四千人を満腹させたイエス 2021年3月07日(日曜 朝の礼拝)
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四千人を満腹させたイエス
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 8章1節~10節
聖書の言葉
8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。マルコによる福音書 8章1節~10節
メッセージ
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序.
今朝は、『マルコによる福音書』の第8章1節から10節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.異邦人の群衆を憐れむイエス
1節に、「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので」とあります。「また」「再び」と記されていることに、注意したいと思います。福音書記者マルコが、「また」「再び」と記すとき、それは、第6章に記されていた、イエスさまが五千人に食べ物を与えるお話しを踏まえているのです。それで、今朝は、少し長いですが、第6章34節から44節までを読みたいと思います。新約の72ページです。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え初められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。
福音書記者マルコは、イエスさまが五つのパンと二匹の魚で、五千人を満腹させたお話しを想い起こさせつつ、今朝の御言葉で、「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかった」と記すのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の76ページです。
群衆が大勢いて、何も食べる物がない。ここまでは、第6章の記事と同じであります。しかし、一つ大きく違う点があります。それは、今朝の御言葉に記されている群衆が、ユダヤ人ではない異邦人であったということです。このとき、イエスさまは、ガリラヤ湖の東側のデカポリス地方におりました。イエスさまは、ユダヤ人ではない異邦人の土地にいたのです。ですから、イエスさまのもとにいた群衆も、異邦人であったのです。ユダヤ人にとって、異邦人はまことの神さまを知らない汚れた民でありました。しかし、イエスさまは、弟子たちを呼び寄せて、こう言われたのです。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」。「群衆がかわいそうだ」と訳されている言葉は、元の言葉を直訳すると、「わたしは群衆を憐れむ」となります。そして、「憐れむ」とは、「腸が千切れる思いに駆られる」と訳される言葉(スプラングニゾマイ)であるのです。イエスさまは、第6章において、ユダヤ人の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれました(6:34参照)。そのイエスさまが、異邦人の群衆を深く憐れまれたのです。イエスさまは、ユダヤ人の群衆だけではなくて、異邦人の群衆をも深く憐れまれる御方であるのです。イエスさまが異邦人の群衆を深く憐れまれたのは、もう三日も御自分と一緒にいるのに、食べ物がないからです。この三日間、イエスさまと群衆は何をしていたのでしょうか。おそらく、イエスさまは、異邦人の群衆にも、神の国の福音をお語りになったのではないでしょうか。イエスさまは、異邦人の群衆の病を癒されただけではなく、御自分において神の国が到来していることをお語りになったと思うのです。イエスさまは、異邦人の群衆を解散させるにあたって、一つの心配がありました。それは、空腹のまま帰らせると、自分の家に帰る前に倒れてしまうのではないかという心配であります。イエスさまは、群衆の中に、遠くから来ている者たちがいることを知っていたのです。
2.異邦人の群衆を養うイエス
弟子たちは、イエスさまにこう答えました。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」。この弟子たちの言葉を聞いて、私たちは不思議に思うのではないでしょうか。弟子たちは、イエスさまが五つのパンと二匹の魚で、五千人を満腹させたことを知っていたはずです。しかし、そのことがまるで無かったかのように、弟子たちは、イエスさまに答えているのです。このことは、群衆が神の民ではない異邦人であったからかも知れません。第6章において、群衆のお腹の減り具合を心配したのは弟子たちでした。しかし、今朝の御言葉では、三日も経っているのに、弟子たちは群衆のお腹の減り具合に、まったく関心がないのです。ユダヤ人である弟子たちは、異邦人の群衆が、ユダヤの群衆と同じように、イエスさまの養いにあずかることを嫌がったのではないでしょうか。それで、弟子たちは、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言うのです。
イエスさまが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言いました。そこで、イエスさまは、群衆に、地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになりました。ユダヤ人たちである弟子たちは、異邦人である群衆が、イエスさまの養いにあずかることを嫌がったかも知れません。しかし、その弟子たちを用いて、イエスさまは異邦人の群衆を養われるのです。イエスさまは、父なる神さまに感謝の祈りをささげることにより、異邦人の群衆を養われているのも、御自分の父なる神であることを示されたのです。
