります。その神さまの恵みと憐れみにより頼んで、親は子供を契約の子として育てるのです。そのような親の養育を用いて、神さまが、契約の子を信仰告白へと導いてくださるのです。そのことは、式文の「祈祷」の文書によく言い表されています。
3 契約の子の教育
「祈祷」の文書の二段落目に「願わくは、子どもを育てはぐくむ親と教会を憐れみ助けてください」とあるように、契約の子供の教育は、親だけではなく、教会にもゆだねられています。それゆえ、教会は、子供を対象とした礼拝を毎週日曜日の9時15分からささげているのです。洗礼を受けた子供は、神の家の一員でありますから、親と教会は、幼子がイエス・キリストを、主また救い主と信じ告白するように教え育てねばならないのです(式文の「宣言」参照)。
契約の子供の教育については、『訓練規定』の第二章に「未陪餐会員の訓育」という題で、第5条から第9条に渡って記されています。
「
第二章 未陪餐会員の訓育
第5条(未陪餐会員の訓育)教会の子どもの霊的養育、指導および未陪餐会員の訓育は、まず親に神から委託されており、親は、その義務を神と教会に対して忠実にはたさなければならない。また真の信仰を家庭において増進させることは、教会の主要な義務である。
第6条(訓育の配慮)教会は聖書と教理問答書によって子どもを教えるために特別の備えをすべきである。この目的のために、小会は、その権威の下に日曜学校、または聖書学校等を設置し指導すべきであり、その他の有益な方法をも採用すべきである。
第7条(未成人の教会の子どもの指導)教会は、教会の子どもに対して、絶えず思いやりを持ち、彼らが分別年齢に達した時、主イエス・キリストを告白し、陪餐会員としてのあらゆる特権に加わるようはげますべきである。たとえ彼らが不従順であっても彼らを愛育し、また彼らを矯正するためにあらゆる手段を用いるべきである。
第8条(成人の未陪餐会員への配慮)教会はその監督と指導を素直に受ける成人の未陪餐会員に対して、特別の配慮を払わなければならない。教会は契約の下にある彼らの権利と特権について、くりかえしまた十分に説明しなければならない。また教会はかれらに契約に対する責任を軽視することの罪と危険とを警告しなければならない。
第9条(未陪餐会員への配慮)すべての未陪餐会員は、かれらが未成年者であって親と同居している場合には、親の所属する教会の配慮の下にあるものとする。その他の場合には、彼らの居住地の教会または、彼らが常に礼拝を守る教会の配慮の下にあるものとする。
」
第8条は、成人の未陪餐会員、すなわち、成人して信仰告白していない契約の子への配慮が記されています。ここで、私たちが心に留めたいことは、彼らも神さまの新しい恵みの契約の下にあるということです。父と子と聖霊の御名によって水で洗われた彼らは、キリストにつぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられた、主のものであるのです。神さまの恵みと憐れみは取り消されることはないのですから、私たちは、勝手に諦めてはいけないのです。神さまは、放蕩息子を待ち続ける父親のように待ち続けておられるのですから、私たちも契約の子供が教会へと帰って来ることを祈り続けたいと思います。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも・・・与えられているものなのです」(使徒2:39)。この聖書の御言葉を信じて、教会員皆で、心を合わせて、祈り求めたいと願います(マタイ18:19参照)。