武装解除されていたイスラエル 2021年3月17日(水曜 聖書と祈りの会)
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武装解除されていたイスラエル
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
サムエル記上 13章15節~23節
聖書の言葉
13:15 サウルは、自分のもとにいた兵士を数えた。およそ六百人であった。
13:16 サウル、息子ヨナタン、そして彼らの指揮下にいる兵はベニヤミンのゲバにとどまった。ペリシテ軍はミクマスに陣を敷いていた。
13:17 ペリシテ軍の陣営からは遊撃隊が三隊に分かれて出て来た。一隊はオフラへ通じる道をシュアルの地に向かい、
13:18 一隊はベト・ホロンへ通じる道に向かい、残る一隊は荒れ野の方角、ツェボイムの谷を見下ろす、国境に通じる道に向かった。
13:19 さて、イスラエルにはどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブライ人に剣や槍を作らせてはいけないとペリシテ人が考えたからである。
13:20 それで、イスラエルの人が鋤や鍬や斧や鎌を研いでもらうためには、ペリシテ人のところへ下るほかなかった。
13:21 鋤や鍬や三つまたの矛や斧の研ぎ料、突き棒の修理料は一ピムであった。
13:22 こういうわけで、戦いの日にも、サウルとヨナタンの指揮下の兵士はだれも剣や槍を手にしていなかった。持っているのはサウルとその子ヨナタンだけであった。
13:23 ペリシテ軍の先陣は、ミクマスの渡しまで進んで来た。サムエル記上 13章15節~23節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記上』の第13章15節後半から23節より、「武装解除されていたイスラエル」という題でお話しします。
サウルの王権が続かないことを告げたサムエルは、ギルガルからベニヤミンのギブアへ上って行きました。サウルが、自分のもとにいた兵士を数えると、およそ600人でした。サウルとヨナタンのもとには、合わせて三千人の兵士がいたのですが、ペリシテ人を恐れて散ってしまい、今や、五分の一の600人となっていたのです。サウルと息子のヨナタン、そして彼らの指揮下にいる兵はベニヤミンのゲバにとどまりました。ペリシテ軍はミクマスに陣を敷いていました。ゲバとミクマスは涸れ谷を挟んで、およそ3キロメートル離れていました。ミクマスにいるペリシテ軍の陣営から遊撃隊(「本隊」とは別に遊撃活動のために編成された「別働隊」)が三隊に分かれて出て来ました。ペリシテ軍の遊撃隊が、東から、北から、西からと、イスラエルの陣営に近づいて来ていたのです。
19節から22節は、当時のイスラエルの様子を伝えています。当時、イスラエルにはどこにも鍛冶屋がいませんでした。それは、ペリシテ人が、ヘブライ人に剣や槍を作らせてはいけないと考えたからです。イスラエルはペリシテ人によって武装解除されていたのです。ちなみに武装解除とは、「降伏した者や捕虜などから強制的にその武器を取り上げること。また、武力紛争が起こらないように戦闘のための装備を取り去ること」を意味します。ペリシテ人はイスラエルのどこにも鍛冶屋がいないようにして、イスラエル人が剣や槍を持つことができないようにしたのです。このようなことは、古代の世界において広く行われていたことでありました。『列王記下』の第24章に、エルサレムの人々が捕囚としてバビロンに連れて行かれたことが記されています。そこにこう記されているのです。旧約の622ページです。14節をお読みします。
彼(バビロンの王ネブカドネツァル)はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。
なぜ、バビロンの王ネブカドネツァルは、鍛冶を捕囚としてバビロンに連れて行ったのでしょうか。それは、ユダの人々が剣や槍を手にして、反乱を起こすことがないようにするためであったのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の447ページです。
当時、イスラエルにはどこにも鍛冶屋がいませんでした。それで、イスラエル人は、鋤や鍬や斧や鎌を研いでもらうために、ペリシテ人のところへ下るほかなかったのです。「鋤や鍬や三つまたの矛や斧の研ぎ料、突き棒の修理料は一ピムであった」とあります。「一ピム」とは、聖書巻末の「度量衡および通貨」によると、三分の二シェケルで、約7・6グラムであります。こういうわけで、サウルとヨナタンの指揮下の兵士はだれも剣や槍を手にしていなかったのです。では、他の兵士たちは、何を手にしていたのでしょうか。おそらく、兵士たちは、鋤や鍬や三つまたの矛や斧や突き棒などを武器として手にしていたのだと思います。その姿は、日本でいうところの農民一揆のようであったのです。ペリシテ軍は、兵士の数だけではなくて、その装備においても、イスラエル軍に対して圧倒的に優位であったのです。そのペリシテ軍の先陣がミクマスの渡しまで進んで来たのです。
今朝の奨励題を「武装解除されていたイスラエル」としました。今朝は、このことを、私たちキリスト教会に当てはめて考えてみたいと思います。私たちが戦っている戦いは、霊的な戦いであり、信仰の戦いであります。その戦いを立派に戦い抜いた人物として、聖書は使徒パウロのことを記しています。パウロは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために、牢獄に捕らえられました。それゆえ、パウロは自由に出かけて行き、福音を語ることができなってしまいました。そのようにして、悪魔は、パウロの働きを武装解除しようとしたのです。しかし、パウロは、牢獄の中で、テモテにこう書き送りました。新約の392ページです。『テモテへの手紙二』第2章8節と9節をお読みします。
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。
神の敵である悪魔は、パウロを鎖につなぐことによって、霊の剣である神の言葉を教会から取り上げようとしました(エフェソ6:17「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」参照)。しかし、神の言葉をつなぐことはできないのです。そして、実際、パウロは、牢獄の中で、教会に手紙を書き送ることによって、神の言葉を宣べ伝えたのです。神の言葉はつながれていない。このことを、私たちは、パウロが牢獄の中で記した手紙を読むことによって、体験として知ることができるのです。私たちはどうでしょうか。現在、私たちは新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、さまざまな制約の中で、礼拝をささげています。さまざまなことに自粛が求められる社会に、私たちは生きています。しかし、私たちは、今朝、神の言葉はつながれていないことを心に刻みたいと思います。神の言葉は生きて働く、命の御言葉であります。私たちが手にしているのは、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる生ける神の言葉であるのです(ヘブライ4:12参照)。その霊の剣である神の言葉を、私たちからだれも奪うことはできないのです。