イエスさまのもとにいた異邦人の群衆は、およそ四千人でありました。その四千人が食べて満腹したのです。めいめいが少しずつ食べたというのではなくて、お腹いっぱいに食べたのです。そして、残ったパン屑を集めると、七籠になったのです。第6章で、イエスさまがユダヤ人の群衆を満腹させられたとき、パン屑と魚の残りを集めると、十二の籠いっぱいになりました。「十二」という数字は、イスラエルの十二部族を想い起こさせます。イエスさまが与えられるパン、そのパンに象徴される命の恵みは、イスラエルのすべての人々に豊かに与えられるのです。また、今朝の御言葉で、イエスさまが異邦人の群衆を満腹させられたとき、残ったパン屑を集めると、七籠になりました。「七」という数字は、すべての民族を表す70という数字と関係があります。ユダヤ人は、すべての民族は70の民族からなると考えていました。『創世記』の第10章に、「ノアの子孫の系図」が記されています。その「ノアの子孫の系図」から、ユダヤ人はこの世界の民族は、70の民族からなると考えていたのです。ですから、「残ったパン屑を集めると、七籠になった」という記述は、イエスさまの命の恵みが、すべての民族に与えられるほど豊かであることを示しているのです。
3.異邦人を神の子とされるイエス
今朝の御言葉、イエスさまが四千人もの異邦人を満腹させたお話しは、第7章からの流れの中にあります。第7章において、イエスさまは、「人を汚すのは、外から腹の中に入る食べ物ではない」と言われました。そのように言われて、イエスさまは、御自分において、食物規定を廃棄されたのです。旧約聖書には、食べてよい清いものと、食べてはいけない汚れたものについて定められていました(レビ11章参照)。このような食物規定は、ユダヤ人と異邦人との交わりを妨げるものでありました(使徒10:28参照)。しかし、イエスさまは、「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことはできない」と言われて、食物規定を廃棄されたのです。その後、イエスさまは、異邦人の土地であるティルスの地方へと行かれます。そして、異邦人であるシリア・フェニキアの女に、「娘から悪霊を追い出してください」と頼まれるのです。すると、イエスさまは、こう答えられました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。ここで、イエスさまは、パンを与える順序があることを教えられました。イエスさまは、御自分が与える救いは、ユダヤ人だけのものだと言われたのではありません。そうではなくて、「まず子供に、それから小犬に」と言った順序があることを教えられたのです。ところが、女はこう答えて言ったのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。女は、自分が小犬であることを認めて、子供が落とすパン屑をいただきたいと願うのです。イエスさまは、その女の信仰に応えて、彼女が願ったとおり、娘から悪霊を追い出されたのです。さらにイエスさまは、ティルス地方を去り、シドンを経て、デカポリス地方のガリラヤ湖畔へ来られました。そこで、イエスさまは、異邦人たちの願いを受けて、耳が聞こえず、舌の回らない異邦人を癒されます。イエスさまは、異邦人たちが、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と言わずにはおれないほどの力ある業を行われたのです。そして、今朝の御言葉では、異邦人の群衆を、七つのパンと少しの魚で満腹にさせられるのです。そのようにして、イエスさまは、異邦人が汚れた民ではないことを弟子たちに教えられたのです。
イエスさまは、シリア・フェニキアの女に、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われました。私は、このイエスさまの御言葉について説教したとき、「『使徒言行録』を読むと、イエスさまが言われたとおり、ユダヤ人から異邦人へとパンに象徴される命の恵みは広がって行ったことが分かる」と申しました。しかし、『使徒言行録』を待つまでもなく、イエスさまは、今朝の御言葉で、異邦人たちを豊かに養われるのです。イエスさまは、まず第6章で、ユダヤ人の群衆である五千人を養われました。そして、その後の第8章で、異邦人の群衆である四千人を養われたのです。このことは、イエスさまの御言葉、「まず子供にパンを与え、次に小犬にパンを与える」に対応しています。しかし、そこに分け隔てはありません。イエスさまは、異邦人の群衆を、ユダヤ人の群衆と同じように、養われたのです。つまり、イエスさまは、御自分に依り頼む異邦人を、神の子供たちとして養われたのです。イエスさまは、御自分に依り頼む異邦人を神の子供として、憐れみ、養う御方であるのです。
結.ユダヤ人も異邦人もない交わり
イエス・キリストの使徒パウロは、教会の交わりにおいて、ユダヤ人も異邦人もないと記しました(ガラテヤ3:28「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」参照)。それは、教会の頭であるイエスさまが、ユダヤ人と異邦人を分け隔てなく、神の子として養われたからです。そのことが、はっきりと示される時と場が、ユダヤ人と異邦人からなる教会で祝われる主の晩餐であったのです。ユダヤ人と異邦人が食事を共にすることは、当時は考えられないことでありました。しかし、その考えられないことが、キリストの教会において起こっていたのです。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストがユダヤ人も異邦人も同じように、神の子供たちとして養ってくださったからです。私たちも旧約の区分で言えば、異邦人であります。その私たちが、聖餐の恵みにあずかっていることは、イエスさまにあって、私たちが神の子供たちとされ、復活の命に養われていることを示しているのです。私たちは今、コロナウイルス感染症拡大防止のために、聖餐式にあずかることができません。けれども、私たちは、今朝、私たちが神の子として、イエス・キリストの復活の命の恵みにあずかる者であることを心に刻みたいと願います。