まだ悟らないのか 2021年3月14日(日曜 朝の礼拝)

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まだ悟らないのか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章10節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。マルコによる福音書 8章10節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『マルコによる福音書』の第8章10節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.天からのしるし

 イエスさまは群衆を解散させられた後、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれました。「ダルマヌタ」という地名については、よく分かりません。ただ、「ファリサイ派の人々が来て」とありますので、ユダヤ人の土地であったようです。イエスさまは、異邦人の土地からユダヤ人の土地へと戻って来られたのです。ファリサイ派の人々、彼らは律法を熱心に守る真面目な人たちでありました。第2章1節から第3章6節には、イエスさまとファリサイ派の人々の論争がまとめて記されていました(罪を赦す権威について、罪人との交わりについて、断食について、安息日について)。ファリサイ派の人々は、イエスさまを安息日の掟を破る危険人物として、殺そうとしていたのです(マルコ3:6参照)。そのようなファリサイ派の人々が、イエスさまを試そうとして、天からのしるしを求めたのです。「天からのしるし」とは、イエスさまが神さまから遣わされたことを示す決定的なしるしのことです。ファリサイ派の人々は、イエスさまが神さまから遣わされたことを認めざるをえない決定的なしるしを、求めたのです。これまで、イエスさまは、神の国の福音を宣べ伝え、人々から悪霊を追い出し、人々の病を癒してきました。イエスさまは御自分において、神の国が到来していることを、悪霊を追い出し、病を癒すことによって示して来たのです。しかし、ファリサイ派の人々は、そのようなイエスさまの力ある業を、しるしとは認めませんでした(マルコ3:22参照)。それで、ファリサイ派の人々は、イエスさまを試して、天からのしるしを求めたのです。ファリサイ派の人々は、「天からのしるしによって、神さまから遣わされたことを証明せよ」と誘惑したのです。

 イエスさまは、心の中で深く嘆いて、こう言われました。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」。しるしを欲しがること、それはファリサイ派の人々だけではなくて、イエスさまの時代の者たち皆に言えることであったようです(一コリント1:22参照)。同じことが、現代の私たちにも言えると思います。「神がいるならば、その証拠を見せてほしい。その証拠を見れば、信じよう」。そのように言う人がいるならば、イエスさまは、その人にも、「はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と言われるのです。そもそも、「天からのしるしを見たなら、信じる」というのは、信仰ではないのですね。『ヘブライ人への手紙』の第11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあるように、見ないで信じるのが信仰であります。ですから、「天からのしるし」を求めるという態度は、信仰とは正反対の態度でるのです。天からのしるしを求める態度は、神さまに対して正しくない態度であるのです(創世15:6のアブラハムの態度の反対)。

 今の時代が、見ないで信じる、信仰の時代であることは、イエスさまにおいて到来した神の国が「すでに」と「いまだ」の緊張関係にあることに由来しています。神の国(神の王的な御支配)は、イエスさまにおいて「すでに」到来しましたが、「いまだ」完成しておりません。イエスさまにおいて到来した神の国が完成されるのは、イエスさまが再び来られることによって到来する新しい天と新しい地においてであります(黙示21章参照)。イエス・キリストにおいて到来した神の国は、「すでに」と「いまだ」の緊張関係にあるのです。それゆえ、私たちがイエス・キリストにおいて到来した神の国にあずかるには、見ないで信じる、信仰が求められるのです。

 イエスさまは、天からのしるしを求めるファリサイ派の人々を、そのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれました。22節を見ると、「一行はベトサイダに着いた」とありますから、舟で他の町へ行かれたのです。

2.ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種

 弟子たちはパンを持って来るのを忘れて、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていませんでした。そのとき、イエスさまは、弟子たちに、こう言われます。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。ここで、イエスさまは「パン」とは言わずに、「パン種」と言われています。「パン種」とは、パンを膨らませるイースト菌のことです。パン種によって膨らんだパンは腐りやすいことから、パン種は悪い影響を及ぼすものの象徴でありました(ガラテヤ5:9参照)。ここでもそうでありまして、ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種が、弟子たちの中に入るならば、弟子たち全体に、悪い影響を及ぼすのです。では、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」とは何でしょうか。いろいろなことが考えられると思います(ルカでは偽善、マタイでは教え)。ここでは、文脈から、「しるしを求める不信仰」と理解したいと思います。なぜ、しるしを求めることが不信仰なのでしょうか。それは、自分を神さまの上に置く行為であるからです(上から目線)。神さまに、「これこれのしるしを見せてくれるならば、わたしはあなたを信じます」と言う人は、自分を神さまの上に置いているのです。そのような「しるしを求める不信仰」に、私たちも気をつけなくてはならないのです。私たちの人生には、さまざまな困難があります。そのような困難の中で、私たちは、神さまにしるしを求めてしまうのです。「このようなしるしを与えてくだされば、神さまをもっと信じます」と考えるのです。しかし、そのような考え方は、その人自身を腐敗させてしまいます。さらには、教会全体を腐敗させてしまうのです。ですから、私たちは気をつけなければなりません。しるしを求める不信仰の言葉に耳を傾けるのではなく、神さまから与えられているしるしを信じる信仰の言葉に耳を傾けねばならないのです(教会に牧師が立てられている理由)。私たちに、神さまから与えられているしるしは、イエス・キリストの十字架と復活であります。神さまは、独り子を与えられたほどに、私たちを愛しておられます。また、イエスさまは、御自分の命を捨てられたほどに、私たちを愛しておられます。そのような確信を、私たちは神の霊である聖霊によって与えられているのです。

3.まだ悟らないのか

 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。このイエスさまの御言葉を聞いて、弟子たちは、自分たちがパンを持っていないからだと論じ合いました。その弟子たちに、イエスさまは、こう言われます。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。ここでイエスさまは、言葉を重ねて、弟子たちの理解の無さを嘆いておられます。このことは、イエスさまが弟子たちに、御自分が神さまから遣わされたメシア(救い主)であることのしるしを与えられてきたことと関係しています。これまで、イエスさまは、弟子たちに、御自分が神さまから遣わされたメシア(救い主)であることを、様々なしるしによって示してきました。その最たるものが、五つのパンで五千人を養うという奇跡であったのです。ですから、イエスさまは、「覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」と尋ねられたのです。それに対して、弟子たちは「十二です」と答えました。さらにイエスさまは、こう問われました。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは「七つです」と答えました。このことは、イエスさまがユダヤ人と異邦人からなるすべての民を、養われる王であることを示していたわけです。しかし、弟子たちはそのことを悟ることができませんでした。弟子たちは、イエスさまが五つのパンで五千人を養われたことも、七つのパンで四千人を養われたことも体験として知っていました。しかし、そのイエスさまが一緒におられるのに、弟子たちは、パンを持っていないことでうろたえているのです。弟子たちは、「五つのパンで五千人を養われたイエスさまが共におられるから大丈夫だ」とは考えなかったのです。弟子たちは、イエスさまが共にいてくださるにも関わらず、パンのことで心配していたのです。この弟子たちの姿は、私たちの姿でもないでしょうか。十字架と復活の主であるイエス・キリストは、聖霊と御言葉において、私たちと共にいてくださいます。しかし、私たちは、イエス・キリストが共にいてくださることを忘れて、しばしばうろたえ、心配してしまうのです。そして、自分に都合のよいしるしを求めたりするのです。そのような私たちに、イエスさまは、「あなたの罪のために死んで復活したわたしが共にいることを、まだ悟らないのか」と言われるのです。

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